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カーテン
 

  ハンググライダーで空を飛ぶのよ、と彼女は言った。私と彼女の他には誰もいないプラットホームで、ベンチに座って足をぶらぶらさせながら。ハンググライダーを作って、あの崖から飛び降りて、自由な世界を飛び回るのよ、と。勿論これは、夢の中の世界での話。瞳を輝かせて語っている彼女は、どこかで見たことはある顔だけれども、誰だったのかは思い出せない。私は、彼女に対して何と答えたのだろうか。多分、そんなの無理に決まってるじゃない、それに私には、空を飛ぶことが危険を犯してまでするだけの価値があるとも思えないわ、とか言って笑ってみせたような気がする。
 そして私は耳を切り裂くような目覚まし時計の音で起こされる。眠い目をこすりながらベッドから出て、石油ストーブに火をつけた。箪笥から服を一セット掘り出し、ストーブの柵に掛け、服が暖まるまで暫し待った。
 窓の外で強い風が吹いている気配をカーテン越しに感じた。日めくりカレンダーの今日の分をめくって小さくため息をついた。すぐに気を取り直して、鼻歌を歌いながらパジャマを着替えた。暖まったセーターが体に染みて嬉しかった。簡単にベッドメーキングを済ませると、ちょっと迷ってカーテンは開けずに、朝食を作りに台所に行った。何となく冷蔵庫を開けたけれどいつもと同じでろくなものが入ってない。ストッカーを開けてみると布袋の中に賞味期限が切れたような菓子パンの袋を幾つか見つけることが出来た。結局それを一つかじりながらソファーに寝転がった。パンはやたら甘くて、少し紙臭くて、着色料やら香料やらが相当入っているような味がした。粉砂糖のついた手を洗うと、部屋に戻る気にもなれなくて、ソファーに座ったままクロスワードパズルの本を開いた。
 今手をつけているパズルは、始めてからもう5日目になる。この本の中で、こんなにてこずったパズルは初めてだ。後の問題になればなるほど難しくなっていくのだ。その本はまだ半分も終わってないというのに、最後まで全部解き終わるのに一体何日かかるのだろうと考えると、気が重くもあり、また楽しみでもあった。
 取り掛かって間もなく、私は辞書を部屋に忘れてきたことに気づいた。私としたことが、朝食を食べるときに持ってこなかったのは不覚だった。私は部屋に戻るのが嫌だった。窓のない台所のほうがずっといい。小さい頃から地下室とかベッドの下とか狭くて暗いところが好きだった。特に押し入れは一番お気に入りで、押し入れの湿った蒲団の上に丸まっていると、母の子宮の中にいるような心地好い安心感があった。でも何となく、怖いもの見たさというか、現実と完全に離れてしまう恐ろしさみたいな気持ちがあって、眠る時だけは二階の、窓のある部屋に行くことにしている。カーテンの向こうには私を押しつぶしてしまうほど広い世界がある、と思うと、怖くてなかなか寝つけない。ベッドに深く潜り込んで暖かさを確かめるとやっとうつらうつらしてくる。小さい頃はよく夢でうなされたものだった。
 夢の中に出てくるのは決まって、どこかの険しい崖の上に作られている、駅のプラットホームだった。崖に沿って莫迦に長くて、そのくせひとけは殆どない。私以外の人間は一人たりとも見えない時も稀ではなかった。そこではいつも、信じられないほど強い風が吹いていて、激しい砂埃がたっていた。私には駅の近くに建物があるのかどうかも、線路がどこに繋がってるのかも、確認することが出来なかった。あの線路は、もしかして崖の斜面で切れてるのかもしれない、なんて想像してみたりもした。
 私は金縛りにあったように動けない。やがて電車が入ってくる。私は何者かの力によって、その電車に乗せられそうになる。私は必死で抵抗した。電車に乗ってしま
ったら、電車ごとあの崖の下に落ちて、そのまま二度と夢の中からいつもの世界に戻れないような気がした。全身の力を込めて体を動かそうとする。中指がわずかに動く。続いて手首。目をつぶっている筈なのに、部屋の中で揺れるカーテンの幻覚が見えてくる。もう少し。二の腕が10センチぐらい動いた。途端に目の前がジェットコースターに乗ったみたいにぐるぐる回り出す。遠心力でシートベルトが切れたように、私は空中に放り出される。緊張していた筋肉が緩まり、無様に着地すると同時に目が覚める。額から冷や汗が流れ落ちる。それを拭き取る気にもならずに、しばらく私は荒れ狂う砂埃の音を聴いていた。
 辞書がばさりと音をたてて机から落ちた。私は拾わなかった。辞書を取りにこの部屋に来たのだということを完全に忘れていた。思えばこの時間帯に部屋に来たのは、以前に来たのがいつだったか思い出せないほど、久しぶりだったのだ。風の音が朝夕と全然変わらないことに密かに幻滅した。
 私は思いついてカーテンを開けてみた。そこにはいつもと同じ、さほど珍しくもない冬の荒れ地のような風景が広がっている。でも、その荒れ地の風景は、私の心をじわじわととりこにして、そのまま私を寒さの中に引きずり込んでしまいそうだった。いつもなら、ここですぐに目をそらして、カーテンをぴっちりと閉めてしまうところだ。でも、今日は何だか強気な気分で、あえて目をそらさなかった。地面にはわずかに雑草が生えていて、所々灰色の雪らしきものが残っていた。強い風で所々砂埃がたっている。屋根に巣を作って住みついている蜂が十、二十匹、窓枠をつつくように飛んでいた。ぶんぶんという羽音が今にも聞こえてきそうだ。私はぞっとした。昔から虫は大嫌いなのだ。でも、大丈夫、この窓が永久に私と蜂を隔ててくれる。そう、永久に。
 私はカーテンを閉めた。窓の外の景色は長い間見続けるためには懐かしすぎて、それ故に心を蝕む。まだ人類が生まれるずっと前の大地とは、きっとこんな景色だったのではないかと思う。だからこのように不思議な懐かしさが湧き出てくるのだ。私達の遺伝子に刻まれた太古へのノスタルジアが、母なる大地をこのような本来の形に戻したのかもしれないと思いついた時、私の奥深く見えないところで何かが少し動いたような気がした。
 私は幸せだと思っていた。守られているという幸せ故に、暖かさと仄かな不安が混じり合って、この懐かしさのような不思議な感情を構築しているのだ。カーテンの向こうには全ての元型があり、いつでも私にある種の優しいデジャヴーを与えてくれる。私が恐れていたものは、ささやかな幸せに満ちた今の生活に疑問を持たざるを得ない自分自身てあったのだと思う。そして、それに気付いてしまった以上、もう逃げる必要はない、次にここで目覚めたときは、真っ先にカーテンを開けられるかもしれないと思った。
 その夜、私はいつものように蒲団をかぶって目を閉じた。出来るだけ何も考えないように、頭の中を真っ白にした。目の前に、揺れるカーテンの幻影があらわれた。サーモンピンクのカーテンは、揺れる度に少しずつ暗い色に変わっていき、静脈血のような不気味な色を経て、ついには無のような真黒になった。私は、膨張する闇に吸い込まれ、不意に意識が途切れた。
 ハンググライダー、成功したのよ。と彼女の声がした。私が気が付いて起き上がると、彼女は私の手を引いて、崖の近くまで引っ張って行った。二回目は一緒に乗ってみない?と。
 見ると、そのハンググライダーの羽根には布も何も張っていない、ぴかぴかの鉄パイプを組み合わせた、骨組みだけのハンググライダーだった。馬鹿言わないでよ、と私は笑った。そんなもので飛べるわけないじゃない、それで崖から飛び降りたならば、そのまま真っ逆さまに落ちて、二度と生きては戻れないに決まってる、と。
 それが飛べたのよ、さっき一回試したもの、と彼女。ここに体を縛りつけて、助走を十分につけてから崖から飛び降りたの。すると、最初はね、ぐんぐん落ちていくばかりで、もう駄目かなあって思ったわ。でも、次の瞬間に突然、体に凄い重力がかかって、ぐいって、天地が逆さまになるような感じになったの。あまりにも向かい風が強くて、私は思わず何秒か目をつぶったわ。そして目をあけてみた時には、ハンググライダーは見事に風をつかんで、大空を飛んでいたのよ。
 いったん飛び始めるとね、どうやら私一人では軽過ぎたみたいなの。あ、と言っても、別に痩せてるとか太っているとか言ってる訳じゃないわよ。私がもうそろそろ降りたいなって思っても、なかなか高度を下げられなくって大変だったわ。ちょっと気を抜くとすぐに、下がるどころか上がっていってしまうし、横に揺れないようにコントロールするのにも四苦八苦だった。
 だから、きっとあなたと二人で飛べば重さ的にはだいたい二倍になるから、安定してちょうどいいと思うのよ。ねえ、やっぱり今から試しに一緒に乗ってみない?
 私は、自分の心臓が今までにないくらいどきどきするのを感じた。私の返事も待たずに、彼女はもう飛び降りる準備をしていた。所定の位置にロープで体を縛りつける。そして急かすような表情でに私の顔を見た。私は迷った。しかし、見えない力に引きずられるかのように、深く頷いた。私は、彼女のとなりのスペースに体を滑り込ませ、ロープを縛った。崖の向こうの地平線に沈む太陽を見ながら、二人三脚のように助走をつけた。そして私達二人は、掛け声に合わせて、骨組みだけのハンググライダーで、崖の上から、遥か下の地面に向かって飛び降りた。
 


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