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自転車
 

 やっぱり道間違えたんじゃないの、と言う台詞を飲み込んで、自転車をこぎ続けていた。目的地の会場は、パンフレットの説明によると駅からそんなに遠くなかったし、もう十五分近くもこいでいるのだから、そろそろ着いてもいい頃だ。しかも、先刻から急激に雲が厚くなり、暗くて今にも雨が降り出しそうだった。天気予報では今日は一日中晴れだと言っていたから、傘なんて持って来てない。雨が降り出す前に会場に着かないと、よそ行きの服が台無しだ。私は元々あまりおしゃれに気を使う方ではないけれど、今日は仮にもファションショーを見に行くわけだしと思って、家中で一番高い服を着てきたのだから。
「ううん、おかしいなあ……。」
 楽天家の泰子もやっと不安になってきたのか、自転車を止めて鞄のポケットから出した地図を開いた。こういう時、本来なら彼女の方が焦るべきなのだ。私はただ彼女の半ば強引なお誘いに応じてしまっただけで、これは泰子の彼氏の勤めているメーカーのファッションショーなんだから。普段からおしゃれに気を使っている彼女の着ている服の方が、どう考えても私のより高そうで、しかも雨に弱そうな生地で出来ていた。
「ほら、でも道はこれであってるみたいだよ。」
 地図をのぞいて、彼女の指の動きにあわせて道路を目で追ってみる。確かに、このルートで行けばやがてコンビニがあり、そこを曲がると会場である沢会館の前を通る大通りに出られるはずだった。
「会館が移転した、なんてことあるわけないし……」 
 私は、だんだん帰りたくなってきた。泰子と泰子の彼氏の両方との知り合いだからなんていう理由だけで、なぜ私が興味もないファッションショーなんかにつきあわなくちゃならないんだろう。自分の彼氏なんだから、恥ずかしがらないで一人で行けばいいのに。私って、利用されているだけなんだろうか。
「ま、もう少し先に行ってみようか。いい?」
「はいはい、もうお任せしますよ。行きたいのは私じゃないんだから。」
 我ながらいやな言い方だったかな、と思いながら答えた。でも、彼女のあまりにかわいらしい表情を見ていると、どうも複雑な気分になる。いらいらするのに、はっきりと文句が言えなくなるのだ。もしかしたら、いらいらするのは自分に対してなのかもしれない。
「あ、もしかして、疲れてたりする?」
「ううん、大丈夫。」
 本当は結構疲れていたけど、気を取り直して明るく答えてみる。彼女は安心した表情でサドルに足を乗せた。二台の自転車は再び走り出した。
 まもなく、額に冷たい滴が一滴落ちてきたのを感じた。まずいかな、と思っていたら、案の定それに続いて体のあちらこちらに滴が次々とあたってきた。滴の落ちる回数は目に見えて増え続けている。とうとう本格的な雨が降り始めたようだった。ハンドルを握る腕を見ると、スーツがだんだんまだら模様になっていくのが分かった。
「ああっ、ワンピ買ったばっかり!」
 前を走る泰子から悲鳴が聞こえた。
「それ、いくらぐらいだった?」
「ン万。」
 思った通り、それは私のスーツより一回り高かった。今では雨のせいで無惨にもまだら模様になっている。割と繊細な布なので、運が悪いと乾かしても復活しないかもれない。
 雨はあっという間に土砂降りになった。服は繊維の奥までぐっしょりと雨が染み込んでいた。体重が服のぶん5割り増しぐらいになった気分だ。自転車をこぐ度に濡れた服が肌と擦れ合って冷たかった。お世辞にも気持ちいいとは言えない感触だった。なんだか、だんだん何のために走ってるんだか分からなくなってきた。
 ずいぶんたってから、視界の奥に、コンビニの看板らしきものが現れた。
「あ、あれだ。」
 泰子の嬉しそうな声を聞いてはっとした。角を曲がる目印だった。あの角を右折すれば沢大通りだから、会館が見えるはずだった。ほっとしながら自転車をこぐ足を速める。近づいてみると、やっぱりそれは目印のコンビニに違いなかった。これでやっと目的地にたどり着ける。早く屋根のある会場に入って、座って休みたかった。勢いよく右折する。
「えっ?」
 そこにあったのは、しかし会場とは全く別の風景だった。土砂降りの向こう側に見えたのは、東京のど真ん中にはあまりにも似つかわしくない、ただっ広い空き地だった。空き地と言うより、野原と言った方がいいかもしれない。どこまで続いているのか一瞥しても分からないくらいの広さだった。もしも、北海道の風景だよと言われてここの写真を見せられたら、信じてしまっただろう。よく見ると所々に名前は分からない小さくて黄色い花が咲いていた。綺麗な風景だ。晴れた日だったらピクニックに行きたくなるようなのどかな場所だった。駅からそう遠くないところにこんな場所があったなんて、今まで全然知らなかった。
 しばらくの間、冷たい雨のことも忘れて、その光景を見入っていた。空き地に生えているる草は、気持ちよさそうに大粒の雨を浴びていた。
 私は、ふと我にかえって言った。
「ねえ、やっぱり道、間違ってるよ。」
「……うん。そうみたいだね。」
 泰子は、やっと認めたようだ。
「どうする?」
「とりあえず、先刻のコンビニまで戻ろう。」
「うん。」
 私は、何となく自転車から降りて、ゆっくりとUターンした。泰子もそれに続いた。一歩踏み出すたびに、肌に張り付いた服が一瞬剥がれ、またすぐ音を立てて張り付いた。コンビニの前には、他の自転車は一台も停まっていなかった。
 中に入ると、私は暇そうに雑誌を並べていた店の人を呼び止めた。
「すいません、沢会館を捜しているんですけど……」 店員は、不思議そうな顔をして答えた。
「沢会館ならほら、すぐ前にあるあの建物ですけど。」
 すぐ前には空き地があるだけで、建物なんてないじゃないですか、と心の中でぶつぶつ言いながらガラスのドア越しに外を見てみた。すると、先刻まで空き地だった場所に、確かにタイル張りの大きな建物が佇んでいた。写真で見た沢会館と同じ外装だった。
 泰子が、買ったばかりの肉まんの袋を片手に私のとなりに並んだ。私達は、目の前の建物を、しばし呆気にとられた表情で眺めていた。
 会館の手前には、極小さな空き地があった。本当に小さくて、車を5、6台停めたら埋まってしまうような空き地だった。でも、確かに所々に黄色い花が咲いていた。先刻のただっ広い空き地は、これだったのだろうか。まさか。
「はい。」
 泰子は、私に肉まんを一個手渡してくれた。ふかふかで、湯気がたっていた。包装したままほっぺたにくっつけてみた。あったかい。
「どうする?」
 私は、泰子に腕時計を見せた。ファッションショーはもうとっくに始まっている時間だった。しかし、このびしょぬれの髪と服では、会場に入ることが憚れないこともなかった。
 泰子は、口に入っていた肉まんを飲み込んでから、ふっと笑って言った。
「ね、今から映画でも見に行かない?」
「ファッションショーは?」
「もういい。どうせ大幅に遅刻だし、まあ、あいつのやってる仕事なんて下っ端中の下っ端だし。」
「終わってから、待ち合わせしてるって、言ってなかたっけ?」
「うん、約束してる。でもすっぽかす。」
「すっぽかすって、ねえ。」
「うーん、ここの近くだったら、この二つのどっちかになるのかなあ……」
 泰子は、早くも雑誌コーナーからぴあを手にとって、ぱらぱらとページをめくっている。
「どれ?」
 私も、肉まんで元気が出てきたみたいで、なんだかだんだん映画を見に行きたくなってきた。とりあえずぴあを読んでみようと、雑誌を後ろから覗き込んだ。
 


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