飲めや歌えや雑文祭参加作品。太字は「縛り」の部分。

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ふわふわふるる

 うしろの席から男の人の魅力的な声が聞こえてきた。低くて、知的で、どこか屈託のある声だった。一目惚れならぬ、一耳惚れというところか。何か不思議な力に惹かれるように、その声に聞き入っていた。
 彼氏とは自然消滅寸前だし、新しい出会いもなく、トキメキに飢えていたところだった。心臓がきゅっと縮んで全身に麻酔をかけるようなこの恋の感覚、ずいぶん久しぶりだ。この声の主を見てみたい。そしてを話をしてみたい。きっと素敵な人に違いない。でも、ここで振り向くのはあまりにも不自然だ。ましてや話しかける勇気なんてあるわけがなかった。仕事でなら平気で初対面の人に話しかけられるのに、どうしてこんなに臆病になってしまうのだろう。

「一口だけお酒を飲んで勇気づけて
 あなたの顔を覗いてみようって思うけれど
 いい子でも居たい」

 BGMに数年前のヒット曲が流れている。歌っていたのはトーコとかいったっけ。歌詞に背中を押されるように、ウイスキーを追加注文した。うちは代々お酒に弱い家系で、奈良漬けを食べただけでも眠くなってしまうので、滅多に飲むことはないのだが。今、このチャンスを逃したら、彼は人混みの中に消えてしまって、また会える確率は数万分の一だろう。そんなの淋しすぎる。なんとかしてこの過剰な制御心を解かなくてはならない。ストレートのままぐいっと半分まで飲み込むと、喉から胃のあたりがカッと熱くなった。
 酔いはすぐにまわってきた。視界がぐるんぐるんと揺れて、体が重い。自分がまっすぐ座っているのか、動いているのか止まっているのか、よく分からなくなってきた。頭の中で100人の小錦がシーソーしているような歪んだ重力感覚だ。脳味噌だけお風呂に浸かったみたいにほわほわとあったかい。この調子だ。
 残りの半分も飲み干した。いよいよ思考力が落ちてくる。昔自分が発したいろんな言葉が思い浮かんではブラックホールの中に消えていく。今度いつ会えるの。どうしてそんなに忙しいの。待ちきれないよ。もう会わなくていい。好きだったのに。
「お会計お願いします」
 コインがぶつかり合う音が聞こえる。早くしないと彼が行ってしまう。もう、どうにでもなってしまえ。どうせ記憶はカオス状態なんだから、自意識なんて存在しないも同然だ。酔っ払い上等、この際当たって砕け散っても構わない。混沌こそ我が墓碑銘(by King Crimson)っていうじゃないか。世界はみんなコンフュージョン、エピタフ万歳。思い切って話しかけてみようと思い、振り向く。
「あのっ……」
 一気に酔いが醒めた。
 そこに佇んでいた声の主は、自然消滅寸前の我が彼氏、その人だった。
 

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