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 曇り空の下

 微かに暖かい、心地好い風が吹いていたので、僕は昼食を屋上でとることにした。サンドイッチの包みを片手に持って、午前の授業が終わった生徒でひしめき合うエレベーターに乗りこむと、上昇するにつれて彼らは次々と降りていき、最後には僕一人となって屋上に到着した。どんよりとした空の下、フェンスのない屋上でたった一人の昼食を食べる、そんな時間が、今日は何だか無性に欲しい気分だった。
 空はいつものようにうっすらと曇っていた。南のほうに一点、心持ち明るくなっている場所があるのでかろうじてそこに太陽があることが確かめられる。僕は街全体が見渡せる一角に腰をおろし、売店の包みを広げた。乾いた町並みと空のあいまいな色に、懐かしいような淋しいような妙な感覚を憶えた。
 まだお昼だというのに、今日はやけにいろいろな出来事があった。しかも嫌なことばっかりだ。僕はくたくたに疲れていた。先刻までは、どうして自分ばかりこんな目にあわなければならないのだろうと、そればかりを考えていた。しかし空腹が満たされてくると、いつのまにか遠くのビルやその向こうの山の稜線を眺める精神的余裕がでてきた。高いところからの景色には、何か不思議な力があるに違いない。こうしているとだんだん思考回路がおかしくなってきて、まるでこのまま空を飛べるような妙な気分になってくる。勉強も恋愛も、関係のない世界へ飛んで行きたいと思った。
 不意に、卵サンドを持っていた右手が軽くなった。どうでもいいことを考えているうちに、いつの間にか手が止まっていたのだ。顔を上げると、1メートルほど離れたところで、黒猫が恐る恐る逃げようとしているのが目に入った。僕と目が合うと、一瞬ぎょっとしたように目を丸くして、口にくわえていたパンをコンクリートに落としてしまった。あわててそれを隠そうと前足で引き寄せるしぐさが、黒猫の気取ったルックスとそぐわなくて可愛かったので、僕は思わず盗み笑いをしてしまった。
――笑うなよ。こっちは真剣なんだから。
「ごめんごめん、あんまり可愛かったから。」
 僕は、何となく親近感を覚えた。こいつと自分に何か通じるものがあるに違いないと思った。
 黒猫は相変わらず不機嫌そうに言った。
――それより、何でこんなところに来たんだよ。
 どうやら僕は、この黒猫のテリトリーを侵してしまったらしかった。悪いことをしたかな、と思った。別に他意があって来たわけじゃない、ただちょっと嫌なことがあったから、一人でお昼を食べたかっただけだということを説明した。黒猫はふうん、といかにも興味がなさそうな返事をすると、目を細めて一回小さくあくびをしてから、僕に背中を向けて寝っころがり、身づくろいを始めた。僕はかちんと来た気持ちを必死で押さえながら、それでも気になっていたことを聞いてみた。
「お前は何でここに来たんだ?」
――‥‥ただ、ちょっと嫌なことがあって‥‥
 背中を向けたままの猫の声がした。
 そうか、と僕は軽く微笑みながら呟いた。今度は自分ほうがちょっと優越感を感じた。こいつがここに来た理由に多少思い当たる点があったのだ。
「あのさ。」
――ん?
 なるべくさりげなく聞いてみる。
「猫でも飛び降り自殺ってするのかな。」
 彼は、明らかに慌てた様子だった。
――な、何莫迦なこと言ってんだよ。俺はな、俺は、別に……
「いいよ、そんなに必死で否定しなくたって。」
――俺はな、本当に、元気だからな。見てろよ。ほら、こおんなこともできるし、こおんなこともできるし……
 黒猫は、いきなり屋上の端の危なっかしい所でアクロバットまがいの事を始めた。でんぐりがえし、とんぼ返り、そして。
――こおんなこともできるし……
 彼は、手足を大の字のように広げて、そこから飛び降りかけた。
「危ない!」
 僕はかけ寄った。自分が落ちてしまうかもしれないとか、そんなことは何も考えてはいなかった。下に見える模型のような眺めにくらくらした。膝下に力が全く入らなかった。忘れていたけど僕には高所恐怖症の気があるのだ。目の前が濃いグレーに染まった。明らかに貧血をおこしかけていた。
 多分二、三秒後のことだろう。気がつくと僕は彼の前足をつかんでビルの縁に立ちつくしていた。どうやら間に合ったらしい。僕は深くため息をついた。
――何だよ。邪魔するなよ。人が折角。
 ふてくされたように呟く彼の額には、間違いなく冷や汗の跡があった。
「あのさ、お前、明日もここに来いよ。」
 僕は黒猫を安全に抱き直して話しかけた。
――どうして。
「どうせ腹へってんだろ。弁当、二人分持ってくるから、一緒に食おうぜ。」
 自分でも信じられないくらい優しい声が出た。
――仕方ない、そんなに言うなら一緒に食ってやってもいいぞ。
 言い終わってからも、彼の口はもごもごと動いていた。何かを呟いているようだった。
 その言葉が”ありがと”ではないかと考えてる僕は、果たして虫が良すぎるだろうか。


 
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