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不在

 一説によると、兵士の結婚禁止に反対した司祭が殉教した日だという。また違う説では男性が名前を引き当てた女性にプロポーズする祭りがあったとも聞いたことがある。由来に関する新説は毎年のように現れる。もちろん、二月の贈り物の話をしているのだ。でも、この業界で働いて四年、お菓子作りが唯一の恋人である私にとっては、とてもそんなロマンチックな気分にはなれない。ただ鬼のように忙しくなる時期という程度の意味である。せいぜい昭和三十五年にM製菓が行ったキャンペーンが本当の由来であるという知識を思い出すくらいだ。
 常磐製菓、といっても聞いたことがある人は普通いないだろう。テレビCMのような宣伝活動なんてしたことないし、ヒット商品があるわけでもない。ただ、名前から想像つくように、大手常磐デパートの孫会社の一つである。いくつかのデパート内にコーナーを置かせてもらっているので、まあまあ安定した売り上げを保っている。
 その常磐製菓の沢工場に、二つのものが今日届いた。一つは大量のクーベルチュールチョコレート、そしてもう一つは新しいバイトの女の子。気が合う子が来るといいなと思っていたが、ちょっと失望した。厚化粧の顔に流行のファッション。傷んだ茶髪がいかにも頭悪そうに見える。とてもじゃないけど仲良くなんてなれないと思った。
「……香奈といいます。よろしくお願いします。」
「チーフの迫田です。よろしく。」
 とりあえず型どおりに挨拶を済ませると、私は段ボールを開封した。甘い香りがビニールの包装を通り抜けてうっすらと漂っている。これでこそチョコレートの王様だ。私は幸せな気分になった。ちょっと前までアイスクリームや、ゼリーを使った涼しげなケーキが主力商品だったような気がするのに。そしてヒイラギの葉やサンタクロースの砂糖細工をショーウィンドウに飾っていたのはつい昨日だった気がするのに。もうこんな季節だなんて、一年ってなんて早いんだろう。
「あの、私、何をすればいいですか?」
 香奈ちゃんは、一人感慨にふけっている私を困ったように見ている。
「そうね、今までチョコレート扱ったことある?」
「調理学校の時に、ほんの少しだけ。仕事では全く初心者です。」
 心の中でため息をついた。そんな子をどうして、よりにもよってバレンタイン期間限定のアルバイトに採用したのか、店長の気が知れない。
「分かった。じゃあ、とりあえず手順教えるから、やってみようか。エプロンして中に入って。」
 まあ、仕事さえ真面目にやってくれるなら多くは望まない。事務的に接している限り不快は最小限で済ませられる。準備をしながら、どうやったら効率よく教えられるだろうかと考える。繁茂期までには使いものになってもらわないとどうしようもない。もちろん雑用はやってもらうけど、その気になって練習すれば2、3日で基本的な仕事はこなせるようになるだろう。
 これから作るのはボンボン・オー・ショコラ、というとイメージが浮かばないけど、広義のトリュフのことだと言えば分かってもらえると思う。これがなかなか奥が深い。十種類のガナッシュクリームは固く作りすぎるとおいしくないし、柔らかすぎても形が崩れてしまう。トランパージュ、つまりコーティングは最も腕の善し悪しが現れるところだ。まず、チョコレートをテンパリングしなければいけない。ビターやスウィート系だったら、四十五度で溶かし、二十七度に下げて、固まる前に三十二度にもどしてその温度で作業する。ミルク系なら四十度、二十五度、二十九度で同じことをする。許容範囲はプラスマイナス一度。それ以上間違ったら出来上がりのつやがなくなってしまうので、最初からやり直しだ。
 もっとも、今はフランスから取り寄せたのテンパリングマシンを使っている。店の伝統としてスペシャリテだけは最後まで手作業で作ることになっているが、作業はかなり楽になった。
 香奈ちゃんの場合は、練習用のチョコレートは少量なので、機械を使わない方がかえって効率がいい。機械が何をやっているのか体で分かっているに越したことはないし、テンパリングからやってもらうことにした。
 幸いなことに、彼女は不器用なほうではないみたいだった。さすがに当日に作ったのはとても売場には出せない程度だったけど、翌日にはけっこう見れる商品を作れるようになっていた。
「どう思いますか。」
 最後に作った一皿を持ってくる。大きさは揃うようになった。売り物として通用しそうなのも混ざっている。
「自分ではどう思う?」
「味はおいしいと思うんですけど。」
「あのね、主原料がチョコレートと生クリームなんだから、おいしいのは当たり前。ガナッシュの形を均一にすること。手早さが問題かな。周りが厚くなっちゃうのも同じ原因。」
「……ですよね。分かってはいるんですけど。」
 手の温度が伝わらないうちに素速く丸めればあとで型くずれはしないとは分かっているのだが、当然スピードを上げれば正確さが犠牲になる。修行を始めたばかりの頃の私も同じことで悩んで、家に帰ってから紙粘土で練習したこともあった。
 もっとも、ここはそんな高級菓子店というわけではない。あと一日か二日あれば何とかなるだろう。最初に丸めるときはとにかく速さだけを重視して、下塗りの時に形を修正するように指示した。実を言うと、これは昔自分で編み出した裏技だった。
「最初にそう教えてくれればよかったのに。」
 拗ねる彼女に、人それぞれ、長い時間かけて自分だけのコツを見つけるべきだと説教した。今回はバイトの子だし、時間がないのだから仕方なく教えたのだ。
 思った通り、翌日には見違えるほど腕があがった。昼をすぎた頃、私は出来上がり一皿分を店長のところに持っていった。そろそろ売場に出せるんじゃないかと思ったからだ。
 いくつか手にとって、回しながら上下を確認する。一つを半分かじって、断面を凝視する。そして、残った半分を口に放り込み、今度はゆっくり味わった。やがて首を縦に振った。
「OKですか?」
 おそるおそる切り出す香奈ちゃんに、にっこり笑った。
「うん。じゃあ、明日からスペシャリテは君にに作ってもらおうか。」
「スペシャリテを?」
 私は、信じられないといった調子で聞き返した。本気なのだろうか。本気だとしたら店長はどうにかしてる。
「じゃ、作業に戻って。」
「店長。」
 今度は、はっきりと抗議の目で彼を見た。スペシャリテは店の主役だ。うちの場合はクリームをふんだんに使ったセンターに、ホワイトチョコレートをかけたものを出している。特別作るのが難しいわけではないが、金粉をあしらったその美しい姿はまさに「食べる宝石」の名に相応しい。バイトの子が担当するなんて、前代未聞だった。
「迫田君、君はチーフとして、全体の作業が滞らないように責任を持って管理してくれ。」
 彼女に大役を渡すことが、全体のためになるとでも言いたいのか。そんな説明で納得できるとでも思っているのだろうか。
「でも、」
「ああ、例年通りノアゼットは全工程君に任せる。」
 これはフォロー、のつもりなのだろう。私がヘーゼルナッツの焼ける香ばしい香りを何よりも愛していること、そしてよくつまみ食いすることを知っているから。
「あの。私そんな責任重いこと、」
 香奈ちゃんがあわてて口を挟む。心の底から焦っているみたいだった。当然だろう。別にこの店で修行をしてプロになりたいというわけではないのだから。
「大丈夫。君のチョコレートはおいしいから。チーフの負担が軽くなるようにしっかり仕事してくれ。」
 何も言えなかった。全ては今の一言で決まってしまった。反論できない自分が悔しかった。
 スペシャリテと言っても、見た目が豪華なだけで、特別な技術が必要というわけではない。本当は、何の担当にしたって結果は大して変わらないのだ。変わるのは名前とプライドだけ。わざわざ香奈ちゃんを指名したのは、私に対するいじめとしか思えなかった。いろいろ考えてみたけど、自分のどこが気にくわないのか分からなかった。何か手順に問題があるというのなら直接言ってくれればいいのに。
 業務に戻ってからも、彼女のぎこちない手つきにばかり目がいってしまう。一生懸命なのはすごくいいことだと思うのだが、それだけじゃプロは務まらない。

 片づけと明日の準備を終えると、暖房のスイッチを切る。シャッターを下ろし、冷たい風で体中に染みついた甘い香りを洗い流した。もう一度事務所に入り、古いワープロに向かう。そろそろ二月のシフト表を印刷して張り出さなければいけない。
 表自体は昨日の昼休みの段階で出来ていた。人数がそんなにいるわけではないので、作るのはそう難しくはなかった。プリンターが動き出すと同時に、香奈ちゃんが入ってきた。
「忘れ物?」
「いえ、シフト、もう変更できませんか。」
「今印刷終わっちゃったんだけど。」
 あからさまに不機嫌に言ってみる。
「十四日、やっぱり休みたいんですけど、駄目ですか。」
「……彼氏とデートとか?」
 本当のことを言うと、十四日はどうせ売るだけだから、休みをとることは無理ではないだろう。でも、プライベートの恋愛沙汰が理由で、急に出勤日を変更できるほど社会は甘くない、と教えてやらなければいけない。
「いえ、そうじゃなくて。」
 じゃあ、他にどんな理由があるというのだ。聞かせてもらおうじゃないの。意地悪く笑って、弁解を待つ。
「近いけど、不正解です。」
「?」
「広島に、去年つきあってた人のお墓があるんです。私が作ったチョコレート、お供えに行こうと思って。」
「お墓って。」
「バイクの事故。」
 あまりにもあっけない言い方だったので、一瞬、そうなんだ、と聞き流してしまいそうになった。そして、内容に気付いて、帰り支度の手が止まった。しばらく頭の中で台詞を反芻し、その意味を考えていた。
 やがて、クーベルチュールの甘くて香ばしい残り香の奥から、ぼんやりと何かが浮かび上がってきた。それは、一つの答えかもしれなかった。私はその答えと香奈ちゃんを見比べながら、輪郭線を少しずつ確認していく。不思議な気分だった。
「よし、休暇を許可する。」
 口を挟んだのは店長だった。
 なんだか凄く悔しい。許されてしまったからではない。言おうと思った台詞を店長に横取りされたから悔しいのだ。これじゃ、最後まで私は悪役じゃないか。
 テンパリングとは、ただ表面につやを出してなめらかにする作業というだけではない。いや、もちろんつやは出るし、なめらかにもなる。でも、そんな違いは多分、大したことではない。
 マーブル版に落とした柔らかいチョコレートをへらで素早く混ぜ、ボールに戻していく。この丁寧で、微妙な、気の遠くなる作業。もしも製品を作る過程のどこかで「心を込めている」としたら、間違いなくこの作業の時だ。
 由来なんて何でもいい。信じられて、浸透してしまったのは理由がある。そしてその理由を誰よりも知っているのは、実際に製品を作っている私たちであるはずだ。印刷されてしまったシフト表をゴミ箱に入れると、もう一度ワープロの電源を入れた。少しだけ、今の自分を超えたものに触れてみたくて。


 
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