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 カマキリ
 

 はたから見れば、相当怪しい男だろう。一人前の大人のくせに、週に一度は昆虫館なんてガキ向けの資料館に通っているだなんて。まあ、大学中退のフリーターが一人前の大人と言えるのかどうか、という問題は置いておいたとしても、家族連ればかりの客の中で俺だけが浮いているのは確かだった。
 最初にここに来たのは一ヶ月前、ある子供向け科学雑誌の取材のためだった。特集を組むはずだったニコレッタ彗星の発見がイカサマだったと分かったので、苦し紛れの穴埋め企画だった。大学時代に文芸部で仲の良かった先輩が編集の仕事をしているから、時々こういうバイトをまわしてくれるのだ。
 展示室では、今月は「季節と昆虫」というテーマで集められた標本が飾ってあった。説明文ばっかりが目立つ地味な展示だった。
《昆虫は、私たち人間と違って変温動物なので、いかに上手に冬を越せるかに種の保存がかかっています》
 適当にメモをとる。バッタの仲間やクリオオアブラムシは卵で冬越しをする。モンシロチョウやアゲハチョウはさなぎで、ゴマダラチョウやオオムラサキは幼虫で、そしてキタテハ、ハナアブ、ハンミョウは成虫で。成虫の姿で生きていられる昆虫を冬越しと呼ぶのは少し抵抗がある。
 展示室の最後には体験コーナーみたいな一角がある。ガラスの箱の中でアリが巣を掘っている様子が見られたり、蜂のダンスを見て餌の場所を当てるクイズがあったりする。
 ちょっと目立たないところにあるヘッドフォン付きスコープに顔をつっこむと、昆虫の生活を説明したビデオが、複眼で見た視界みたいなイカレた映像で流れてきた。しかも登場人物達はみな着ぐるみを着けた三流役者が演じていて、子供だましの退屈な寸劇が繰り広げられている。真面目に見てるのもかったるい。欠伸をしながらぼーっと眺めていたら、後半になって出てくる蝶の役の女の子がかなりの美人で俺好みのタイプだったから、彼女の動きにばっかり注目していた。カマキリに狙われている役なのだけど、必死で逃げようとする演技の下手さ加減がまた可愛かった。
 ラストシーンが終わる直前、妙なことが起こった。彼女が俺に向かってにっこり笑いかけたのだ。自分の目を疑った。実際に見ていない人に言っても気のせいだとバカにされるだろう。ただカメラ目線で笑っただけだ、と。自分も最初はそう信じようとしていた。でも、ストーリーからしても、逃げてる蝶がそこで笑うのはかなり不自然だったのだ。やはり、リアルタイムで「俺に向かって」笑っているとしか思えないような表情だったのだ。
 二回目に昆虫館に行ったのは、どうしてもそのビデオを観てみたいとユカに頼まれたからだった。彼女とは昔、付き合ってた時期もあった。でも今は普通の友達だ。その日は営業で近くに来たとプチメールが来た。俺も相変わらず暇人だったので一杯飲もうやという話になった。
「私もうあの会社辞めたいよお。セクハラじじいと意地悪ばばあの相手ばっかりしてて、アタマおかしくなりそう。」
 ユカはいつもはサワー派なのに、今日は珍しくビールを頼んだ。そんなに酒に強くないくせに。やばいペースだなと思いつつも、つい俺までつられて飲んでしまう。
 酔っぱらった勢いもあって、誰にも言わないつもりだったのに、昆虫館に行った話をしてしまう。蝶の役の女の子が可愛かったこと、その子が話の最後に俺に向かって微笑みかけたこと。その様子は、ただ録画したものを再生しているとは思い難かった。あの子は、スコープの中の世界で本当に生きているんじゃないだろうか、と。
「何それ。バッカじゃないの。」
 予想通り、思いっきり笑われた。
「なんかさ、変な宗教とか、自己啓発セミナーとかの影響受けてない?健全な人の発想じゃないよ。」
「いや、俺だって信じているわけじゃないよ。でも、本当にそうとしか見えなかったから、不思議で。」
「じゃあ、私もそのスコープ見て、本当かどうか確かめてあげる。」
「え?」
「いいでしょ?来週あたり連れてってよ。ケイの趣味の女の子ならぜひ観照してみたいし。面食いなんでしょ、相変わらず。」
 ユカに蝶の女の子を見られることには抵抗があった。あいつにスコープを評させたら、せっかくの夢をドンガラガッシャンと音を立ててぶっ壊されそうな気がした。でも、彼女の性格のことだ、一度見たいと言い出したら絶対に譲らないだろう。俺は、かなり残っているビールを胃に流し込んでから、仕方ねえな、と頷いた。

 次の日曜日、俺はユカを連れて再び昆虫館に足を運んだ。ビデオの内容はこの前と同じ寸劇だった。くだらない説明を延々と聞かされたあと、やっとあの女の子が出てくる。細身の体型に、大きめの瞳がやっぱり可愛い。そしてラストシーン。果たして彼女は微笑むだろうか。カマキリの手を逃れて、一瞬こっちを振り向く。目があった。そしてにっこり。やっぱりこの前と同じような、不思議な笑顔だった。「この前と同じような」、というところが俺を不安にした。やはり録画だったのだろうか。ストーリーから不自然に外れているように見えるのは、単に彼女の演技が大根だったからなのかもしれない。
 しかし、今回は微笑だけでは終わらなかった。彼女は俺に向かって、はっきり言ったのだ。
「また来てくれたのね。ありがとう」
 思わずスコープから顔を離した。今聞いた声を、口の中で何度も反芻する。『また来てくれたのね。ありがとう。』本当にあの子の声だったのだろうか。隣のスコープを覗いてるユカは、別に驚いた様子もなく、つまんなそうな顔でスイッチを切って次の客に譲っている。
「ね、見えた?」
「ああ、ケイってああゆうのが好みだったんだ。なあんか、面食いって言うよりアニメオタク趣味入ってない?」
「アニメオタクってなあ。コスプレ趣味野郎と一緒にするな。そうじゃなくってさ。最後に彼女、笑った?」
「笑った笑った。でも、別に不自然じゃないよ。ラストだから笑ったんじゃない?子供向けの番組って、そういうふうに出来てるもんだよ。」
 ある程度、予想通りの反応だった。やっぱり見せるべきじゃなかった、と少し後悔する。
「じゃあ、最後の声は、聞こえた?」
「最後の声って、あの、カマキリに襲われたときの悲鳴?」
「いや、もっと最後。笑ったあとの声。」
「さあ、何か言ってたっけ。」
 俺はそれ以上聞くのを止めた。バカにされるだけだ。ユカには蝶の女の子の声が聞こえない、そして俺には聞こえる、それが分かっただけで十分だ。
 そして今日が三回目だった。平日だったので館内はかなり空いていた。展示室では相変わらず「季節と昆虫」の地味な標本が飾ってある。目もくれずに体験コーナーに急いだ。
 体験コーナーの入口では、公開実験をやっているらしく、元気な声の男の人がマイクを片手に説明していた。三角フラスコの中に昆虫を入れ、氷や熱湯の入った洗面器に浸けて温度をいろいろ変化させる。ウリハムシは摂氏三度では冬眠のような状態になり微動だにしない。六度にすると触覚や足がぴくぴくし始める。十度で一匹が歩き出し、十二度で全部歩き出す。三十度を超えると痙攣を起こし倒れる虫が増えてきて、三十八度まで上げると全部死んでしまう。残酷な実験だ。このウリハムシは飼育されたものなのか、どこかから捕まえられてきた物なのか。どちらにせよ昆虫館の外でだったらもう少し長く生きられただろうに。俺以外の見学者は小学校にもまだ入っていないような小さな子供を二人とその母親らしき茶髪の女性、三人だけだった。
 実験をしていた職員の人がドアの向こうに消えると同時に、一番奥のスコープの場所にに急いだ。スコープの中からは、この前と同じビデオが流れてきた。三回目にもなると、そろそろ台詞を覚えてくる。ユカがアニメオタク趣味と言ったのも分かるような気がした。子供向けの起承転結がはっきりしたストーリーというのは、実に覚えやすい台詞で出来ているものだ。そういえば、高校の友人でエヴァなんとかの台詞をほとんど暗記している奴がいたっけ。
 後半になって、あの子が画面に出てくる。登場していきなり目があった。今日の彼女はちょっと様子が変だ。どこかそわそわしていて、台詞まで何回かとちっている。この前はとちってなどいなかった台詞だ。でも、俺はもうそのくらいでは驚かない。彼女は実際に生きているのだ。
 カマキリ役が現れて、彼女の様子はますます変になった。救いを求めるように俺を見る。バカ、速く逃げろと心の中で叫ぶ。でも、俺の声は全く届いていないみたいだった。
 彼女は俺を見たまま、全く動こうとしない。カマキリは、早くも蝶の真横にたどり着き、カマを振り上げた。
「危ない!」
 俺は思わず声に出した。他の客がいなかったから良かったものの、これが日曜日で家族連れがたくさん来ていたら完全に変人扱いされていただろう。
 彼女はやっと気付いて逃げようとした。でも、もう手遅れだった。カマキリは蝶の片方の羽をむしり取り、もう片方にも刃を向けんとしていた。
 ビデオはそこで、唐突に終わっていた。画面がぷつりと暗くなり、端の方に「シュウリョウ マキモドシ」と表示された。

 あれは、俺のせいなのだろうか。あの子は俺を見ていてカマキリに襲われてしまった。なぜ俺を見ていた?どうすればよかったの?
 駅とアパートの間にある児童公園で立ち止まる。なんとなくベンチに座って考えてみる。救いを求めるような顔が浮かんでくる。スコープの中にいる奴をどうやって助けろと言うんだ。
 彼女の羽。プラスティックのように真っ白な羽が、カマキリに刈り取られる様子が頭の中で何度もリフレインする。
「お兄ちゃん、一杯飲まない?」
 声をかけてきたのはホームレスっぽい、ぼさぼさ頭のおっさんだった。最近この付近によく出没する奴だ。一メートル以上離れているのに酒臭い。アル中か、こいつ。
「いえ、けっこうです。」
 丁重にお断りすると、重い足を引きずってアパートに向かった。はっきりしているのは、俺は明日も昆虫館に足を運ぶだろうと言うことだけだ。明日のスコープの中では何事もなかったようにいつもの大根演技が繰り広げられていれば良いのだけれど。

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