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夜の終わり

 どうして期待してしまっているのかは分からない。今まで、何度も同じようなうわさを耳にして、そして下手な希望だけ持たされて、結局裏切られることを繰り返していたのに。近いうちに迎えが来るらしいなんていう、いい加減聞き飽きた都合のいい噂が今日に限って無性に気になって、どうしても寝付くことが出来なかった。この調子では、今夜はこの研修所に来て初めての完徹になりそうだ。
 そんなことをうだうだと考えながら、私はエレベーターに乗って、最上階の無人カフェへと向かった。この研修所内に住んでいる人間は元々そう多くはない。真昼間でもまばらにしか人を見かけないが、深夜になるとまるでゴーストタウンのように通行人一人としてすれ違うことはなくなる。みんな、夜の間は何をしているのだろう。折角の昼間が長い夏なのに、自分の部屋に閉じこもってばかりいて楽しいんだろうか。まあ、こうやって部屋の外に出たからといって特別楽しいことがあるわけではないけれど。行く場所があるとしたら、このカフェぐらいだ。ここは全てセルフサービスだから、今日のように深夜二時なんて時間に行っても一応営業しているのだ。
 入り口の自動ドアの開く機械音が重く響いた。案の定、客は私の他に誰もいなかった。セルフサービスの機械から、この店の名物、異様に安くてボリュームがあるストロベリーパフェを買って、窓際の一番端の席に向かった。
 私は、あまり座り心地の良くない椅子に座って、昼間なら遙か遠くまで続く山々を見渡せる大きな窓ガラスにそっと寄っかかった。プラスチックのスプーンを袋から出して、クリームの縁が溶けかけて流れ出しそうなパフェを口に運んだ。ストロベリージャムの人工的な赤い色に見覚えがあった。ちょうど私がここに来ると決めた頃、ある人が中古で買ったポンコツのヘリコプターの色だった。私がさんざん趣味が悪いと文句を言った色だ。そんなに昔の話ではないのに、何だがとても懐かしく感じた。あきれかえっている私を見て、ムキになって怒ったところが可愛かった。このくらいなら修理すれば動くようになるんだ、見てろよ、と熱っぽく語っていたけど、本当に稼動するようになったのだろうか。もし修理に成功したなら、せめてボディーの色くらいは塗り直してもらいたい。今頃彼は何をしているだろう。
 見上げた窓の外の空はどこまでも暗く、昼間なら遙か遠くまで見渡せる筈の緑の山々は殆ど闇にのまれていた。街灯の一つもあればまだ親しみもわくのかもしれないが、微かな星の明かりだけでは夜の森の不気味は全く軽減されていなかった。窓ガラスには、ただ、誰もいない店内の控えめな照明だけがくっきりと映しだされている。いつになったら夜が明けるのだろう。緯度の高さからいって、あと一時間もすれば太陽が昇りだす筈だった。私は、まだここでの日の出は一度も見たことがない。どちらかと言えば朝型の生活をしているほうだけれど、それでも今までここで目が覚めるのはいつも太陽が出てから相当な時間がたってからだった。今日はチャンスかもしれない。この辺はまだ空気が綺麗だから、都市の郊外の海辺りから見た日の出に比べたら結構見られるんじゃないかと思う。
 私は、パフェを三分の二くらい食べたところでスプーンをおいて、そっと息をついた。研修所内には四つの飲食店があるが、このカフェは無人の割にはおいしい方だと言われている。私は別に小食ではないし、いつもだったらこのくらいのボリュームなら余裕で食べ尽くせるのに、今日はどうも食欲がないみたいだった。やはり、迎えが来るとかいう噂が頭から離れないのだ。気にしても仕方ない、なるようになるさ、と自分に言い聞かせてみる。食べ物を残すなんてもったいない。

 いつも不思議に思っていることは、ここを始めとした敷地内の飲食店の料理は、どこで作られているのだろうということだった。食べ物だけではない。この研修所には、生活に必要なものは全てそろっている。それらは一体どこから来ているのだろう。物資をどこからか定期的に輸送しているような気配は全くない。そもそも道がないし、飛行機が飛んでいるような音を聞いたこともない。ということは、全てビルの中に蓄えられているのだろうか。蓄えには限界があるはずだ。もしも本当にこのままずっと迎えが来なかったら、私たちはあとどのくらい生きられるのだろう。
  残したパフェの、アイスクリームの部分がゆっくり溶けていく。エアコンの調子が悪いらしく、カフェ内はじっとしていても汗ばむくらいの温度になっていた。私は、白いアイスクリームが赤いジャムと溶けあってマーブル模様になっていく様子を何となく眺めていた。このまま放っておけば、やがて均一に混ざってピンク色にでもなるのだろうか。多分、こんなにゆっくりとしたスピードだったら混ざる前に腐ってしまうだろうけど。形を保つことも、形を完全に失うこともできない、その半端さに何となく親近感を覚えてじっと観察してみた。アイスクリームが溶けて形が崩れていく様子は、よく見てみると微妙な規則性があって、眠れない夜の暇つぶし程度としては十分貢献してくれた。

 その時、突然、窓が明るくなった。本当に突然だった。夜が明けたのだろうか。普通、夜というものはもう少しゆっくりと明けるものではないだろうか。一瞬、何かとんでもないことが起こったのかもしれないと思ってひやっとした。様々なあり得ない可能性が頭をよぎった。でも、これは正真正銘の日の出のようだった。窓の外には、地平線から頭をのぞかせ始めた新しい太陽の姿があった。目を細めると、視界の中で赤い光が放射状に飛び散り、澄んだ空と深緑の山々を突き刺した。
 初めて見る朝日は、鮮やかで、しかも力強い色の光だった。昼間の見慣れた太陽とここまで違う色をしているとは想像もしていなかった。
 本物の赤だと思った。
 窓の外に連なる山々は、朝日を浴びて異変を起こしていた。隙間なく斜面を覆っていた緑の森が、溶け始めたのだ。溶けた木々は蒸発したかのように空気と混ざり、その輪郭を失っていた。そしてそのあとに現れたのは、妙に見覚えのある風景だった。ビルディングが建ち並び、車と人がひしめき合っている。都市だった。私が生まれてからこの研修所に連れてこられる前までの二十年間住んでいた、その都市の風景だった。厚い窓ガラスを伝わって、車のクラクションの音や、有線放送で流れるヒット曲までが微かに聞こえてきた。
 私は、思わず窓を開けて、頭を半分くらい外に出した。朝日を浴びたビルディング群はまるで自ら光を発しているかのように輝いていた。人がざわめいている声までが耳に心地よかった。都市の喧噪の光景が、こんなに美しいものだったなんて初めて知った。私は、それが今まで一度も見たことがなかった光景であるかのように見とれていた。
 少しして、私はふと不安になった。太陽は、あと少しでその姿を完全に現そうとしていた。太陽が昇りきってしまったら、この都市の風景は再び消えてしまうのだろうか。そして、またいつもの、どこまでも変わらない山と森だけの単調な風景に戻ってしまうのだろうか。冗談じゃない、と思った。もう、こんな人間味のない極北の研修所なんかには住んでいたくなんてない。一刻も早く有機的な生活のにおいがする故郷に帰りたかった。
 都市の幻影は、既に部分的に消え始め、ビルディングと空との境目が、溶けて曖昧になっていた。まだ間に合う、今しかない、と思った。今、この都市の中に飛び込んで、登りかけの太陽の赤い光をビルディング群と一緒に浴びて、それらと一緒に空に溶けてしまえば都市に帰れるのかもしれない。迎えが来るという噂は、きっとこのことだったのだ。確かに迎えはやって来た。揺れる地平線が、私のことを手招きして呼んでいるような錯覚さえした。
 私は、今窓から飛び降りてしまうことを決意した。テーブルによじ登り、窓をもう少し開こうとした。窓は案外堅くて、普通に押しても今まで開いていた以上には開こうとしなかった。焦って力ずくで開けようとしたら、テーブルの上の食べかけのストロベリーパフェの器を倒してしまった。溶けたアイスクリームが、膝のあたりまで流れてきた。びっくりするほど冷たかった。調子の悪いエアコンと高鳴る自分の心臓のせいで皮膚がほてっていたのがきゅっと引き締まった。倒れた器は、テーブルの上をゆっくりと転がって、ガラスの割れる大きな音を立てて床に落ちた。私は、思わず目を閉じた。 
  それと同時に、耳をつんざくような汚いモーター音が鳴り響きだした。情緒なんていう言葉からかけ離れていて、騒音としか表現のしようがない音だった。品というものが全く欠けている。朝日に照らされた都市の幻影には、哀れになるほど似つかわしくなかった。私は、溶けたアイスクリームに浸かった足をそのままに、眩しい空を眺めて音の出所を突き止めようとした。
 音の正体はすぐに分かった。赤は赤でも、えらく趣味の悪い、きっつい赤色のヘリコプターがこちらへ近づいて来るのが見えた。まさかと思った。でも、無性に見覚えのある、懐かしいヘリコプターだった。操縦席に座っているのは彼に違いなかった。こんなに格好悪くて、今にも空中分解しそうなポンコツヘリコプターを運転しようなんていう物好きは、彼の他に居るはずはないだろう。
 私は、笑いが止まらなかった。ここに来て何ヶ月も声を出して笑ったことなんてなかったが、その分を取り戻すが如く笑い続けた。それは、感動的な朝日と趣のかけらもないヘリコプターという組み合わせがあまりにも滑稽だったからかもしれないし、それ以外の理由があったからなのかもしれない。とにかく私は、ヘリコプターが目に入る度に吹き出し、ようやく笑いがおさまってくるとまた見てしまい、ついにはおなかが筋肉痛になるほど笑い続けた。そして、その間に朝日に照らされた都市の幻想的な風景は、昇りきった黄色い太陽の中に吸い込まれるようにして、あっけなく消えていった。そして目の前は、何事もなかったかのように針葉樹で覆われた山々が連なっていた。
 私は、ヘリコプターが研修所の前に着陸したところを見届けると、一歩一歩を確かめながらカフェを出て、下りのエレベーターに乗った。
 
 


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