覆い隠すもの
 

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以前、私たちの日常生活では「本物」が覆い隠されている、というようなことを書きました。じゃあ何が覆い隠しているのか、という質問をBBSでしていただいた解答を、そろそろまとめてみようと思います。鍵となるのは『存在と時間』第5章「現の日常的存在と現存在の頽落」です。

まず、日常生活の特徴を分析してみましょう。
「世間話」と名付けられた現象があります。これは、何か新しい知識を得るための発話ではなく、誰もが前提として漠然とした共通見解を持っているということを確認し合うための発話です。「ヒデのボールの蹴り方の特徴って何だろう?」とは言わずに「ヒデって上手いよねー(そうだよねー)」と言うような会話を想像してもらえれば分かりやすいと思います。

また、「好奇心」と名付けられた現象もあります。好奇心というとポジティブなイメージがありますが、これは知識を得るための好奇心ではなく、知識を得たような気になって、むしろ本当の知識から逃げるための好奇心です。知るために見るのではなく見るために見る、つまり「見た」という事実を手に入れて満足してしまうのです。新しいもの、話題になっているものに次々と飛びつくので、その対象について何一つ理解しないまま、また次の対象に興味が移ってしまいます。

「世間話」と「好奇心」を正当化するために、共通見解の「曖昧さ」が生まれます。何一つ知らないのに全てを知っているような気になっているという空洞の知識はある意味ジョーカーであり、現実に何が起こっても「そうなるだろうと薄々気づいていた」と言うことが出来ます。万能なジョーカーが現実世界よりも勝っているようにも思え、その万能さを守るために、現実世界をくだらないものだと思い込み、直視することを避けるようにします。こうして私たちの「全てを知っているような錯覚」はますます強化されていくのです。このように、空洞の知識を共有する世間の中にとけ込んで本来の自分を忘れている状態を頽落(ていらく)といいます。

頽落とは別に堕落とか落伍のような非難の言葉ではなく、ある状態を示しているというだけの価値的にはニュートラルな言葉です。私は決して頽落しちゃ駄目だと言っているわけではなく、それどころか頽落は、人間が実存していることの最も大きな証拠なのです。

人間の実存の仕方は「世界−内−存在」と呼ばれます。「世界−内−存在」とは、いつでも世界に向けて開かれていて、「心境」「了解」「話」という方法で世界と関わっている、世界に溶け込み携わっているような在り方です。
「心境」とは、私たちが既に存在してしまっているということ(被投性)において人間を開示します。
「了解」は企投という構造において己の存在可能を存在する存在可能態であり、了解したものを領得する可能性を含んでいます。
「話」は、「心境」と「了解」を分節化します。

頽落の中で人間が関わっている「世間話」「好奇心」「曖昧さ」は、非本来的な様態ではあるものの、まぎれもない「心境」「了解」「話」の現れであり、「世界−内−存在」です。人間は「世界−内−存在」に関わっているからこそ頽落しうるのです。

では、私たちが頽落という様態としてではなく、本来的な様態で実存する可能性があるのはどのような時なのでしょうか。
今度のキーワードは「先駆的覚悟性」です。
このお話しはまたいつか。


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