(続き)

「これ、何?」
 うちの玄関の扉を開けると、あやちゃんは不思議そうな顔をした。
 そこにはノーズライダーが立てかけてあった。もう俺は使わないから、と浩一から貰ったのだ。ロングとショートの間ぐらいの大きさで、最も一般的なのトライフィン。浮力があってバランスもいい、初心者向きの板だと言っていた。ただ、普通のボードと違うところはちょうど重心のあたりで真っ二つに割れていることだった。
「サーフィンに使う板、分かる?」
「それは分かるけど、何で割れているの」
「ああ。私も乗ったことあるんだけど、やっぱり下手だから事故っちゃったの。人間に怪我はなかったけど、一歩間違えたら大変なことになってたって浩一にさんざん怒られた」
 あの時の風景が頭をよぎる。浩一のレクチャーを受けながら何回か海に出たが、この事故があってから自分に運動はできないと諦めた。観賞専門で十分幸せだった。
「ああ、よかった」
「ん」
「自分で割ったんだったらどうしようかと思った。あの男裏切りやがって、アチョー!って」
「しないしない」
 苦笑しつつ豚バラと白菜を切って、土鍋に放り込む。続いてキムチ。二人とも辛党なので好きなだけ入れられる。こういう時でもない限り、一人暮らしで鍋をやる機会はなかなかない。
「あきこちゃん、頼まれてくれる?」
「私に出来ることなら」
「テレビとパソコンを買ってきて欲しいの。私、檜山を出られないじゃない」
 大学の敷地の中に電気屋さんはない。北門から歩いてすぐのところに安売りチェーン店が二軒あるけど、彼女は門の外には一歩も出られないらしい。
「いいけど、テレビとパソコン買うといくらぐらいするか知ってる? 安いものではないよ」
「足りない? これだけであと二週間もてばいいんだけど」
 あやちゃんは、財布を開けて見せた。私の考えは杞憂だったらしい。そこには、私の一ヶ月の生活費の十倍近いお札が入っている。さすが、いわくあり気な出生だけある。
「二週間?」
「うん。私、あと二週間で死ぬんだ」
 鍋の蓋がことりと動いた。
「最後の一ヶ月だからって、一人暮らしを許してもらえたの」
「またそんな」
「これは冗談じゃないよ」
「だって」
「隠しててごめん。でも、折角できた友達だから、気を使って欲しくなかったの」
 鍋が沸騰してきた音がする。そろそろ火を止めないと、煮詰まってしまう。
 ほらアンドロイドってさ、生まれたときから寿命が決まってるわけだよ。私の場合は二十一年って。彼女の言葉は貝殻で耳を塞いだみたいに波の音に掻き消さる。
 動揺の糸を解そうと試行錯誤するも、震える手では余計にこんがらがるだけだ。去年の九月に出会って十月に別れた女の子。二週間前に再会したばかりの、自称アンドロイド。
 今度別れがやってきたら。もう二度と再会することはないのだろうか。檜山の外の広大な世界を知らないまま、手の届かないところに行ってしまうなんて。どうすれば引き留められる?人形のような肌と髪が記憶の奥で揺れる。
 それとも始めから答えなんかないのだろうか。メビウスの輪のように、終わりも始まりもない糸ならいっそのことハサミで切ってしまおうか。
「海に行こう」
 しばらくして、私はやっとそれだけを言えた。
 海に一度も触れずに終わる人生なんて考えられない。それだけは確かだ。それに、海の深みの魔法に触れれば、あるいは何かが変化するかもしれない。
「二週間以内に、海を見に行こう」
「どうやって。檜山の警備体制は甘くないよ」
「門で見張られているんだったら門から出なければいい」
「塀を登るの? 無理だよ。脚立なんて運んでいたらすぐ見つかりそうだし」
「大丈夫、私が何とかする」
 彼女に海を見せる、それが私に唯一出来ることであり、するべきことだと思った。

 それから、暇さえあれば敷地の周りを歩いて、目立たないで越えられそうな場所を探した。
 合理的に作られた空間には死角が存在しない。大学だけではなく、周囲の繁華街も同じだ。表通りに一見華やかなチェーン店が軒を連ね、裏はひたすら住宅地。心を日常から開放してくれるような、隠れ家的バーや喫茶店は檜山にはない。
 しかしよく捜してみると何箇所か、塀が切れて金網になっているところがある。そこが狙い目だ。大抵は門の近くだったり大通りの近くだったり、すぐに人目についてしまいそうな場所だったが、学生宿舎の裏、周回道路も避けて通っている林の中に金網の部分を見つけた。一歩一歩海が近づいてきたと歓喜した。越えられそうな場所を見つけたよと電話すると、本当の海が見られるんだ、と嬉しそうな声が返ってくる。本当に海が見られるよ、と言うと、そうかな、と複雑そうなニュアンスで頷く。
 私は、作戦の成功を疑っていなかった。あとは決行するのみだ、いつにしようか。平日も土曜日も朝から夕方まできっちり授業が入っている。四大じゃないだけに授業の詰め込みかたはハンパじゃなくて、一、二年の時は授業を二つ落としただけで仮進級になってしまった人がけっこういた。況や三年で単位を落としてしまったら先がないので、学校をサボるわけにはいかない。
 次の日曜日の朝4時半に迎えに行くから準備しておいてね、と確認して、電話を切った。X―DAYはあやちゃんが退院してから二十八日目。

 決行の前日。今夜は早めに寝なくちゃと思いつつ、明日のことをあれこれと考えをめぐらせていると目が冴えてしまう。おもむろに起きだしてテレビをつけると映画が始まったところだった。《幽霊・イプセン原作》とテロップが出る。
 暗い話だった。恋人と引き裂かれて親の選んだ相手と結婚して不幸になる女主人公。諦めたような表情に反感を覚えた。どうして神に見捨てられた家に留まっているの? 私だったら運命に甘んじたりなんかしない。どんな労を強いられても外に出ていって幸せになるのに。浩一は必要な抵抗を怠ったのだ。その罰に、彼女と同じくらい不幸になってしまえばいい。不幸になって、あとで後悔するのだ。俺は間違っていた、あきこを選ぶべきだったって。
 本当に?
 本当に間違っていた?
 考えるのは止そう。真夜中の思考は必要以上にネガティブになりがちだ。私はきっと眠くておかしくなっているんだ。早くしないと、眠れる時間は三時間強しか残されていない。
 映画なんて見なければ良かった。浩一の不幸を願うだなんてどうかしている。邪な考えを払うように頭を軽く振る。多めのラムを入れたホットミルクを喉に流し込み、無理矢理布団にもぐり込んだ。
 どれくらいの間うとうとしただろうか。時計の甲高い電子音で目を覚ます。自転車であやちゃんの宿舎を目指した。自転車は例の金網の前にる学生宿舎に停めるつもりだ。運が悪ければ撤去される可能性もあるけど、移動時間は早いほうが目立たない。海を見るという目的さえ達成できれば、帰ってきてから多少怒られても構わなかった。
 彼女の部屋のインターホンを鳴らす。しばらく待ったけど、出る気配がなかった。まだ寝ているのかな。更に何度も鳴らす。壊れているのかもしれない。今度はドアをたたいてみる。軽めに一回、二回、三回と。それでも誰も出なかった。
「おおい、あやちゃん」
 一抹の不安が頭をかすめた。手を堅く握って、ドアを強くたたき続けた。反応はない。
「本田君、何をしているんですか」
 男の人の冷たい声が階段に響いた。
「森本先生」
 あやちゃんの主治医だ。大学では内科関係の授業を担当している。ぎくりとした。でも、何か悪いことをしているのを見られたわけではない。堂々としなくては。
「あ、あやちゃんの家に遊びに来たんです。友達だから」
「こんな時間にですか?」
 声を押し殺して笑う。この人、知ってるの?
「あやちゃんは何処にいるんですか」
 先生は、質問に答える様子はない。その代わり、丁寧に決められた台詞のように次の言葉を発した。
「ところで、君が外部の人間に患者の話をしていたという報告があるのですが」
 病院の外で患者の話をするのは最大のタブーになっている。居酒屋で愚痴をこぼしているのがバレて退学になった人もいるし、メモを電車に落としただけで始末書を書く騒ぎになった人もいる。
 でも私はこの規則を破った覚えはない。学校の友人といる時はお互いタブーを理解しているわけで、患者の話題になんてならないし、学校の外には気軽におしゃべりするような友達はいない。高校の同窓生ともここ半年会ってない。
「本田君、家に帰りなさい」
 有無を言わせぬ口調。学生の不祥事など、いくらでも捏造することが出来る。それをネタに退学させることも。これ以上関わるなと、先生はそう言っているに違いない。
「あやちゃんは、どこに居るんですか」
「病状が悪化したので先ほど実家に戻らせました」
「病状が……悪化?」
 今日は彼女が退院して二十八日目。今悪化したということは、しかも、病院ではなくて実家ということは、つまり。
「先生、最後に一つだけ質問させて下さい」
「何ですか」
「あやちゃんは、アンド」
「早く帰りなさい」
 これ以上この人と話していても仕方なかった。一人でゆっくり考えたい。まだ全てが終わったわけではない。少なくともそう信じたい。私はくるりと背中を向けて、無言で階段を下りた。

 東の地平線から太陽が覗き、空が一気に明るくなった。広場で自転車にまたがった自分の影が長く伸びた。
 通称「フォーク」が朝日を反射してぎらぎらと光りだす。いつのまにか台座の工事は完了していた。2メートル近く高くなった台座に乗って、前にも増して強烈な威圧感を醸しだしている。ペダルに体重をかけて、タイヤが回りだしてからもう一度顔を前に上げたとき、金属の先にあやちゃんが突き刺さっている幻影が見えた気がした。胸を貫かれて口から血を流しながらにっこりと笑っているあやちゃん。私は思わず叫びそうになったけど、もう一度顔を上げたときには既に幻影は消えていた。
 そうだ、彼女を殺したのはこのフォークだ。動物実験センターの犬のように、フォークに突き刺されて死んでしまったのだ。たった一度海を見ることも許されず、たった一歩檜山の外に出ることも許されずに。そんな残酷なことがあっていいのだろうか。人生のシナリオとはもう少し柔軟に出来ているものじゃなかったのか。
 私は、自転車を全力でこぎながら、金属塊を支える台座に思いっきり突っ込んだ。壊れてしまえ、こんなもの、こんなもの。何もかもを縛り付けておくだけで、人間一人自由にすることが出来ないのなら。
 馬鹿だった。敵うわけないと分かっているのに。自転車は大理石の台座と正面衝突した。前輪から全身に衝撃が走り、筋肉の緊張が空回りしているみたいに拡散する。私の身体は宙に浮く。
 身体がふうっと軽くなった。地面がスローモーションのように迫ってくる。この感覚、この軽さ、知っている。前にも体験したことがあるような気がする。
 そう、浩一と一緒に海に出て、教わっていたときだ。何回目だっただろう。私はまだ恐くてボードの上に腹ばいになったまま岸まで押されていたけれど、波に乗るという感覚はなんとなく分かってきた頃だった。
 絶好の掘れた波が近づいてきた。私は浩一しか見ていなくて、すぐうしろでテイクオフする男の人に気付いていなかった。パドリングを始めた時、誰かが叫ぶ声が聞こえたような気がした。が、何のことだか判断できなくて、そのまま渦の中へ飛び込んだ。そして。
 立てた。
 今まで、立たなくちゃと思えば思うほどバランスを崩してしまい、波においていかれてしまっていた。しかし今は、何も意識せずに自然と立っていた。後ろ足の下をエネルギーが流れる感覚が伝わってくる。初めての出来事だった。
 しかし次の瞬間、視線をトップに移すと同時に自分のものではないボードがターンしている様子が映った。
 ドロップインだ。他の人の邪魔してしまった。早く波から降りて、あとで謝らないと。私は焦った。こういう時、どうすればいいのだっけ。口では教わったような気がするが、実際にやったことはない。たしか、一度トップに上がってから反対側に降りて波をやり過ごすのだ。でも、今トップに近づいたらあの人にぶつかってしまうかもしれない。
 困惑するほど私の板は私のものではなくなっていく。波の力に引きずられて板はトップに登っていった。私は板から放り出された。
 とっさに両腕をあげた。頭を抱え込んだ姿勢のまま波に突っ込む。渦に巻かれないように必死で手足を動かした。しばらくして水面に浮かび上がったとき、真っ二つに割れたボードが空を舞うのが見えた。
 その時、一つの考えが頭に浮かんで消えていった。この場所は自分の居るべき場所ではないのかもしれない、この場所から出て行かなければいけなくなる日が近づいているかもしれないという不安。不安が確信に変わらないうちに、浩一の腕にしがみついていた。

 私の身体は横向きになってコンクリートにたたきつけられた。Gパンが破れたのが分かる。手足が摩擦で熱かった。やや遅れて痛みが襲ってくる。
 生暖かいものが流れる感触がする。
 血? 涙? 両方だ。
 今、泣いているんだ。自分で驚いた。
 浩一はプロのサーファーにはなれなかった。私は浩一の隣には居られなかった。そしてあやちゃんは海に触れることができなかった。どうして世の中は、こんなに不条理にできているのだろう。それ以上越えられない壁を越えられる力が、海にはあると思っていたのに。
 私はずっと泣かなかった。ノーズライダーを割った時も、彼が実家に連れ去られた日も、残酷な葉書が舞い込んできた日も、泣かなかった。何かを信じて待っていた。その何かが間違いなくやって来ることを、私の代わりにあやちゃんに証明して欲しかったのだ。
 強打した膝が、心臓のリズムに合わせてどくんどくんと悲鳴を上げる。擦り切れた脛も腿もきりきりと痛む。あたたかい血のしみは涙で薄まりながらどんどん広がっていく。私は負けたんだ。いや、とっくの昔に、ひょっとすると生まれ落ちた瞬間から負けていたのかもしれない。ただ、それを認めたくなくて、見て見ぬふりをしていただけで。
 私は、いつまでも泣きつづけた。遙か向こうまで続いていた影の先端がぐんぐん近づき、眠りから覚めたばかりの鳥たちが戻ってくる。中央広場は少しずつ人通りが出てきた。二、三人が私のほうをちらちらと不審そうに見ながら通り過ぎていったが、彼らの視線など今や気にはならなかった。ただ、悔しくて、悔しくて。
 誇らしげに鎮座するオブジェの下にうずくまって、私は破れたGパンを手で押さえながら、いつまでも、いつまでも、声をあげて泣き続けていた。
 
<FIN>
 
 


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