(続き)

 玄関を開けて一歩進んだ瞬間、立ちすくんだ。ドアも窓も鍵がかかっていたはずなのに、女の子が一人座っているのだ。しかも、短パンにタンクトップという下着同然の格好で。
「お帰りなさい。」
 振り向いた顔を見て、ぎょっとする。なめらかな肌に大きな瞳。着ぐるみをつけていないけど、間違いない。その顔は、昆虫館のビデオに出てくる、あの蝶の役の女の子だった。
「お帰りなさいって、おい。」
「あたし、今日からここに住むことにした。」
 俺の目をまっすぐ見て、当たり前のように言い切った。タンクトップの色に溶けそうなほど白くて細い首筋と、すっと伸びた綺麗な足にドキドキする。思考力を失いそうだ。あわててタンスを開けて、適当なTシャツとズボンを放り投げた。
「とりあえず、それ着て。」 
「寒くない。」
「あのね、寒くなくても着るの。着ないと追い出すぞ。」
 彼女は、不思議そうに肩をすくめながらも、Tシャツに手を伸ばした。頭をくぐらせ、右手を出す。かなりだぶだぶになってしまうだろうが、着てないよりずっと精神衛生にいい。
 と、その時になって初めて気付いた。彼女には、左腕がなかった。根本からすぱっと切れている。まるで粘土で出来た人形をカッターで切ったみたいに、特に痛々しくもなく、ただあるべき場所が空白になっているといった感じだった。
「その腕。」
「え?」
 彼女は、右手だけを器用に使って、ズボンに足を入れる。やっぱりぶかぶかだ。裾は折ればいいとして、ベルトは必須だろう。
「その腕、どうしたの?」
「カマキリに食べられた。」 
「カマキリ?」
「うん。」
 冗談かと思って、思いっきりバカにした口調を投げつけた。顔を上げてはっとした。こいつの目、マジだ。まさか。
「カマキリから逃げてここに来た。だからあたし、ここに住むの。」
「そんな無茶苦茶な」
「よろしく。」
 微笑。ビデオと全く同じ不思議な微笑。
 ふっと息をつく。まあ一日ぐらい、という考えのほうが優勢になってきた。カマキリだかな何だかは知らないけど、とにかく事情があって家に帰れないのだろう。どんなに長くて二、三日、うちに泊めてあげても俺は困ることはない。
「名前は?」
「シロ。」
 白。モンシロチョウの白なのかな。
「俺はケイ。」
 あの大きな瞳で頼まれてしまうとどうも調子が狂う。家に帰ると可愛い女の子がいるのもなかなかいいものかもしれない。俺は、軽い気持ちで頷いてしまった。そして、六畳一間のアパートの住人は、今日から二人になった。

 シロは水の他は何も口にしなかった。まあ、それもありなのかな、と特に不審には思わなかった。何しろシロはモンシロチョウなのだ。モンシロチョウがカレーライスやカツ丼を食べているところなんて見たことないし、あまり想像したくない。
 俺の生活は、思ったほどの変化はなかった。昼近くに起きて、バイトに行って、帰って寝る。バイトがない日は一日中テレビを見ながらごろごろしてる。たまにバイト先の友人達と飲みに行く。場合によってはそのうちの誰かの家に集まって徹夜で麻雀をする。毎日がその繰り返しだ。
 シロは大概の場合、そんな俺を黙って見ている。
酔いつぶれて帰ってきても、翌日のバイトに遅刻しそうになっても、何も言わない。俺は基本的に他人に干渉されるのが大嫌いなので、いるんだかいないんだか分からない存在感の薄さは非常に居心地がいい。でも、顔を上げたとき、彼女が俺の方をじっと見ていて、目が合ってしまった時などはひどく気味悪く思えた。
「ね、普段さ、うちで一人で何してるの?」
「いろいろ」
「いろいろって」
「何もしてない。」
「わけわかんねえな。」
「考えごとしたり。」
「どんな考え事?」
「いろいろ。」
「例えば?」
 考え込むような仕草。しばらく間があく。そして、おそるおそるといった感じで口を開く。
「ねえ、二回目に昆虫館に来たとき、一緒にいた女の人は誰?」
 そんなことを気にしていたのか。シロの口調に嫉妬のニュアンスが入っていることに優越感に似た喜びを感じた。
「ああ、あれは元カノ。」
「元、なんだ。」
「そう。一年前に別れた。」
「なんで別れたの?」
「なんでだろうな。ま、自然消滅に近いかな。」
 一年前のあの頃はお互いに忙しかった。俺は大学を辞めたばかりで毎日のように親とケンカしていたし、彼女は短大を卒業して就職したところだった。追い打ちをかけるように、この不況で亀田電鉄が倒産して、最短距離の路線がなくなった。二人の距離は時間にして三十分、お金にして五百円弱遠くなった。かろうじて一ヶ月に一回電話をするぐらいで、全然逢えない状態が続いていた。
「肩書きだけあっても仕方ないよ。」
 ある日、久しぶりの電話でユカは、そんなことを言った。俺は、じゃあ肩書きを止めようと答えた。彼女がその反対の答えを求めているのは痛いくらい分かっていた。でも、それは無理だと思っていた。
 今考えても、あの時別れたのは仕方なかったと思う。他に方法がなかった、それだけだ。別に憎みあって別れたわけじゃない。だからその後も何回か飲みに行ったし、電話で会社の愚痴を延々と聞かされることもある。
「その人、あたしのこと何て言ってた?」
「さあ、別に何も。いや、アニメオタク趣味とか何とか言ってたっけ。もう覚えてないよ。」
「そう」
 それ以上は聞かれなかったので、それ以上は答えなかった。

 都市部でモンシロチョウが見られなくなってきた原因は主に二つあるそうだ。
 一つは、食草である野生のアブラナが、セイタカアワダチソウに駆逐されつつあること。これはセイタカアワダチソウを好むモンキチョウが増加傾向にある事実からも確かめられる。
 もう一つは、ビルの谷間のような日陰を好むスジグロチョウが台頭しつつあること。スジグロチョウは、アブラナ科に加えて都市部で観賞用に栽培されているオオアラセイトウを食草とし、その繁殖力の強さでモンシロチョウを追い出してしまう。スジグロチョウの台頭する地区でモンシロチョウが生き延びられるのは、モンシロチョウにとって最適な食草であるキャベツ畑が地区内にある場合だけである。
 『毎日科学』の最新刊に載っている『蝶と人間の共生を』と題された記事。つい、線を引きながら熟読してしまった。というのは、日に日に生気がなくなっているように見えるシロを、何とか元気にするためのヒントでもないかなあと思ったのだ。
 彼女の躰の異変に気付いたのは、初めてここに来てから二週間ほど経ってからだった。
「シロ、何か最近、痩せたんじゃないか?」
 丸顔に近かった頬がこけたように感じた。そういう目で改めて見てみると、もともと細い手足がもっと細くなったようにも思える。
「別に。」
「ほら、この辺、こんなに骨が出てたっけ。」
 ごく自然に鎖骨のあたりをぽんと叩く。
「や。」
 予想外の反応をした。俺の手を避けようとして首をすくめ、躰をねじった瞬間、そのまま後ろに倒れそうになる。腕が片方しかないから重心が不安定なのだ。
「あぶねえよ。」
 咄嗟に両手で抱きかかえた。だぶだぶの俺のTシャツの下で、ウエストがびっくりするほど細かった。
「シロ、なんか食えよ。死ぬぞ」
「嫌。」
「俺に気を使ってんのか?食費なんて大したことねえよ。」
 シロが体制を立て直すと、俺は手を離した。
「違うの。カマキリが来るの。だから食べてはいけないの。ケイは悪くない。」
 俺は手を離した。
「カマキリ?」
「そう。カマキリが来るの。あたしのもう片方の手を食べに来るの。」
「あのなあ。」
 どうやって説得しようか考える。
「カマキリなんて来ねえよ。くだらねえこと言うなよ。」
 俺が言えるのはせいぜいその程度だ。シロは、ゆっくりと首を横に振ったまま、黙ってしまった。

『もしもし、ユカです。うーんと、また電話します。相談したいことがあるんで、明日か明後日か、空けておいて下さい』
 バイトから帰ると、留守番電話にそんなメッセージが入っていた。
 会社のことだろうか。前から転職したいと言っていたから、その見通しがついたのかもしれない。こちらから電話をかけ直そうかとも考えたけど、面倒だったし、電話代がかかると思い直して待つことにした。
 シロは眠っていた。最近眠ってばっかりだ。栄養をとってないから身体が弱っているのではないかと思う。
 やかんを火にかけ、テレビをつける。百円ショップで買ったサッポロ一番を開封して、お湯が沸くのを待っていると、彼女はがさがさと起きだし、テレビを見始めた。
『……台風7号は、現在中心気圧940ヘクトパスカル、最大瞬間風速50メートル、静岡県沖を時速40キロメートルで進んでいます。この影響により、都内の交通機関は……』
 チャンネルと変える。いきなり一回り大きな音量で、レトルトカレーの騒々しいCMソングが流れてきた。しかしシロの視線はびくともしない。
「起きてる?」
「うん。」
 ひゅるひゅると音を立て始めたやかんを火から下ろして、サッポロ一番に注ぎ込む。意外だと言われることが多いけど、俺はひどい猫舌だ。お湯は8分目にして、出来上がってから氷で薄めることにしているので、よく友人にバカにされる。
「シロ、何か食う?」
「お水。」
 いつもと同じ答え。何なら食べてくれるだろうといろいろ試行錯誤をしてみたが、成功したためしは未だにない。
「一口だけでも、食ってみない?」
「嫌。」
 ルルルルルル、と電話が鳴る。ユカかもしれない。
「はい、もしもし。」
『もしもし、ケイ?』
 バイト先の悪友だった。
『今うちに中村と前田と三人でいるんだけどさ、メンツが足りなくて困ってるんだ。これから来ない?』
「OK。今行くよ。」
 俺はラーメンを掻き込むように口に入れると、冷蔵庫からアクエリアスのペットボトルを出し、自分のコップを満たす。
 シロはまたごろりと横になって、目をつぶろうとしている。
「アクエリアス飲む?」
「要らない。」
「飲めよ。」
「駄目。」
「何なら食べられるんだよ」
「要らない」
「要らないわけないだろ」
「だってカマキリが」
「いいかげんにしろよ。カマキリなんて来ねえよ。」
 思わず怒鳴ってしまった。シロは、一瞬はっとした目を見せたが、すぐに無表情になった。俺はアクエリアスを喉に流しこむと、鞄に財布と上着だけを詰め込んで、家を出た。

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