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フレンチロースト
 

 一枚のハガキを握りしめて、僕はその場所へ急ぐ。
『喫茶店レ・フィーユ新装開店のお知らせ』
 この店名、この地図の場所、間違いない。学生時代に通い詰めた、あの喫茶店だ。三年間待ちに待っていたが、ついにその日が巡って来たのだ。オープンするのはちょうど日曜日。前日の夜は接待で遅くまで飲んでいたのに、朝起きるのがちっとも苦痛じゃない。風に舞う若葉のように身体が軽い。鼻歌を歌いながら簡単に身を整えると、私鉄を二つ乗り継ぐ懐かしの通学経路をたどった。

 レ・フィーユは大学から徒歩五分という、学生のたまり場としては好ロケーションに位置していた。しかしお世辞にも綺麗とは言えない建物だったせいか、客層は年輩の常連さんが中心で、平均年齢はかなり高くなっていた。そういう僕も、近くのマックが改装休業の時に、衝動的に足を踏み入れたのが最初だった。不味くて高い学食に飽き飽きしていたので、この店のボリュームあるランチセットはかなり魅力的に思えたのだ。
 まだ三十路前のマスターはとても気さくで感じのいい人で、奥さんの杏子さんは僕より二歳上の綺麗な人だった。そのうち常連とも親しくなって、ビールをおごってもらったり、閉店後の店内で麻雀をしたり、まるでサークルの部室のように入り浸るようになった。
 特に奥さんの杏子さんは僕の「お気に入り」だった。今だからこそ正直に言ってしまうと、恋愛に近い感情を抱いていた。僕の母と同じく岩手出身で、料理の味が似ていたことも理由の一つだったのかもしれない。無論、マスターの目の前で口説く勇気があるわけもなく、せっかく居心地のいい店の雰囲気を壊したくなかったので、言葉にすることはおろか態度に出すことさえ出来なかった。でも、就職活動の愚痴とか学校での面白い出来事とか彼女と話していると、それだけで心が癒され、満たされた気分になる。これ以上何かを望むなんて、大それたことは出来ないと思っていた。今のまま店が続いていてくれれば、それだけで十分すぎるほど幸せだ、と。
 終わりは突然やってきた。卒業式の直前に突然店が閉じられてしまったのだ。詳しい事情はよく分からないのだけど、杏子さんが何の前触れもなく失踪してしまったらしい。前日までいつも通り仲が良さそうだったのに。マスターはうつむいたまま何も語らなかった。ただ、その翌日から一ヶ月ほど店は休みがちになり、ついに看板が外された。「今までお世話になりました」と書かれた紙がぽつんと貼ってある閉ざされたシャッターの前で、僕はしばし呆然と佇んでいた。
 いつか再開してくれると信じていた。人好き、酒好き、コーヒー好き、麻雀好きのマスターなら、店をせずに居られるわけがない。他のどんな職に就いたとしても、必ず天職の喫茶店業に戻って来るだろう。そう思って三年間待ち続けたのだ。張り紙は雨で文字がにじみ、紙は黄ばみ、ついに破れ落ちた。シャッターの片隅の塗装が剥げた部分から錆び始め、赤茶色に浸食された部分が日に日に広くなっていった。それでも諦めきれない。未だ建物が壊されたり売りに出されたりする様子はない、という事実に一抹の希望を託してしまう。
 ここ半年は、いちいち確かめては落胆するのに疲れてしまったことや、仕事が軌道に乗って忙しくなったこともあって、近くを通りかかったときも様子を見に寄ることはやめてしまった。長い夏休みのような学生生活の思い出とともに、卒業証書の中に封印してしまった方がいいんじゃないかと思い始めていた。そんな時に届いたのが、一通のダイレクトメールだった。そういえば、ポイントカードに住所を書いたことがあったっけ、と思い出した。幸い僕は実家から大学に通っていたので、メールアドレスや携帯電話の番号は変わっても、住所だけは変わらなかったのだ。

 外装はかなり変わって今風になっていた。壁には真っ白な塗装が施され、観葉植物が品良く並べられている。一瞬戸惑ったけれど、入り口の上にはちゃんと、「レ・フィーユ」と彫られた見覚えのある木の看板がかかっていた。
「いらっしゃいませ」
 バイトっぽい女の子が元気に挨拶をした。店内の配置は前とほとんど変わらない。躊躇せずにカウンターの右端の定位置に座る。エプロンで豆を挽いている後ろ姿は、ああ、やっぱりマスターだ。三年間の月日の壁が、あっという間に頭から崩れ去った気がした。
「フレンチローストお願いします」
「お、綿貫君じゃない」
「お久しぶりです。今まで何なさってたんですか」
「実家の仕事を手伝ってたんだよ。兄貴が家業を継いでいるから」
 杏子さんは見つかったんですか、どうしていたんですか、とは聞いてはいけないような気がした。口に出して聞いてしまえば、そしてその答えを知ってしまったら、息苦しくなって逃げ出してしまいそうだ。なるべく明るいことを考えなくちゃと自分に言い聞かせて、甘い記憶を頭の外に追い出そうとしてみた。運ばれてきたフレンチローストコーヒーを口に含み舌の上で転がして、昔と同じ苦みと香りを味わう。店内を改めて見渡すと、知っている顔を見つけて少し嬉しくなった。
「宮田さん、宮田さんじゃないですか」
「おお、綿貫君か。そうか、社会人になったんだな」
 宮田さんはやっぱり今でもヘビースモーカーみたいだ。以前から、家で煙草を吸っていると嫁がうるさくて、とぶつぶつ愚痴を言っていたのを覚えている。今日も灰皿に吸い殻の山を積み上げながらスポーツ新聞を読んでいた。
「いらっしゃいませ」
 ドアがカランと開いて、様子を見るように入ってきたのは、元同級生でゼミ仲間の竜司だった。お冷やを持ってフロアに出てきたマスターの姿を確かめると、にっと笑って片手で例のお知らせハガキをひらひらさせた。
「竜ちゃん」
「綿貫じゃねえか」
 思わず立ち上がって手を振る。本当にタイムマシンに乗ってきたみたいだ。懐かしい気持ちでいっぱいになる。
 当時、僕は普及活動と称していろいろな友人を連れてこの店に来たけれど、結局定着したのは彼だけだった。他のみんなはもっとオシャレなカフェのほうが好みだと言って、レ・フィーユの居心地の良さを分かってくれなかったのだ。
「さて、面子が揃ったな」
 マスターがにやりと笑う。
「まだ昼間ですよ」
「大丈夫大丈夫。おーいケイコちゃん、キッチンも頼むよ」
 困惑してるウエイトレスの子に言い放ち、マスターは奥から雀卓を出してきた。傷の付き方、木目の浮かび上がり方にデジャヴを感じる。あの時と同じ卓に間違いない。
「まったく、相変わらず好きですねえ」
 僕たちは苦笑しながらも、当たり前のように卓の周りに集まってきた。みんなこの展開を待ち望んでいたのだ。勧められるままに牌をつかみ取り、席を決める。座ったままガチャガチャとかき混ぜ、牌山を積む。
 その時、僕はふと気づいてしまった。カウンター越しに話していた時は分からなかったのに、対面に座ったマスターは昔と比べてだいぶ老けて、頭には白髪が混じっているということに。
 よく見ると、右隣の宮田さんも額や目元の皺が増えて、手の甲から静脈が浮き出ているのが前よりも目立っている。左隣りの竜ちゃんは、あの頃はボサボサに伸ばしていた髪をきちんと切りそろえ、つやのあるムースで上向きに固めているのが分かる。僕は最近とみに下腹の贅肉が目立つようになって、昔は弛めだったジーンズのファスナーあたりがピチピチになっている。「あの頃と同じ」なんて幻想に過ぎない。みんな、きちんと三年分変化していた。気づかなければ良かったのに、気づいてしまったのだ。
 突然、夢から覚めたように全てが胡散臭く思えてくる。あの頃と同じ風景や同じ話し方が鼻につく。当時と変わらない、苦みの強いフレンチローストの味が、憎らしげなものに思えてくる。
 ここは僕が戻りたかった場所ではない。だってここには杏子さんがいない。当時の僕も、マスターも、宮田さんも、竜ちゃんも居ない。懐かしさはかえって僕の思い出を、そして杏子さんの存在を否定しているような気がする。このまま座っていたら、大切なものがどんどん壊れてしまう。
「ごめんなさい、僕、やっぱり帰ります」
「なんだよ、面子が足りなくなっちまうじゃないか」
「ごめんなさい。また今度来ますから」
「さては金がないんだろ。貸すから心配するなよ?」
「いえ、いいんです」
 マスターたちの言葉を振り払って、バイトの子にコーヒー代四百円だけを渡すと、わき目もふらずに店を出た。そのまま早足で駅を目指す。一度も後ろを見ようとは思わなかった。誰も悪くはないのに、やりきれない気持ちだった。きっとそのやりきれなさは、本来なら三年前に受け止めて、克服していなければならなかった気持ちだったのだ。
 
 


 
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