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 僕は化学の宿題のレポートを書いていた。家族はとっくにみんな眠っていて、電気がついているのは家中で僕の部屋だけだ。
 時計は間もなく夜中の二時を指そうとしていた。早寝早起きを心がけている僕にとって、午前二時というのは世の中に存在しないも同然の時間だ。とにかくこのレポートを出さないと、単位を1コ落としてしまう。僕は、何度も意識を失いそうになる自分を必死で奮わせながら、ひたすら参考書を写し続けた。
 一階の時計がベルを二回鳴らすのが聞こえた。ベルの音に混じって、遠くを電車が走り抜ける時のような微かな地響きを感じた。あるいはそれは僕の幻聴だったのかしれない。なぜなら僕の家の近くに電車の線路なんてなかったはずだし、そのとき僕は既に頭の半分が眠ることに同意していて、もう半分も睡魔の圧倒的な力に抵抗しきれなくなりつつある時だったからだ。ぼんやりとした意識の中で、僕はペンを置いたのだと思う。今日はこれ以上頑張ろうとしても無駄だ。僕の頭の半分の抵抗も空しく、目の前がだんだん暗くなっていき、とうとう最後には真っ暗になった。
 次の瞬間に、辺りに光が差し込み、急に眩しいほど明るくなった。目が慣れるまでしばらく時間がかかった。気がつくと僕は、一見駅のプラットホームのようなところに立っていた。
 いや多分、駅のプラットホームなのだと思うが、この際そんなことはどうでも良い。体中が、まるで足元のコンクリートに埋められたかのように冷たくて、寒かった。うなじから背中にかけてが、異様にぞくぞくして、魂が抜けてしまいそうに気持ち悪かった。
 その時僕の足元には、1冊のノートが落ちていた。僕の大切なレポートのノートだ。無意識に手を伸ばして拾おうとした。しかし、僕はすぐにそれを断念した。体がほんの少しでも動いた途端、未だぞくぞくしている背中に、凄まじい激痛が走ったのだ。それはまるで、そのぞくぞくする寒気をうんと濃縮したが故に出来たような痛みだった。僕は目をつぶって、痛みの余韻が去るのを待った。そして今度はできる限りゆっくり、恐る恐る腰を曲げてみようとした。しかしそれも無駄な試みだった。1センチでも体を動かすと、背骨をつぶされる様な激痛に襲われる。どうやら痛覚を刺激されずに出来ることは、判明した限りでは、呼吸とまばたきくらいのようだった。
――何してんの?
 突然、僕の頭の中に呆れたような声が響いてきた。目を開けると、痩せた黒猫が一匹、僕の大切な大切なレポートの上に立ってこちらをのぞき込んでいた。ご丁寧に小さな足跡まで数個つけてくれている。
「そりゃ……うっ……」
 唇を動かした途端、背中がびりっと痛んだ。僕はあわてて喋るのを止めた。
――このノート?そんなに大切なら何で拾わないの?
 黒猫は、後ろ足でノートをタン、と蹴った。また足跡が一つ増えてしまった。
 拾えるもんなら拾いたい。それが出来ないのだから、困ったいるのだ。とにかくそこからどいて、ノートをこれ以上汚さないでくれ。僕がどんなにこれを言いたかった事か!動けない僕は、黙って黒猫を睨みつける他なかった。
――あ、もしかして、体の動かし方を忘れちゃったの?
 判らないの?、ではなくて忘れちゃったの?、であることが少し引っかかった。でも、ともかく身体の動かしかたを教えて欲しいことに変わりはなかったので、僕は、深く考えもせずに頷こうとした。幸い今回は、首を動かす直前に気が付いて思い留まったので、危ういところで背中の激痛はまぬがれることが出来た。と言っても、気持ちの悪い寒気はむしろ最初の頃よりもひどくなっているような気がするのだが、あえてそのことには気付かなかったことにしよう。
――直接筋肉を動かそうとしたって駄目さ。アタマがあるんだろう、アタマが。それでイメージするんだ。自分が動く姿をさ。
 イメージ?それで本当に体を動かすことが出来るのか、疑わしい限りだ。でも、さっきのおぞましい激痛と、今でも続いている寒気という事実を前にしては、背に腹はかえられない。僕はこの黒猫の言うことを、とりあえず信じてみることにした。僕は、ぞくぞくする背中と心の中で格闘しながらも、自分がノートを拾い上げ、黒猫の忌ま忌ましい足跡の砂をはたき落とす様子を苦労してイメージした。
――こんなんでいいの?
――そうそう。忘れてたにしては上手いじゃないか。
 気がつくと僕は、両手で僕の大切なレポートのノートを、しっかりとつかんでいた。表紙を片手で軽くはたくと(勿論僕のイメージ上での話だが)足跡の砂は大方とれた。辺りが比較的乾燥していたのが幸いだった。僕の目つきはさっきと比べて随分柔らかくなったに違いない。
――ふうん、ずいぶん大切そうにしてるみたいだけど、
そのノート、一体何が書いてあるわけ?
――これは、高校の化学のレポートだよ。朝までに提出しないと、進級がかかっているんだ。
――それ、難しいの?
――ああ。難しいさ。
――あっそ。
 僕は、猫のあまりのそっけなさに少しむっとした。いいことを思いついた。試しに、化学の小難しい言葉をめいいっぱい使ってこのレポートの内容を説明して、この黒猫をけむに巻いてやろうと思った。ページを一枚一枚めくる自分の姿をイメージすると、面白いようにページがぴっぴっとめくれていった。
 だけど僕は、その間中、何か表現の仕様がない違和感を感じ続けてていた。適当なページでめくるのをやめた。その部分を二度三度見直して、愕然とした。違和感の原因が判った。さっきまで自分で書いていたはずのレポートの文字が、全く読めないのだ。勿論、大部分が参考書を写したものだとという関係上、理解できない内容があっても不思議ではない。でも、そんな程度ではない、文字自体が読めないのだ。まるでどこかの外国語で書かれているみたいだ。おそるおそる前後のページも二、三枚見てみたが、結果は全く同じだった。例え外国語だとしたって、僕の生まれて初めて見る文字だった。本当にこれを書いたのは僕なのだろうか。
――なんだよ。自分で書いたくせに、何も説明できないのかよ。
 黒猫は、僕を馬鹿にしきった顔をした。
――こ、この寒気のせいだよ。僕は今体調が本当に悪いんだ。お前さ、体の動かし方を知っているのなら、ひょっとしてどうすればこの寒気が止まるのかも知ってるんじゃない?
 黒猫は、ちょっと怪訝そうな顔をした。
――いつもあんたがしてるようにすればいいんだよ。
――いつも?僕が何をしてるって?
 気のせい、だと思う。何だか今僕が、昔から数えきれないほど何回もこのプラットホームに来たことがあるような感じがしたのは。その感じは、黒猫が台詞を言い終わった瞬間に最も強くなり、僕が言い返した途端、すうっと消えてしまった。
――それも憶えてないわけか。ま、ムリもないか。今までのあんたは今日みたいにこんなにはっきりした意識はなかったもんな。
 背中の悪寒は、いっこうに治まる気配がないどころか、確実にひどくなっている。この寒気がもっとひどくなると最終的には、体を動かした時の、あの激痛と同じものになるのではないかということに今更ながら気付いた。
――知ってるなら早く教えろよ。こっちはもう限界も近いんだから。
――判ってるよ。俺だって別に出し惜しみする理由なんてないしね。……要するに、あんたは今、眠りかけているところなんだ。中途半端だから苦しいんだよ。だから、完全に眠ってしまえばその苦しさはなくなるってこと。
――どうすれば完全に眠ってしまえるの?
 黒猫は、くすっと笑った。
――ほら、あれさ。
 前足を少し上げて遠くのほうを指し示した。そちらの方を見てみると、ちょうど電車が市街地の中から小さく現れてきたところだった。電車は、いつかどこかで聞いたことのあるような、優しい地響きと共に近づいてくる。
――あれに乗ればいいの?
――いや、あれに乗ることが出来るのは、俺達が死ぬときだけさ。今は俺達は、あの電車がホームに入るときを見計らって、線路の上に飛び込むんだ。
――線路の上に?
――そう。ほら、今がチャンスだ。
 電車がホームに入ってきた。黒猫はもう、飛び込む体勢になって構えている。その時ちょうど僕の寒気は最高点に達しつつあって、痛みに似た感覚が繰り返し繰り返し僕を襲っていた。ここで勇気を出して飛び込めば、完全に眠りに落ちろことが出来て、この感覚から開放されるのだ。僕は、この苦痛から逃れたいという一心で目をつぶり、自分と黒猫が線路の上に飛び込む様子をイメージした。
 次の瞬間には、僕と黒猫は線路の上に横たわっていた。朽ちかけた枕木が変に湿っていてひんやりとした。電車はもうここから二、三メートルの所まで来ていた。目が眩むような光が横切ったのを感じた。悲鳴のようにも聞こえる金属がこすり合わさった音と、ゴゴゴゴ、という電車のうなり声に混じって、極々小さくではあるけど、ボーン、ボーンと、時計のベルがなるような音が聞こえたような気がした。
 そして僕は、心地好い深い眠りへと落ちていった。
 


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