論理と日常を繋ぐ帰納法
 

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実はずっと気になっていたことがありました。以前アルヲメモ(閉鎖)はデマゴーグ(閉鎖)の思考法を帰納的と表現し、それは少なくともその文脈では正当な主張に思えました。一方で私は、私なりの文脈でデマゴーグの思考法は日常的だと感じていました。

ところで帰納法というのは、個々の実験・観察から一般論を導き出そうとする科学の基本的な考え方です。では、デマゴーグは科学的だったのでしょうか。残念ながらそうとは思えません。

今まで私は、哲学(論理)・科学・日常は、図1のようにそれぞれ独立した3つの思考法だと思っていました。念のため確認すると、哲学の基本となる考え方は帰納法ではなく演繹法であるので、科学は哲学に属するものではありません。また、日常と科学が独立した別の集合であることは、ハロルド・ガーフィンケルによって証明されています(補注参照)。しかし、日常と科学は、日常と哲学よりもより近い関係にあると考えた方が辻褄が合うような気がしてきたのです。そこで、互いに異なる3集合という概念は維持しつつも、図2のようなモデルを仮定してみます。もちろん、この3つはどれが優れているとか劣っているとかいうものではなく、価値的には平等だと思っています。
  

 

そうすると、科学の役割は「論理と日常を結びつける」ことだと言うことが出来ます。今日これほどまで科学が発達したのは、それが日常と密接に関わっていたからなのではないでしょうか。

また、帰納法につきまとう一種の危うさも説明できるかもしれません。
たとえば、有名なパラドックスがあります。
一般的な帰納法では、ある命題の合致例が多ければ多いほどその命題の確からしさが増大すると考えられています。ところで、「全てのカラスは黒い」という命題と「全ての黒くないものはカラスではない」という命題は、論理的には同義ですよね(ここが分からない人は、論理学の本の「述語論理」という章を読んでみて下さい)。つまり、「全ての黒くないものはカラスではない」という命題の合致例は、「全てのカラスは黒い」の合致例でもあるわけです。
すると、「全てのバナナは黄色い」「あるブドウは紫色だ」など、「全ての黒くないものはカラスではない」の合致例ではあるもののカラスに何の関係もない命題を大量に集めても、「全てのカラスは黒い」の確からしさが増大してしまいます。これはちょっと変です。
その上、「全てのバナナは赤い」「全ての象は空を飛ぶ」のように明らかに偽の命題までが、「全てのカラスは黒い」の合致例となり、その確からしさを増大させてしまいます。ここに来て、偽の命題によって証明されてしまった「全てのカラスは黒い」という命題の確からしさを疑わざるを得なくなってしまうのです。(この問題を解決するために「反証主義」が提唱されたりしているのですが、また別問題なので、今は置いておきます。)

このパラドックスも、帰納法がそもそも日常的思考由来のものだと考えると、頷ける気がします。科学に対してその論理的弱点を指摘するのはお門違いなのです。むしろ気を付けなければいけないのは、「論理と日常を結びつける」とい本来的(補注参照)な姿を保っているかどうか、論理と日常を引きはがずようなことをしてはいないか、という問題ではないでしょうか。

<補注>
★エスノメソドロジー開祖のガーフィンケルは、日常的思考を要求される場面に科学的思考を導入すると、人間関係が円滑になるどころかやっかい事を引き起こしてしまう、ということを実験で確かめた。以下がその例。

・例1
金曜日の夜、夫と私(学生)はテレビを見ていた。夫はくたびれたと言った。私は「あなたはどんな風にくたびれたの? 肉体的、精神的、それともただ退屈しただけなの?」とたずねた。
夫 分からないけどたぶん主に体の方だろう。
私 じゃあ筋肉か骨が痛いの?
夫 そんなところだろうね。そんなテクニカルに言うなよ。
(またしばらくテレビを見てから)
夫 こういう古い映画はそれも同じような相変わらずの筋書きだ。
私 どういうこと? 全ての映画? いくつかの映画? それともあなたの今見たのだけ?
夫 きみ一体どうしたの? ぼくの言うことが分かっているくせに。
私 あなたにもっと正確であってほしいのよ。
夫 わかってるだろ、死んじまえ!

・例2
被験者(S)は、嬉しそうに手を振った。
S ハウ・アー・ユー?
私 私の何に対するハウを聞いているの? 健康? 経済状態? 成績? 心境? それとも……?
S (顔を赤くして急に怒りだし)おい、俺はちょっと愛想よくしようとしたまでさ。おまえさんがどんな「ハウ・ユー・アー」か俺の知ったことか!

★本来的とは、ある物がその物自体として存在していること。
リンゴがリンゴとして売られていれば本来的だけど、バナナとして売られていたら、そのリンゴは非本来的だということになる。間違えようがないじゃんと思うかもしれないけど、たとえば人間が人間としてではなく歯車として扱われている、なんてよくあるシチュエーションは非本来的な姿の典型例である。
 


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