(続き)

 悪友の家のの畳の上で目を覚ましたのは翌日の夕方だった。結局、徹夜で打ってトータルで三千円負け。後味の悪いゲームばかりしてしまった。調子が悪かったのはシロのことが気になっていたからだろう。
 アパートに帰ると、玄関のノブに手をかけた時から、昨日までと何かが違う気がした。部屋全体の空気が冷たくて静かだった。
 中に入って理由が分かった。いつもの声がしなかった。「お帰りなさい」という声が。
 シロはいなかった。出ていってしまったのだろうか。いや、散歩に行っているだけかもしれない。陽にあたらない室内だけで暮らすのは体に悪い。今までも、俺が知らないだけで散歩ぐらいには行っていたのかもしれないじゃないか。
 自分に言い聞かせながら、部屋に上がる。机の上に置かれた紙を見て、呆然となった。
『カマキリが来た』
 一言、鉛筆でなぐるように書いてあった。汚い字だった。シロが書いたんだ。
 俺は再び家を出た。シロが居そうな場所は一カ所しか思い浮かばなかった。その場所に居るかどうかはわからない。でも、どこかは探さないと気が済まない。駆け足で電車に飛び乗る。間に合うだろうか、昆虫館の閉館時間に。
《入場は閉館時間の三〇分前で締め切らせていただきます。》見えないくらい小さな字で書かれたチケットを買ったのが、閉館時間の三五分くらい前だった。どうにかギリギリで着いた。今月のテーマは「熱帯の蝶」だそうだ。ギアナ産レテノールモルフォの鮮やかな青、北インド産エドワードサンの羽に描かれた蛇の頭のような模様、ボリビア産のベニモンスカシジャノメの桜色、この前とはうってかわって華やかな展示室を大急ぎで通り過ぎて、体験コーナーへ走る。
 館内に、客は殆ど居なかった。体験コーナーでは職員らしきおじさんが一人、作業をしているだけだった。
 俺は、スコープに目を近づけ、スタートボタンを押した。しかし、いつまで経っても目の前には黒と白の砂嵐が広がっているだけだ。
「ああ、ごめんなさい。今、ビデオは見られないんです。」
 おじさんに、背中を軽くたたかれる。
「え?」
「今、メンテ中なんですよ。月が変わったんでね。明日から新しい映像にしなくちゃいけなくって。さっきフォーマットしちゃったばっかりなんですよ。すいませんねえ。」
「はあ、そうですか。」
 一気に気が抜けた。元気なのかそうでないのか、どちらにしてもシロの姿を確かめられることを確信していたのに。足に力が入らなくて、膝からふらっと倒れそうになった。
「あれ、もしかしてこの前、『二十二世紀』の取材で見えた方ですか。」
 二十二世紀とは、俺が時々編集を手伝っている小学生向けの科学雑誌の名前だ。最初にシロの映像に出会ったのはこの取材の時だった。そういえば見覚えのある人だ。黒縁の四角い眼鏡と、色あせた緑色の運動靴。確かに、あの時インタビューした職員はこのおじさんだった。ラッキーかもしれない。雑誌の話を出せば、質問が断然しやすくなる。
「はい、そうです。ええと、このビデオのことを今度のコラムで使わしてもらおうと思って来たんですけど……。」
「申し訳ありませんけど、もう消しちゃったからねえ。今から今月の映像を入れ直すんですけど、そっちの番組じゃ駄目ですか。」
「前の映像は、もうどこにも残ってないんですか。」
「そうですねえ、たしか、これって昔NHKの教育テレビでやっていた番組の使い回しなんですよ。だからNHKに問い合わせれば分かるかもしれません。」
 言われてみれば、いかにも教育テレビで平日の午前中にやっていそうな内容だった。使い回し、という表現に嫌悪感を覚える。一度全国にたれ流された映像が、昆虫館で二ヶ月間、毎日のようにスコープの中で上映される。画質が劣化するまで、何万回も繰り返しシロがカマキリに襲われる。
「そうですか。じゃあ、いいです。今回は何か他のネタで書きます。また何かあったらよろしくお願いします。」
「お役に立てなくてすみませんねえ。」
 NHKに行ってみようか、という考えも少しだけあった。そうすれば、もう一度蝶の姿をしたシロを見られるだけでなく、役者の名前も分かるかもしれない。一応出演しているのはプロの役者なんだろうから、他の番組にも出ているのだろう。でも、あのビデオをもう一度見たところで何になるだろう。況や役者を見つけたところで、僕の記憶の中の彼女を壊す以外の結果を生み出すことがどうしてあり得よう。シロは、カマキリに食べられて消えてしまったのだ。もう、戻ってはこない。そして、彼女が逃げ切れなかったのは、多分俺のせいなんだ。自業自得じゃないか。
 閉館の音楽が流れ出した。遠き山に陽は落ちて。どうしてこう、閉館の音楽とか、小学校の下校時刻の音楽とかは、昔から淋しい曲が選ばれるのだろう。とってつけたような寂寥感が耳障りだ。俺は昆虫館をいそいそと出て、帰りの電車に乗った。
 家に帰りたくなかった。家に帰っても誰もいない。二ヶ月前まではそれが当たり前だったはずなのに、一人の部屋を想像するとどうしようもなく身体が寒くなった。 
 駅前のスーパーの前で、威勢の良い店員が拡声器で叫んでいる。タイムサービス大安売り、明日が定休日につき、生鮮品全て半額。賑やかな雰囲気にひかれて中に入る。なんとなく500ミリリットルの発泡酒を二本買って、児童公園のベンチに座る。
 缶を開けると泡が溢れてきた。公園に来るまでだいぶ振動を与えてしまったらしい。手が濡れるのもお構いなしに、一気に半分ぐらい飲んだ。頬までが泡だらけになった。頬が濡れている感覚って、まるで泣いているみたいで、触覚的にも精神的にも気持ち悪い。
「お兄ちゃん、おいしそうなの持ってるねえ。一緒に飲まない?」
 赤い顔をしたホームレスのおっさんが近寄ってきた。前に声をかけてきたのと同じ人だ。安いアルコールの臭いがぷんと漂ってくる。片手のビニール袋に未開封のワンカップ大関を持っているのが透けて見えているのに、物欲しそうな目で地面にこぼれ落ちた泡を見ている。
 俺は断る気力もなくて、もう一本の発泡酒をおっさんに渡した。
「乾杯。」
 おっさんは、満面の笑みを浮かべつつ、ものすごい早さで缶を軽くしていく。
「お兄ちゃん、元気ないねえ。さては失恋かい?」
「……いいえ。」
 俺は失恋したのだろうか。近いかもしれないけど違う。少し考える。おっさんにだったら、非常識な事実を言ってしまってもバカにされないだろう。アル中おやじのことだ、明日になったら忘れてしまうに違いない。誰かに向かって吐き出さないと気が狂いそうな今、いい機会だと思った。
「一緒に住んでいた女の子が、カマキリに食べられて、いなくなっちゃったんですよ。」
 俺の「彼女」が、と心の中で言いかけて「女の子」に訂正した。恋人ではない。シロに対していわゆる恋愛感情を持ったことは一度もなかった。ただ気が付くと空気のようにそこにいただけだ。
「ああ、ああ、よくあることだ。」
 アル中おやじは大きな口を開けて笑う。
「よくある?」
「オレなんかよお、女房もサオリもユキマサもカマキリに食われちまったさ。オレが失業してからねえ。」
 サオリとユキマサは、多分子どもの名前だろう。おっさんの年齢から予想するに、小学生か中学生ぐらいかな。
「違う。」
 反論しようとした。そんな比喩的なことを言っているのではない。俺のシロは本当に、本物のカマキリに食べられてしまったんだ。
「違わねえ、違わねえ。」
 からかうような口調にムッとして顔を上げると、おっさんは意外にも、びっくりするほど淋しそうな笑い方をしている。俺はちょっと背筋が寒くなった。
「カマキリの奴、最近はオレのことまで狙いだしてよお、朝起きると、こう、目の前でカマを振り上げて。」
 最後の頃は言葉になっていなかった。言葉の続きのように発泡酒の残りをぐびぐびと飲んでいる。
 カマキリに食べられた奥さんと子供。今にも食べられそうなアル中おやじ。そしてシロ。ひょっとして、それほど遠くはないのかもしれない。むしろ、殆ど同じなのではないか、そんな気もした。
「しかしなあ、奴はアルコールが嫌いらしくて、オレが酒を飲んでいる間は近づかないんだ。今もあのビルの上で、オレの酔いが醒めたら襲いかかろうとして、じっと待ってるんだぞ。」
「はあ。」
 首を傾げる俺を一瞥し、缶を振って残り2、3滴の液体を全て飲み干した。ビニール袋から更にもう一本、ワンカップ大関を取り出し、素速くふたを開けて口を付ける。なんつう恐ろしいペースだ。この人が肝硬変になるのは時間の問題だろう。
「あんたもカマキリに狙われてるクチかい?」
 俺は……。俺はゆっくり首を横に振った。おっさん達の気持ちは順序を追えば理解できなくはない。でも、自分にはない感情だった。絶望的な気分になった。

 自分の部屋に灯りがついているのを見て、心臓が縮んだ気がした。
 まさか。シロが戻ってきたのだろうか。彼女は消えてしまったはずなのに。いや、都合の良い想像は、外れたときのショックを大きくするだけだ。電気をつけっぱなしで出かけたのかもしれない。かなりあわてていたのだからそれが一番あり得る答えだった。
 彼女が帰ってきているなんてあり得ない。そう思いこもうと努力しながらノブをまわす。
「お帰りなさい」
 女の子の声がした。そんな、嘘だ。
 おそるおそるドアを開け、中に入る。
「鍵、開いてたから勝手に入っちゃったよ。本当、不用心ねえ。ま、盗まれて困るものなんて、この家にはないか。」
 誰の声なのか、最初はよく分からなかった。真っ白になった脳味噌で、玄関に立っているその姿をしばらく見ていた。ユカだった。
「何だ、ユカか。」
 ホッとしたような、残念なような、複雑な気持ちがした。シロが帰ってくることを期待しつつも、どこかで恐れていたのかもしれない。
「何だとは何よ。……うわ、アルコール臭っ。相変わらず酒癖悪いのね。」
「うるせえな。」
 乱暴に靴を脱ぎ、畳の上に寝っころがった。ここ最近のいろいろな映像が頭の中をぐるぐる回っていて、落ち着くまでしばらく時間が必要だった。俺はここは俺の家。そして俺は俺だ。それは確かに寂しくて不安なことだった。でも、その反面、久しぶりに帰るべき場所に帰ったようなのびのびとした気分になった。
 お茶を入れるのにお湯を沸かすのが面倒だったので、マグカップ二つにに水とインスタントコーヒーの粉を入れて電子レンジで加熱した。ほのかに香ばしくてスパイシーな香りが漂ってくる。
「で、何。相談っていうのは。」
「私、今日からここに住むことにしたから。」
「へ?」
 どこかで聞いたことのある言葉。ほんの2ヶ月前に、聞いたことのある台詞だ。シロの横顔がよぎる。いいや、シロとは違う。違わなくてはいけない。
「転職決まったの。真田駅のすぐ前にある日本データネットワークって会社。ここからだったらバスで5分くらいでしょう。」
「ああ。」
 言おうとした台詞を飲み込んだ。とんでもなく気障な台詞だったので、もし本当に口に出してしまっていたら、またバカ笑いされただろう。
 今は言わなくていい。まだ言う必要はない。でも、もしも万が一ひょっとして、ユカのもとにカマキリが訪れるなんてことがあったら、その時は堂々と言おう。俺にとってユカがどれほど大切な存在なのかを。そして俺が、心の底からユカにそばにいて欲しいと思っていることを。
「やあだケイ、何にやけてんの?」
「にやけてなんてねえよ。」
 電子レンジがコーヒーの出来上がりを告げる。片方のカップをユカの前に突き出す。
 今の俺になら、カマキリは退治できる。いや、これから先だって、カマキリを退治する力を失いたくない。失ってたまるかと、心の中で何度も繰り返していた。
<END>


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