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 ハート
 

 綺麗と言うよりはむしろ毒々しい、赤茶けた夕焼けの強い光の中、僕は逃げるように家に帰った。玄関のドアを閉めて古い蛍光灯の健全な光をかぶると、やっと少し落ち着いた。随分長い間走った割にはあまり疲れていなかったのは、心がそれどころじゃなかったからに違いない。
 僕は、例えば僕の悪かったこととかそういった余計なことを考えてしまわないように、だいぶ痛んできた僕の心臓を気をつけて取り出した。昔熱帯魚を飼っていた、玄関脇のガラスが薄緑に染まった水槽の中にそれをそっと沈める。ヒーターと酸素ボンベのスイッチをつけると、モーターの、規則的だけどどこか暖かくて、聴いていると眠りに誘われるような音が流れだした。酸素の泡がぼこぼこと僕の心臓を包み込みながら弾けてゆく。生温くなっていく水の中で、僕の心臓はゆっくりと酸素を取り込み始めた。
 彼女に平手打ちをくらった頬がずきずき痛んだ。あんなに本気になって怒る彼女を見たのは初めてだった。僕はほんの冗談でからかっただけなのに、彼女の反応は本当に予想外だった。僕は、何か悪いことをしたのだろうか、常識的な考えて、何かヒトの道に外れたようなことを、したのだろうか。いや、そんなことはない。そんなことは断じてない。彼女のほうにやましい気持ちがあって、そこを僕につかれたもんだから、あんなにムキになって怒ったに違いない。
 そうだ、悪いのは向こうのほうなんだ。僕は、そう思うことに決めた。三人掛けのソファーに深く腰掛けて、大きく伸びをする。そして、彼女から謝ってくるまで、どんなことがあっても決してこっちから口をきいてやるもんか、と決意した。
「嘘つけ。」
 ……決意した途端、僕の後ろでそう呟いたものがあった。
「ほんとは自分が悪かったって判ってんだろ。肝心な時くらい素直になれよ。」
 僕は振り向かなかった。話しているのが何者なのか、だいたい見当がついたからだ。ただ念のため、伸びをしたそのままの姿勢で聞いてみる。
「誰?」
「俺だよ、俺。お前のために健気に働いてる、お前の心臓さ。俺に嘘はつけないぜ。お前は昔から、嘘をつくと脈拍が早くなるんだから。」
 ……彼女に叩かれた頬は、さっきまで激しくひりひりしていたのだが、今になってやっと治まってきた。それと同時に、僕のココロの痛み、要するに罪悪感という奴も、かなりのところ消えようとしていた。素直になるも何も、本当に僕が悪いだなんてこと考えてもいないのだから仕方がないじゃないか、と思った。
「だから、それが嘘つけって言ってんだよ。」
「嘘なんかついてない。僕は悪くない。」
「お前、自分の顔を見てみろよ。自分を誤魔化そうとしても、ちゃあんと顔に出てるぜ。ほら。」
 そんなに言うなら仕方ない、僕はのろのろと寝室へと向かった。
 鏡を見ると、僕の頬にはくっきりと、ちょうど彼女の手のひらのような大きさと形で、とてもいい感じで錆びているところがあった。僕は一瞬どきっとした。急いで玄関に戻って水槽の中を確かめた。せまい水槽の中の僕の心臓は酸素をたくさん吸って、いくぶんピンク掛かった健康的な色になりつつあった。また、それは人間に例えれば何とも言えない複雑な笑いを浮かべているようにも見えた。僕は何となく安心して小さく息をはいた。ソファーの上にほおり投げていた買ったばかりのGジャンをはおると、ドアを開けた。空はもう薄暗くなりかけていた。彼女の家まで全速力で走った。息切れながらも僕は、庭に立って花壇に水をやっている彼女の姿を見つけることが出来た。彼女は僕の足音に気がついたのかこちらを振り返り、一瞬目があった。そしてはっとした様子で目をそらし、家の中に入ろうとする。
「待って。」
 僕は、自分の声が情けなく響いているのを聞いた。
「ごめん、冗談とはいえ、あんなことを云った僕が悪かった。君が侮辱されたと感じても無理ないと思う。許して欲しい。」
 彼女はしばらくの間僕の頬を見ると、やがて恥ずかしそうに自分の右手を出して、掌を見せてくれた。
 それはやっぱり、僕の頬と同じように、錆びて、綺麗な赤茶色に変色していたのだった。
 その右手で長い髪を掻きあげながら、彼女はすました顔で云った。
「明日、なんか用事ある?」
「いや、特にないけど。」
「今ね、南谷の美術館で浦野紘一の個展やってるの。もしも明日つきあってくれて、その上お昼でもおごってくれるんだったら、さっきのあなたの失言はなかったことにしてあげようかな。」
 僕は苦笑した。
「やむを得ない。」
 彼女も僕につられたように苦笑していた。そして僕たちは、電車の時刻表を開いて明日の計画を立てながら、彼女の手作りの美味しいクッキーで遅いお茶にすることにした。
 


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