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15:08 2004/05/30【試験会場を探すところからが試験です】

そんなことよりちょっと聞いてくださいよ。先日、とある試験を受けてきたんですよ。試験。
それで受験会場に行ってみると、門の前に紙が9枚張ってあって、受験教室早見表が載っていたんですね。ちょうど下の図みたいに。

分かりにくいと思いますが、そのまんまです。紙の切れ目を無視して一枚の長〜い紙だと思うと、「1〜99番が1号館」で「100〜199番が2号館」で「700〜899番が8号館」って読み方なのだと理解できるのですが、受験前でテンパっている私にとっては、全体を見渡す心の余裕なんてあるわけなくて、自分の受験番号のところしか見ないわけじゃないですか。んで、私は600番台だったので、普通に「ああ、6号館だな」と理解してしまったわけです。

ところが当然、、はるばる6号館に行っても私の席はない。仕方なくもう一度門の前に戻って、やっと600番台の教室が7号館であることに気づいて、再びはるばると7号館(これがまた、分かりにくい場所にあって迷いかけた)まで行くハメになったわけです。ちょうどその時は靴擦れが出来ていてゆっくりしか歩けなかったため、たっぷり10分もロスしてしまいました。この10分間に教科書読んでたら、」ちょうどその章の問題が出て受かったかもしれないのに。

そりゃまあ、我々は受験させていただいている立場なので、向こうとしては最低限の情報さえ提示してあれば親切になんてしてやるつもりはねえって思いたくなるのも分かるけどさ。でも、私のように靴擦れしてたり方向音痴だったりする人のための気遣いみたいなの、もうちょっとしてもいいんじゃないですか。少なくとも、あの受験教室早見表はわかりにくすぎです。他にも間違った人いっぱいいた……はず……あれ?

手元の受験票に、ちゃんと記述があったことに気づいたのは試験が終わってからでした。
ごめん、私が全て悪かった。
 

23:53 2004/05/27【ハマり度と頻度の関係】

うちのお風呂はユニットバスですごく狭いので、普段はシャワーだけで済ませてしまい、週に1回、土曜日だけ湯船に湯を張ることにしています。

だから私にとって湯を張ることは、非日常のイベントなわけです。せっかくのイベントなんだからイベントらしくしようと、いつも必ずハーブ系の入浴剤を入れたり、泡風呂にしてみたり、何か変わったことをしてみないと気が済みません。最近ではFranc francのバスソルトがすごく香りが良くて気に入っていて、全種類そろえてしまいました。

ところである友人は、風呂トイレ別の部屋に住んでいるのでほぼ毎日湯船に湯を張って浸かっているそうなんですけど、入浴剤の類はほとんど使わないそうです。曰く、「風呂は済ませるものであって楽しむものではない」、と。週に一度しか入らない私のほうが細かいことに凝っているって不思議です。

ちなみにその友人は、食事に関しては普段は外食やコンビニばかりで、週に一度、日曜日だけキッチンに立つそうです。しかしその日曜日に限っては、いつもすごく凝った料理を作っていて、お米も魚沼産コシヒカリをわざわざ農家から取り寄せているとか。

対する私は、毎日のように自炊しているわけですが、1食にかけられるお金も時間も限られているので、それほど凝ったことは出来ません。忙しいときは納豆ご飯やかけ蕎麦で済ませてしまうし、お米は近所のスーパーで特売になっていた安物です。つまり自炊に関しては、2人の頻度と凝り度がお風呂と完全に逆転しているのです。

何でも「毎日やってるの」と言われると、凄いなー、さぞかし細かい部分にもこだわっているんだろうなあと思ってしまうのですが、実際のところハマリ度と頻度は必ずしも一致してない、それどころか反比例してしまうことすらある、というのは面白いです。何かを評価する時は、量と質のどちらが今必要とされているのかを見極めなければいけませんね。
 

3:43 2004/05/27【消費する】

豊かな街、の定義はいろいろある。ある人は、繁華街が賑わっていることを挙げるだろうし、またある人は文化的なイベントの多さについて言及するだろう。

だけどどんな要素でも共通して言えるのは、その街オリジナルなものでなかったら意味ないのではないか、ということだ。どんなに店がたくさんあって繁盛していても、他県資本や外国資本のチェーン店ばかりだったら意味がないし、コンサートを頻繁に開いていたとしても外部から呼んできたアーティストばかりで自分の街から1人もアーティストが出て来なければ成功したとは言えない。

そういう意味では、私が生活の拠点をしている吉祥寺という場所は、東京の中でも数少ない非常に豊かな街だと思う。駅前では地元のバンドが路上ライブをしていて、裏道に入れば小さいけど個性的なカフェが建ち並んでいる。コーヒーとサンドイッチをテイクアウトして、休日の井の頭公園のベンチで包みを開け、向かいのベンチで自作の絵を売っている人たちを眺めながら遅めのランチにする。至福のひとときである。

ところで、豊かな人間というのもやっぱり、その豊かさがオリジナルであることが求められると思う。どれだけ知識がたくさんあっても、自分の経験に基づかない借り物の知識ばかりでは深みがない。ご飯を食べるだけ食べて寝っ転がっていたら肥満になるだけであり、そのエネルギーを使って労働してこそ食事の意味があるように。外部からの情報を消費するだけではなく、自分独自の情報を生産できるようにならないといけない。

情報過多なこの時代、消費するだけなら目をつぶっていても出来る。得た情報を、どのようにして次の生産に結びつけるかが豊かさへの鍵なのだと思う。
 

2:15 2004/05/24【変化】

用事があって、2年前に住んでいたK市まで行くことになった。そういえば、引っ越してから一度もこの駅で下車したことがない。懐かしく思って、空き時間に辺りを散歩してみた。

私としては、「えー、あのお店がなくなっちゃったの?!」的なショックを密かに期待していたのだけど、周りの風景は意外なほど全然変わっていなかった。今にもつぶれそうだった喫茶店は、今にもつぶれそうなまま営業していたし、いつも混んでいたラーメン屋は相変わらず長蛇の列が出来ていたし、行きつけだったクリーニング店、美容院、レンタルビデオ屋、全てが健在だ。正直、あまりの変わらなさっぷりに失望してしまった。

実家の茨城なんて、帰省するたびに昔の面影がどんどん消えていくというのに。出身高校の雨漏り校舎は全面的に改築されてモダンな建物になっているし、市内に2つあったデパートのうち1つは潰れてしまった。駅前は大規模な再開発工事によって、区画から全て変わってしまったし、挙げ句の果てには県庁までが移転して新しくなった。

それに比べてこのK市のザマは何だ、と小一時間問いつめたい。お前らは「進歩」という言葉を知らないのか、と。

そこで、ふと気づいた。本当に変わって欲しかったのは、街ではなくて自分自身だったのではないか、と。変わり果てた街並みを目にすることで、「これだけ時間が経っているのだから、私もそのぶん成長したはず」と思いたかったのではないか。

だとしたらK市の街並みは、「2年なんて、ボーッとしてたらあっという間に過ぎてしまう。相当の努力をしない限り、2年で何か新しいことを成し遂げるなんて出来ないのだ」ということを私に教えてくれているのかもしれない。重く受け止めることにします。
 

0:30 2004/05/21【前段階】

慢性的な肩凝り症で、放っておくとあちこちの筋肉がカチコチに凝ってしまうので、あまりにも酷くなってきたときは「てもみん」みたいなマッサージ屋さんに行くことがあります。

そんな時にいつも思うのが、マッサージのプロと素人の違いって、決して力のかけ加減とか手つきそのものではなくて、「凝ってる部分を発見できるかどうか」なんだなあ、ということです。

たとえば、私の自覚症状では首の付け根のあたりが凝ってると思っていて、施術の前に店員さんにそれを伝えるわけですが、いざマッサージが始まると、彼女はおもむろに私の肩全体を一通り撫で、次にいきなり肩胛骨の下のあたりを指圧し始めるわけです。えー、背中じゃなくて首だってば、と思うのはほんの一瞬で、すぐにめくるめく快感が押し寄せてきます。そう、本当にマッサージを必要としていた筋肉は、首ではなくて肩胛骨の下にあったのです。

デスクワークでも、書類を書く、説明する、など一つ一つのプロセス自体は、慣れさえすれば誰にだってできる程度の作業なのだと思います。本当に差が出るのは、その前段階の「何をするべきなのか分かる」という点なのではないでしょうか。仕事を選ぶ時は、単に目に見える部分の作業の得意不得意だけではなくて、前段階での得意不得意も考えないと、あとで後悔するかもしれません。
 

2:44 2004/05/19【トロい】

最近、自分のあまりのトロさに苛立ってばかりです。。
今月に入ってから、毎週予備校で面接の練習などやっているんですけど、じっくり考えてからしか言葉を発せられない性格のせいで、質問されてから答えるまで十秒以上かかってしまっていつも怒られています。

5年前に自動車免許の教習所に行っていた時も、教官に「君はブレーキ踏むのもアクセル踏むのもハンドル切るのも何もかも1秒遅い」とよく怒られていました。そういう動作、普通は反射的に出来るはずなんだろうけど、どうしても私は普通の人よりも何倍も長い複雑な神経回路を経由してからじゃないと反応できないみたいなのです。

そういえば昨年、とあるイベントで催眠術をかけてもらった時のことを思い出しました。もうそろそろ時効だと思うので白状しますが、そのイベントの間、私は1度も催眠術にかかりませんでした。でも一人だけシラっとしていたら番組に支障が出て悪いなあと思ったので、一生懸命演技して、足が動かなくなったフリやお茶の味が変わったフリをしていたわけです。

イベントの一番最後に、ダイエットのために「甘い物が食べたくなくなる催眠術」をかけてもらったのですが、これも全然効果はなくて(その場では効果があったフリをしてたけど)、家に帰ってからはガシガシとケーキやアイスを食べてました。

ところが、変化はそのイベントの日から1週間後に訪れました。突然、身体が甘い物を全く受けつけなくなったのです。体調を崩したわけでもないし、ストレスや精神的な変化があったわけでもありません。一週間前の催眠術が今頃になって効いてきた、としか考えられないのです。

うん。おそらく私のトロさは、一時的なものでも表面的なものでもない。無意識レベルまで奥深くすり込まれていて、もはや改善不可能なレベルに達してるんじゃないかと思いました。そりゃ、何回面接の練習をしても受け答えの速度がいっこうに速くならないわけだ。努力次第で何とかなる問題ではないのだなと、やっと諦めがついた次第です。
 

2:28 2004/05/18【見られるということ】

行動や身につける物を選ぶとき、「人に見て欲しいから」選ぶ場合と、「人に見られたくないから」選ぶ場合があります。

たとえば私の場合、こうやってネット上で文章を書いているのは、弁解の余地なく誰かに見て欲しいから、そしてあわよくば感想なんぞいただけちゃったら嬉しいなあと思っているからです。

でも、サイトのデザインに関してはむしろ「見られたくない」から、なるべく目についたり言及されたりしないように、という基準で選んでます。とにかくセンスと名の付くもの一般には全然自信がないので、カッコイイと思われなくていいからせめて見にくいと言われないように、極力余計なことをやらないで、スルーしてもらえるように願っているわけです。

だから文章に関しては、多少の批判なら激励として受け止めるくらいの気持ちでいられるのですが、デザインに関してはたとえ何かの間違いでホメられてしまったとしても「やめて! これ以上私を見ないで! 放っておいて!」と鬱になってしまうと思います。ましてや真面目に批判などされてしまったら、衝動的に閉鎖してしまいかねません。

よく批評者が起こす悲劇として、作者が「見て欲しくない」と思っていることに対してうっかり言及してしまい、その結果作者をつぶしてしまう、ということがあります。私も昔、良かれと思って後輩の文章に対してアドバイスしたら、すごく落ち込まれた上に逆ギレされてしまったことがあります。

だけどよく考えてみると、我々が何かをするときには必ず複数の要素が絡んでいるわけで、そのうち特定の要素だけを見て欲しいと思うのは「手は見て欲しいけど足は見ないで」と言ってるのと同じくらいの我が儘なのではないでしょうか。

手を出すのなら、足を見られる覚悟も必要なのだと思います。私の足は色も形も醜いけれど、せめて毎日清潔に洗ってクリームを塗るくらいの努力は怠らず、誰かに見られて貶されても自分を見失わないようにしておきたいです。
 

1:16 2004/05/15【ピーポ君を汚す】

先日、「○○出しを50個」の企画で警視庁のマスコットキャラクターであるピーポくんの写真を出したところ、「意外と可愛かった」と好評のメールを何通か頂きました。

そこで、元祖ぬいぐるみサイトであるウサキチの真似をしてみようと思いつきました。ピーポ君があんなことやこんなことをしちゃう写真をいろいろ載せて、可愛い系のモテるサイトを目指そうと思います。


賄賂をもらったピーポくん。


ピーポくん、左翼と癒着。


ピーポくん、右翼と癒着。


ピーポくん、業務時間中に2ちゃんねる。


ピーポくんは実はロリコン。

モテるサイトを作るはずだったのに、なぜだかものすごい怒りと悲しみが(主に自分に対して)湧いてきたのでこの辺でおしまいにします。
 

0:49 2004/05/11【恋】

どうも最近、春だけに身近でどんどんカップルが出来ていってるのですが、一体どういう人に恋人が出来るのだろうと考えてみると、つまり恋人が出来る人は「好きな人がいる人」なんだ、ということに気づきました。

恋人を作るためには異性にアプローチしなきゃいけない、そしてわざわざリスクを冒してまで異性にアプローチするためにはよっぽどその人のことを好きじゃなきゃいけない、ということです。誰でもいいからなんとなく恋人が欲しいな程度では、努力のモチベーションにはなりません。

就職できる人っていうのも、結局「どうしても就きたい職業がある人」なんだろうなと思います。今私が目指している職業は割と地味な仕事なのですが、本当にそれが一番やりたいわけじゃなく、もしも文章書いて食っていけるならそうしたいのです。それが能力的に無理だから、次善の策として選んでいるわけです。

それって恋愛にたとえるなら、「本当はあややと付き合いたいけど、それは無理そうだから、せめてそこそこ可愛い女の子と付き合いたいなあ」って言ってるようなもんで、そんないい加減な気持ちで告白したってそりゃフラれるよなあ、と思います。しかしそこで、「あややと付き合えるまで一生努力する!」ってのも非現実的だし。どうすれば、身の丈にあった仕事に恋が出来るのでしょうか。
 

2:33 2004/05/10【評価が下がるのは】

自分の身に覚えのない悪口や意図的にねじ曲げられた悪口を、とある女性に言いふらされて困っている、という相談を男友達から受けた。

聞いた誰もが真実だと信じてしまうような巧妙な方法で言いふらされたとしたら大打撃だけれど、話を聞く限り、その女性は客観的に見てもちょっと変な人だったので、まともな相手だったら鵜呑みにはしないだろう、ということだった。だったら別に放っておいていいんじゃないの、と私は答えた。

その女性が彼の悪口を言ったことで評価を落とすのは、彼ではなくてその女性自身だからだ。悪口をやめさせること、つまりその女性の評価が落ちていくのに歯止めをかけるなんてお人好しなことをわざわざやってあげる必然性は全くない。言いたい放題言わせておいて、その女性から友達がどんどん離れていく様子を遠くから眺めていればいい。

「この前なんて俺を糾弾するビラを貼るなんて電波なことを言い出して……」
構わないじゃないか。そのビラが貼られることによって恥をかくのはその女性のほうだ。

もちろん、理論上はそうでも実際は極力物事を穏便に始末しなければいけないのが社会人だ、ということは分かっている。私が彼の立場だったとしても、止めさせようと何らかの手は打つだろう。

ただ、あんまりビクビクしたり下手に出て妥協したりする必要はない。正しいことをしている自信があるのなら、「これ以上中傷を続けると君自身が恥をかくから、君のために止めろと言ってるんだ」くらいの余裕ある態度で良いと思う。人を呪わば穴二つ。相手もまた、今自分と同じかそれ以上の社会的な打撃を受けているのだということを忘れなければ、変に弱気になってしなくていい譲歩をしてしまうこともないはずだ。
 

2:30 2004/05/06【ペペロンチーノ】

家で作った夕飯を食べたあと、体重を気にしてごはんを少なめによそったせいかちょっと物足りなくって、チキンを炒めたあとフライパンに取り残されていたニンニク片を箸でつまんで口に放り込んだ。ニンニクは余熱でカリカリに揚がっている。揚げニンニクの懐かしい味がした。

そう、私が上京して最初に住んだ家の近くにあった安いイタリアンの店でアルコール類を頼むと、おつまみに必ず揚げニンニクが出てきたのだった。これが飲みやすいテーブルワインの味と意外に合っていて、臭いを気にしながらもボリボリかじってはワインをゴクゴク飲んでいた。(しかもパスタも一番安いペペロンチーノを頼むことが多かったので、翌1限目の私はかなり迷惑な口臭だったかもしれない)

昔から外食は好きだったのだけど、大学受験に行って守衛さんに付属高校の受験生と間違われるほど童顔であか抜けてなかった私にとって、一人でレストランに入るのはかなり勇気の要ることだった。大抵は周りの雰囲気から浮いてしまって、居心地が悪くなる。そんな中でもあのお店は、味は普通だったけど女性一人客が多くて居心地が良い貴重なお店だった。

今でも一人でパスタ屋さんに行った時は、ニンニク系のものを頼むことが多い。それは、多人数の時には臭いを気にして頼めないからって理由もあるけど、一人イタリアン=揚げニンニクとペペロンチーノ、という原体験が影響してるのかもしれない。
 

2:25 2004/05/05【不参加】

「負けるに決まってる競争だったら、せめて最初から“不参加”ってことにしておきたい」

切実にそう思っている分野の一つが服装である。だってお金ないし、センスもないし、美容師も音を上げるほどのくせっ毛でまともな髪型にできないし、そもそもモデルの顔が不細工だし、どう考えても勝ち目がない。メタクソに言われることが分かっているのだから、この勝負、降りてしまえばどれだけラクになることだろう。

マイナスを回避することが目的なので、「不戦敗」では駄目だ。あくまで「不参加」じゃなくちゃいけない。だから流行の服、個性やこだわりのある服を避けるのは当然として、あまりに酷い服(たとえば親のお下がりとか)を着るわけにもいかないだろう。不戦敗とみなされてしまいそうだからだ。じゃあ、一応質が良くて有名なお店で、極力シンプルな定番ものだけを買うっていう方法はどうだろう。

しかしその「定番」も、年々少しずつ変化している。何年も前の定番ものを着ていたら、やはり「不戦敗」になってしまう。やはり2年に1回は買い換えないと……。

と気づいたら、勝負から降りようとしているはずなのに、勝負に参加しているのと同じくらいのお金と労力がかかっていた。更に、こんなに努力して評価対象外になろうとしたにもかかわらず、相変わらず指をさされて「あの子はダサい」って言われる。私がそれまで数年間やってきたことは、完全に無駄だったのだ!

そう、勝負から降りることは、生きている限り不可能なのかもしれない。我々はいわばコンテストのステージの上に生まれ落ちて、死ぬまで照明を浴び続けなくてはならない。嘲笑されたくなければ、何度負けても戦い続ける他に道はないのだ。

生きるとは戦うこと也。そう考えれば、負けることはそれほど恥ずかしいことではないような気がしてきた。どんなジャンルでもまず9割の人間は不戦敗だし、残りの1割のうちのそのまた9割も戦って負けていることになる。実に全体の99%の人が負け組なのだ。だったら、「いや、私はこの勝負そもそも参加してないからね」と見苦しい言い訳をするんじゃなく、正々堂々と参戦を宣言して、正々堂々と負けたほうが潔いんじゃないだろうか。

というわけで、ここに人生という戦いへの参戦を宣言しよう。ちなみに今のところの戦歴は、ハルウララも真っ青の連敗記録更新中である。
 

1:33 2004/05/02【手作り】

最近貧乏で欲しい化粧品も買えないので、思い立って化粧水の手作りに挑戦してみました。難しそうだと思って敬遠していたんですけど、実はけっこう簡単なんですね。基本はグリセリンと精製水を混ぜるだけで、あとは好みで精油やヒアルロン酸等を加えても、1年使っても余るくらいの原料が3000円以下で買えちゃいます。

無添加だし、「今日は乾燥気味だからヒアルロン酸を多めに」みたいな融通もきくし、精油の種類を変えれば気分転換になって飽きないし、意外と気に入ってます。怪我の功名ならぬ、貧乏の功名。

そういや2、3年前、手作りピアスに凝っていた時期があったんですけど(今はアレルギーのためピアス自体をやめてしまったので自然と作らなくなった)、あれもそもそもの動機は卒論のせいで定期的なバイトが出来なくて、好きなアクセが買えなかったからでした。

経済的余裕から生まれてくる趣味もあるけど、逆に困難から生まれてくる趣味もあります。上ばかり見て嘆いてないで、今自分に必要なものは何なのか考えてみれば、小市民なりにけっこう楽しく生活できるのかもしれません。
 
 
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