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 とん、と向こう側で誰かが壁をたたく音、僕の記憶はそこから始まっている。
 この世界に、僕以外の誰かが存在しているのだ。その発見は、僕にとって最大の興奮だった。この、四方を壁に囲まれた退屈な部屋だけが存在する世界というわけではなかったのだ。その事実が、どれだけ僕に希望を与えてくれたことだろう。
 試しにもう一回、こちらから壁をとんとたたいてみた。しかし、今度は全く応答がなかった。先刻のは気のせいだったのだろうか。いや、そんなはずはない。僕は、確信していた。根拠はなかったが、考えてみれば僕が居るということは、僕以外が居ても全然おかしくなんてないということだ。おかしいどころかどうして今まで気付かなかったのだろうと不思議に思うくらい当たり前のことに思えた。
 次の日、恐る恐る、壁をノックしてみた。とんとん、とたたいてから、壁に耳をつけてしばらく待っていた。なかなか返事はなかった。いらいらしながら3分くらいそのままでいた。息をこらしすぎてだんだん息苦しくなってきた。それは3分とは思えないほど長い時間だった。
 すると、聞こえたのだ、とんとん、という音が。僕は有頂天だった。やっぱり昨日のは気のせいではない。他に誰かがいるのだ。僕はひとりぼっちではなかったのだ。もう一度壁をたたいてみようかとも思ったけれど、止めておいた。もし返事がなかったら今の喜びが半減してしまうだろうし、楽しみは一度に使い果たしてしまうより、明日にとっておいたほうがいいと思ったからだ。
 僕の記憶によると、僕とそいつの壁によるコミュニケーションはそれから2週間くらい続いた。最初の頃は一日一往復、僕がたたいてそいつがたたき返すだけだったし、返答はいつも僕がたたいたリズムと全く同じだった。しかし、1週間過ぎた頃からだんだん複雑なことが出来るようになっていった。何往復も続くようになったし、僕が送ったのと違うリズムが返ってくるようにもなった。一つ一つのリズムに別に特別な意味はなかった。ただ、何かやりとりがあるんだという事実をそのまま楽しんでいた。
 次第に僕は、壁をたたくだけでは物足りなくなってきた。そいつに直接会ってみたかった。そいつの姿を一目見てみたかったし、そいつの身体に触れてみたかった。そのためには、壁がどうしても邪魔だった。この壁さえなくなればいいのに。なんとかしてこの壁の向こうに行くことは出来ないだろうか、と考えるようになった。
 ある日、いつものように壁をたたいているとき、僕はふと違和感を感じた。壁には一カ所、たたくと少し違う音がするところがあったのだ。他の部分のような鈍い音ではなく、ぽん、といった感じの軽い音が出るのだ。おそらく、ここだけ壁が薄くなっているのだろう。この部分なら、なんとか壊せはしないだろうか?胸がどきどきしてきた。すぐ実行に移そうかという考えがよぎった。でも、もう少しだけ待ってみようと思い直した。何となく怖かった。いつかどうしても奴に会いたくなったときはここを壊せばいいのだ、と思っているだけで安心できたので、それだけでいいじゃないかと自分に言い聞かせた。
 しかし、僕の記憶によると、その「いつかどうしても奴に会いたくなった日」が来るのは案外早かった。あれから3日も経たないうちに僕は壁を壊すことを決意した。我慢できなくなってしまったからには躊躇などしてはいられない。僕は十分に助走をつけると、思いっきり、その壁が薄くなっているところに蹴りを入れてみた。衝撃とともに何かが爆発したんじゃないかというほどのものすごい音がしたが、壁は思ったより頑丈で歪みさえしなかった。足の指がじんじん痛んだ。もう一度。音だけはやたら大きく響いて、罪悪感を刺激した。
 やがて壁の向こうから、誰かが壁を蹴るような音が聞こえてきた。奴だ。向こうにいる奴しかあり得ない。彼も、壁を壊すことに協力してくれているのだろうか。でも、その響きは喜びと言うよりは、どこかやめてくれ、と嘆願するようなニュアンスも込められているような気もした。
 それでも僕は、繰り返し繰り返し、力一杯壁を蹴った。壁の向こうの奴も、壁を蹴り続けた。悲鳴のような轟音が部屋を満たしていた。壁は、いくらか歪んできたようだった。出来る、と確信した。最初っからこうやって壊してしまえばよかったんだ。壁をたたいてたたき返して、そんな無駄な時間を何日も過ごしてしまったことを後悔した。
 一度壁が歪み始めてしまえばあとは早かった。蹴る度に部屋に響く音はより大きくなり、より悲鳴に近くなった。そしてある瞬間、僕は突然バランスを失い、背中側に倒れた。壁を蹴った足がそのまま壁を突き抜けたからだった。ついに壁に穴が空いたのだ。こんなにも簡単に夢が叶ってしまった。僕はしばらく呆然としていた。
 向こうの部屋は、こちらとは全く違う感じの空気で満たされていた。しかし今開いた穴をとおして、空気は急速に混ざっていった。そして同時進行で、2つの部屋を隔てていた壁が消滅していった。波をかぶった砂の城みたいにあっけなかった。あっという間の出来事だった。わずかな間にも、2つの部屋の空気は完全に混ざり、壁は跡形もなく消え、今目の前にあるのは昨日までより倍の広さをもった1つの部屋だけだった。
 僕は奴を捜した。この部屋のどこかにいるはずだ。ドアも窓もないのだから、出ていったはずはない。絶対にいるはずなのに、どこにも見あたらなかった。
 どこにいるの?教えて!奴にそう伝えようと思った。こんな時どうすればいいのだろう。今までどうしていただろう。僕は考えた。
 そうだ、思い出した。とても簡単なことだった。壁だ。今まで僕は、奴の存在をそうやって確かめていたのだから。そこにいるの?と僕が壁をたたくたびに奴は、ああここにいるよ、とたたき返してくれたじゃないか。今までずっと、1枚の壁が僕たちを繋いでいたんだ。そう、隔てていたのではなく、繋いでいたのだ。今になってやっと分かった。
 でも、もう遅かった。もはや2つの部屋の間に壁はない。2つの部屋ですらない。この部屋のどこかにいるに違いない彼と、もう2度とコンタクトをとることは出来ないのだ。もう2度と奴の存在を確認することは出来ないのだと悟った。僕はまた、独りになってしまった。
 そして、僕の記憶はそこで終わっている。
 
 


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