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12:44 2003/02/28【日記リハビリ中】

「ネタがないネタ」だけは書かないことにしている、と書こうとして気づいたのだけど、「『ネタがないネタ』だけは書かないことにしている」というのは「ネタがないネタ」に含まれるのだろうか。
 

6:27 2003/02/27【東京帰還】

★ミュージシャンであるSさんと好きな音楽のタイプについて話していて、やっぱ音楽は暗いやつに限る!という結論に達しました。
するとSさんは、「じゃあ、これなんかifさん気に入ると思うよ」と言って自分が参加しているアルバムの中から1つを取り出し、コンポにセットしました。やがておどろおどろしいエコーのかかったベースが聴こえてきます。
Sさん「ね、暗いでしょ♪(滅茶苦茶嬉しそうな笑顔で)」
if「はい、暗いですね♪(滅茶苦茶嬉しそうな笑顔で)」
何かがすごく間違ってる会話だと思った。
 

★俺、web上では人気ないけど、リアルワールドではモテるんだぜ、という自慢は、リアルワールドでしてください。
野球の試合中にバッターが「俺、野球では三振ばかりだけどサッカーは上手いんだぜ」と自慢しているような気持ち悪さがあります。
 

1:08 2003/02/26【まだ京都】

明日こそ東京に帰ります。

ずっと外国人と一緒に行動していたせいで、頭の中で日本語と英語がごちゃごちゃになってます。
駅で人とすれ違ったとき、相手は日本人なのに思わず「エクスキューズミー」と言ってしまいました。

しかも思いっきり日本語風のカタカナ発音で。
 

8:04 2003/02/25【ネタの神?】

ここ5日間の間にプリンタが止まったまま動かなくなって、自転車が撤去され、携帯が壊れ、とまるで紐井屋並の頻度で不幸の神が舞い降りてきます。
ぶ、無事東京に帰れますように……。
 

23:36 2003/02/24【あと2日京都にいます】

誉められると嬉しい。でも、そこからは「嬉しい」「感謝」といった至極単純な言葉以外は生まれないし、その嬉しい気持ちさえすぐに風化してしまう。

貶されると凹む。そして、様々な言葉が湧いてくる。自己分析と後悔、環境分析と自己弁護、過去のトラウマと未来への展望……。凹んだ気持ちはやがて癒されるけど、紙に書き留めた言葉はいつまでも残って私を勇気づける。
だから私が切実な言葉を発することができた時、その背景には必ず私のことを快く思っていない誰かの存在がある。自分を肯定するためにこそ、逆説的に自分が一度否定される必要があるのだ。無条件の肯定などありえない。全ての存在は驚き、そして疑いから始まる。
 

7:13 2003/02/23【きょうのひとこと】

「それ普通におかしいよ」という表現を聞く度に、結局普通なのかおかしいのかどっちなんだと問いつめたくなる。
 

10:00 2003/02/22【目指すサイトは】

「笑えるサイト」というのは、厳密には「文章が笑えるサイト」と「管理人の行動が笑えるサイト」の2種類あります。たとえば、「今日は全身タイツで山手線を一周しました!」と1行だけ書いてあって、写真が何枚か貼ってあるような日記があるとします。多分、それを見て私は面白いと感じるでしょう。しかし、それは文章が面白いわけじゃなくて、ただ管理人の行動が面白いだけなのです。逆に、ごくありきたりな生活をしている人の日常日記でも、言葉のテンポや構成のおかげで凄く面白く感じることもあります。

どちらが高等とか価値があるとか言うのは好きじゃないけど、少なくとも自分で「テキストサイト」と称している限りは、文章で笑わせて欲しいなあ、と思います。同じように、感動するサイト、ハラハラするサイト、等々も、管理人自身がが何か感動的なことをしていたり、ハラハラさせるような行動をとっていたりするだけじゃなくて、文章としてそういう要素がちゃんと含まれていたほうが魅力的なんじゃないでしょうか。
 

10:32 2003/02/21【よりによってこんな時に……】

そりゃ確かに違法駐輪した自分は悪かった。だから撤去されるのは自業自得であって仕方がない。
でも、自転車の保管所が、駅からもバス停からも遠くてそれこそ自転車がないと行けないような場所に位置しているのは、いくら何でも嫌がらせの度が過ぎてないか。駐輪場代も出せないから違法駐輪していたのに、保管料に加えてタクシー代まで出させるつもりなのか。

撤去された自転車を取りに行く用の自転車が欲しいと素で思った。眼鏡を探す用の眼鏡みたいな。
 

1:17 2003/02/20【平気なわけじゃない】

・悲しいと思う暇さえないくらい日々に追われることが悲しい

いつもの私だったら自分にしか分からないようにうんとねじ曲げて抽象的にした言葉を長々と繋げて、とにかく悲しいんだという気持ちだけは伝わるようにして、その後は涙を拭いたティッシュを放り投げてものすごくふてくされた顔で論理とは云々とかわざとドライな話題を持ち出して乾かそうとするんだと思うけど、とりあえず明日からマッツ&モルガンが来るのでそういう面倒なことはしないでただ悲しいってだけ残してみよう。
 

7:59 2003/02/19【複雑化していく】

私たちは慣れる。そして飽きる。さらなる新しい刺激を求める。

たとえば私は、普段からお笑いにはあまり縁がない。お笑い番組を見ることも、ギャグ漫画を読むこともほとんどない。だから、自称お笑いマニアのサイトを読んでみると、ピクリとも笑えない、それどころか全く意味不明なことがある。笑いの形式自体をパロディしたような、メタのメタ、裏の裏を狙った作品は、普通の作品に飽き飽きしたマニアには受け入れられるのかもしれないけど、私にとっては単純な下ネタや言葉遊びのほうがよっぽど面白いと感じるのだ。

マニア受けするものが良いものとは限らない。メタのメタ、裏の裏が評価される世界では、無意識のうちに初心者をはねつけて、結果的に世界全体の衰退を招いてしまう。だから私はテキストサイトの繁栄のためにも、侍魂はリドミ1位の座に非常に適していたと思っている。
 

22:22 2003/02/17【出来る人はみんなやった人】

どうして料理出来るの、と聞かれることがある。

聞いてくるのは大抵は実家暮らしの人だ。そこで私は、そんなの一人暮らししていれば嫌でも出来るようになるよ、と答えることにしている。まあ、私自身も「とりあえず食えるものが出来上がる自信はある」程度のレベルであって、「料理が上手い」からはほど遠いのだけど。外食ばかりでは飽きるし金もかかるし身体にも悪そうだし、自炊せざるを得ない。毎日台所に立っていれば、最低限の技術は自然と身に付く。

ところで、私は絵が全く描けない。14日の日記、あれで精一杯だってぐらい、本当に描けない。とはいえ、決して絵に興味がないわけではなく、むしろ観るのは大好きだ。そこで、絵が上手い人に会うと、つい羨ましげに「どうして絵なんか描けるの?」と聞いてしまう。

先日、漫画家志望の男の子にその質問をすると、きょとんとした顔で「だって絵、描いているから」という答えが返ってきた。私はハッとした。確かに私は、小さいころから絵を描いて遊んだことは殆どない。描いてないのだから、描けるはずはなかったのだ。料理の話と同じだ。

どうして運動できるの? どうして勉強できるの? 今までどれだけ、ナンセンスな質問を繰り返してきたことだろう。……どうして毎日更新出来るの? それは、毎日更新を心がけているからである。ただしまっとうな人間にはお勧めできない。
 

8:32 2003/02/17【観劇】

スペース・ディスカバリー見てきました。

これはもう、脚本の勝利と言うしかないです。「死刑囚を乗せた宇宙船」という設定を選んだ時点で勝ったも同然。ルーティーンで溢れた閉鎖空間に異物(漂流者)が入り込み、ドラマが動き出すというのは非常に好きなパターンです。

ただ、演出はやや中途半端な印象がありました。わざとらしさを極力排除して普通の会話をそのまま切り取ることが狙いにしては排除が徹底されていなかったし、劇的にするにはテンションが今の10倍は必要。多分主催者の意図は前者だと思うのですが、それだったら青年団ぐらい思い切って欲しかったです(ああ、でも営業上の理由とかいろいろあるんだろうなぁ、心中ご察しします)。それから、リアリズム以前の問題として、滑舌はもう少し気にしても良いと思いました。「呟く」ことと「呟く演技をする」ことは必ずしも同じではなく、別に口をすぼめて声量を落とさなくても呟く演技は出来るはずです。

全体としては、笑ったりハラハラしたり、純粋に客として楽しめる芝居でした。これで1000円は安いです。
 

★終了後、ローズ・ド・サハラでワニとカンガルーとダチョウとダチョウの卵とホロホロ鳥食べました。普通に美味しかったのでゲテモノ好きとしてはやや不満です。唐揚げなんかにするからいけないんだ。衣とスパイスの香りで、肉が本来持っているはずの匂いが誤魔化されてしまってます。こんなの本物のアフリカ料理じゃない。ワニを踊り食え。
 
↑ダチョウの卵(本物)。

スピリタスをちびちび飲みながらSickさんTAKEXさんとテキストサイト界の未来について熱く語り合っていたら、隣に座っていたayaさんに「男の子って、何でもこうやって意義とか論じたがるのよね」と言われました。……それは私も含まれるのですか? 男の子?!
 

10:33 2003/02/16【バレンタインって】

主催者のいない雑文祭みたいだな、と思った。
同じテーマで書くからこそそれぞれの個性が見えてくる。
 

0:40 2003/02/15【ピルグリム】

先日、鴻上尚史脚本・演出「ピルグリム」の楽日を観てきた。ラストがあまりにエピソードを詰め込みすぎて一つ一つの印象が薄くなってしまっているとか、舞台装置が豪華すぎてより具体的になってしまい、多義性を持たせることが難しくなってしまったとか、細かい不満点はあるものの、全体としては満足のいく出来映えだった。前回観に行った「ファントム・ペイン」に比べて切実なモチベーションが感じられたし、引きの強さは時間が経つのを忘れさせた。

ところで、この作品の初演当時(10年ぐらい前だっけ?)は、ちょうど伝言ダイヤルがブームになっていて、それをモチーフの一つとして取り上げていた。今回の再演ではコンピュータネットワークの話にすり替えられていたのだけど、どうも世間ではそれが不評みたいだ。同行した3人(私よりずっと年上)も首を傾げていたし、SPA!で鴻上さんが連載しているエッセイでも、評論家からさんざんに非難されたと書いてあった。

SPA!では「もう少し未来になれば、インターネットを通じたやりとりがが今日の電話と同じくらい自然だと認識されるようになるはずなのに……」という論じ方をしていたけれど、世代の差もあるんじゃないかと思う。自分の周りの人と話していても、eメールをリアルのやりとりと感じるかバーチャルと感じるか、ネット恋愛に抵抗感があるかないか、といった境はだい35歳前後にあると思える。鴻上さんの芝居がいつになっても訴えかける力を失わず、進化を続ける現役でいられるのは、鴻上さんが良い意味で精神的に若いからなのだろう。
 

17:10 2003/02/14【ハッピーバレンタイン】
 

我が理想の男性像(こんな↑感じ)をまさにそのまんま体現しているマイ・スウィート・ダーリンにチョコレートケーキを焼いてプレゼントしました。チョコレートケーキは全部自分で食べました。だって彼、実体ないし。
 

23:19 2003/02/13【謎のパスワード】

★中央線の車内に「次は、中野〜、中野〜」というアナウンスが流れた途端に、向かいの席に座っていた男子中学生たちがどっと吹き出した。
「おいおい、中野だってよ」
「なあ、中野だって」
中野の何が面白いのだろうと思って聞いていたら、どうやら一人の男の子の片思いの相手が「中野さん」というらしいと分かった。ああ、確かに若い時って些細な偶然の一致をいちいち気にしていたっけなあ。

高校の時、自分のパソコンで「FUIHARA」というパスワードを好んで使っていた。その心は、鈴木君(仮名)という男の子に片思いをしていたんだけど、あるマイナーな小説に同じく鈴木という名字の人物が出てきて、その鈴木君が小説中の芝居で演じていた役名が吹原だったという、風が吹いた桶屋もびっくりの強引なこじつけだった。それから5年後、当時のファイルを開こうと思ったとき、パスワードを思い出すのにどれだけ苦労したことか!

恋というのが、現実というよりも夢や幻想に近かったのだと思う。現実として叶える術を知らなかったから、かわりに相手の名字と同じ駅で下車してみたり、同名の登場人物が出てくる小説を集めたり、そんなおまじないのような代償行為で心を慰めていた。

からかわれた男子中学生は、むっとした顔でそっぽを向いて、片手に持っていたパック牛乳を飲み干した。彼もあと何十本か何百本かの牛乳を飲んで、10センチ背が伸びた頃には、中野駅を通るたびにドキドキした記憶なんて忘れて、どこかの可愛い女の子と並んで電車に揺られていることだろう。
 

アンサー川柳アゲイン
・「させない」と言ったら返事は「別にいい」
それはそれで悲しいのが女心。
 

4:28 2003/02/13【禁断症状】

あーもうインターネットなんて面倒くさいもんやってらんないよね。っていうか、ぶっちゃけ引きこもりって社会の屑だよね、屑。みんなは勝手に更新とか頑張るといいよ。私はその間に、外の空気を存分に吸って外の景色をいっぱい見て、ほら、精神的成長? してくるから。外の世界って素晴らしいよ。上を向くと木々の緑や空の青や、道路標識や……。
 

ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。更新しますごめんなさい。
 

10:02 2003/02/12【雀に襲われる】

えびす先生に誉められた!
 

★東京プチ散歩#13 皇居外苑

皇居東御苑と違って365日24時間開いているのだけど、わざわざ行きたいと思うような庭園や設備は何もない。ひたすら広大な芝生と等間隔に植えられた松の木。そして列をなした車が排気ガスを吐きながらびゅんびゅんと通り抜ける内堀通りと、人気の全くない歩道。穴場というより異次元の世界に迷い込んだよう。自分だけが世界から取り残されたような気分を味わえる。

お弁当を広げると、どこからか強い視線を感じる。周りに人気は全然ないというのに。なんか、こう、背筋がぞくっとするような……。
ん?
ええ?!

気がついたら雀の大群に取り囲まれていた。
四方八方から、私のおにぎりを持った右手に向かってじわじわと迫ってくる。ちょっと、お前ら近づきすぎ。足元10センチは警戒心を忘れすぎ。鳩ならまだ理解できるんだけど まったく鳩の図々しさといったら、平和の象徴扱いされてるからっていい気になりやがって 雀って、鳥かごで飼おうとしても決して人間になつかないでエサ食べないで死んでしまう鳥じゃなかったのか。やっぱり皇居は異次元の世界だ。
 

2:01 2003/02/11【所有・非所有】

うちの近くに大好きな古本屋さんがある。そこは簡単な喫茶コーナーが併設されていて、コーヒーやお酒を飲みながら店内の本を読めるシステムになっている。コーヒーとお酒と本。私の大好きなものが3拍子揃っていると言われたら行かないわけにはいかない。定期的に通っては一杯のコーヒーで数時間粘ったり、時には何もオーダーせずに読書するのを黙認してもらったりしていた。

その店で、いつも読んでいる本があった。欲しいけれど1万円以上するので買うことが出来ず、店に足を踏み入れる度に1章ぐらいずつ読んで、読み終わったところに密かに栞を挟んでいた。あと少しで読破できるところだったのだ。しかし、今日行ったらその本は消えていた。私物の栞と一緒に、誰かに買われてしまったのだ。

ショックだった。普通に店頭に並んでいた本なのに、まるで自分の本のように錯覚して、売れてなくなってしまう可能性に気づかなかったことに。そう、友達も恋人も仕事も研究も、いつまでも手の届く場所にあるわけじゃない。私の所有物ではないのだから、私以上のお金、才能、思いやり、勤勉さを持った人が現れたら、そっちへ飛んでいってしまうのだろう。つなぎ止めておきたいのなら、常に努力を注ぎ込んでいなければいけない。当たり前のことだ。
失ってから恨み言をいうのではなく、失わないための労力を惜しまないようにしたい。
 

0:16 2003/02/09【思考のエントロピー】

思考というのはもともとは連想ゲームのようにリゾーム状に、または幾何学模様を描いて広がっていくものなのだと思う。しかし、連想というのは非常に個人的な経験や習慣がもとになっているので、そのままじゃ他人と正確に意志疎通することが出来ないし、共同作業で何かを生み出すこともできない。そこで、他人に何かを伝えたい時は、散乱する思考を決められた網でまとめてから差し出すことになっている。この網を論理という。

「俺、頭悪くって論理的に話されても理解できないからやめてくれ」
と言う人に出会うたびに悲しくなる。本来、論理とは話を分かりにくくするものではなくて、むしろ分かりやすくしてくれるもののはずなのに。攻撃のための武器ではなく、和のための道具なのに。確かに難しい言葉をいっぱい使って分かりにくくして相手を怖がらせるために論理武装している人はいるけど、そんなのは非論理武装と呼ぶべきだ。

ところで、ご存じのように自然界の物質は、放っておくとどんどん散乱して、エントロピーが増大していく。……ただ1つの場合、そこに生命がある場合を除いては。生命は、ぐちゃぐちゃに散らばっているアミノ酸やら糖やら無機物やらをかき集め、規則的で美しい細胞やDNAの列を作っていく。宇宙全体が向かっている方向に逆らって、奇跡のような営みがそこで繰り広げられている。

私たちが物事を論理的に考えようと思うのは、私たちが生命だからなのかもしれない。生物としての本能が、散乱していくものを集めて再び整理しようとさせているのだ。たまにはそんな夢を見たっていいじゃないか。
 

1:55 2003/02/08【土とコンクリート】

もっともな意見です。(情報from赤野さんbyメールフォーム)
 

★ユニットバスの電球が切れてしまったので、台所の明かりを入れるためにドアを半開きにしたまま使用しています。気分は露出プレイ。
 

★田舎の文学と都会の文学がある。貧しい農村での過酷な現実を描いているようなのが前者、スタイリッシュな都会の生活の中でふと感じる寂しさみたいなのを描いたのが後者。絵画ならカラバジョとクールベ、音楽なら中島みゆきと坂本龍一のように、昔からある代表的な対立軸である。

面白いと思うのは、両方とも最初はリアリズムを目的として確立された方法のはずなのに、必ずしも農村に住む人が田舎の文学、都心に住む人が都会の文学を選んでいるわけではない、という点である。地方に住んでいる人だからこそオシャレな都会に憧れたり、高層ビルで働いている人が触覚を求めて田舎の文学を集めていたりするのは決して珍しくない。

上品な薄味と刺激的な濃い味、私たちはどちらも必要としている、ということなのだと思う。なのでここ10年、土の匂いのする文章がどんどん少なくなっている様子を見て、いつか歪みが出て来るんじゃないかと不安になってしまう。新しいメディアであるweb日記なんて、都会的な文章ばかりじゃないか。まあ、それは辺鄙な地方で農業を営んでいるような人まではまだパソコンが普及してないって理由もあるんだろうけど……。田舎的な魅力に溢れるテキストサイト、誰かやってみませんか?
 

20:58 2003/02/07【今日の一言】

「うちの家から歩いて50メートルのところに蕎麦屋があるんだけど」
走ったら何メートルになるんだ。
 

1:35 2003/02/06【ナンジャタウン初体験】

生まれて初めて池袋のナンジャタウンとかいう場所に足を踏み入れた。とりあえず中に入ってみたのはいいけど何をすればいいのか全く分からない。パンフレットをもらって各アトラクションの説明を読んでも結局どんなアトラクションなのか全く想像できない。勇気を出してその中の一つに飛び込んでみたらルールも機械の操作方法もよく分からないままあっという間にタイムアウト。私の知らない間に世界はこんなに進歩していたのか。UFOキャッチャーとパソコン以外のゲーム機に触れたこともない私が行くべき場所ではなかったと早々に悟って、後半は園内の餃子博物館でひたすらビール飲んで餃子食いまくってた。餃子美味い! ナンジャタウン最高! 帰りの満員電車の中で周りの乗客達が悪臭に顔を歪めていたように見えたのは多分気のせい。

あとどうしても納得いかなかったのは、トレビなんとかって男女ペアで参加するアトラクション。コインを4つの皿に投げ入れるとそれぞれ「金」「美」「学」「恋」の願いが叶うってコーナーがあったんだけど、最後に成績表をもらったら、なぜか自動的に「金」と「学」は男性側の願い、「美」と「恋」は女性側の願いだと見なされていた。私は美よりも金が欲しいし、恋を叶えるより学を成したいので、「金」と「学」の皿にばかり集中砲火を浴びせていたというのに。女性として何か間違っているんですか。何も間違っていませんよね!(餃子臭い息を吐きながら)
 

★フォームレス

>はぴさん

国会図書館に寄贈義務があるのは法人が出版した本だけだと勝手に思いこんでいたのですが、国会図書館法を読んでみると実は同人誌にも当てはまるんですね。これはもう送りつけるしかない。「私の本、国会図書館にあるんだぞー」と言うと何となくかっこいいという理由だけで。なお個人本の場合、寄贈しなくても別に咎められないだろうって司法浪人のイシダくんが言ってたので別にいいんだと思います(無責任)。

>ナンジャタウンは都内有数の亜空間スポット さん

日記は当日に書かれたものとは限らないのです。おかげで時々「DVD見た」という記述の後に「DVD欲しい」という記述が出てくるような矛盾が生じますが、時系列に並び替えようとしてみるとパズルみたいで意外と楽しいかもしれません。楽しいに決まってます。
 

21:30 2003/02/04【仮説を立てる】

実験はただすればいいってわけじゃない。

普通、科学の分野で実験するときは、明確な目的がある。様々な過去の事例からある仮説を導き、その仮説を証明するために最も最適な実験を選ぶ。たとえば、Aという物質を合成したいとする。その場合、あらかじめ化学式を考えて「BとCを混ぜればAが出来るだろう」という見当を付けてから実験をするわけだ。間違っても、実験室にある薬品を片っ端から混ぜてみて偶然にAが出来ることを期待するなんて無茶な方法をとる人などいない。

しかし芸術分野では、とりあえず片っ端から混ぜてみて偶然面白いものが出来たらいいなー的な作品が少なくない。私個人としては、このような実験には意義を感じない。芸術には化学式も試薬もないけれど、そのかわりに哲学がある。科学的な仮説のかわりに「芸術とは何か」という思想がある。芸術家は、自分の哲学をもとにして、自分の思想を裏付けてくれるような実験を選ぶべきじゃないだろうか。
 

0:11 2003/02/04【変換】

目に見えないもの、形にならないものは不安を煽る。確実に捕まえて留めておくことも、コントロールすることも出来ないという不安。だから人間は、目に見えないものを目に見えるものに変換したがる。魅力的な人間になりたいという気持ちは新しい化粧品に、沢山の人と繋がっていたいという気持ちは携帯電話の電話帳に、そして特定の異性を好きで好きで仕方がないという気持ちはプレゼントに変換され、その状態でやりとりされる。

当然の如く、変換前と変換後はイコールではない。むしろ致命的なズレを抱えてすらいる。しかし私たちはそれに気づかず、あるいは気づいていても精神の平衡を保つためにあえて目をつぶり、自分が世界を把握出来ていると思おうとする。携帯のメモリを増やすことで友達を増やしたつもりになり、高価なプレゼントで愛情を表現したつもりになっている。

今欲しいものは、目に見えるものなのか、それとも背後にある目に見えないものなのか、考えてみよう。
 

11:54 2003/02/03【称賛】

A・ビアス『悪魔の辞典』では、称賛とは「他人が自分に似ていることを馬鹿ていねいに評価すること」だと定義されている。

確かに、小説でも音楽でもこれいいなと思う時って、私自身の方法論に近いものを感じたり、目指している方向性に共感したりと、対象の中に自分と共通する要素を見つけた時であることが多い。

私たちは好きなものを見つけるとやたら人に勧めたがる。本でもCDでも半ば無理矢理貸して、「ね、これ良いでしょ?」と同意を求め、期待通りの答えが返ってくると歓喜する。赤の他人の作品の普及活動にそこまで精力を注げるのは、それが間接的に「私を見て! 私って凄いでしょ!」という主張として機能しているからなのかもしれない。
 

7:15 2003/02/02【成功と失敗】

コロンビア号乗組員の方々のご冥福を祈ります。

墜落のニュースを見て、一番最初に思ったのは「墜落するってことは、打ち上げしてたんだ」ってことだった。実はスペースシャトルって、もう120回以上往復してたんですね。打ち上げ成功しても日本人の宇宙飛行士が乗ってない限りニュースにさえならないほど、宇宙へ行くことが普通になっているという事実に驚きました。

私たちは、成功に対して鈍感になりすぎていると思うのです。何でも成功するのが当たり前だと思っているから、成功例は最初の数回か、よほど珍しい要素がないと報じられません。でも、失敗は必ず報じられるのです。「暗いニュースが多いですね」と嘆くアナウンサーをよく見るけれど、そもそも暗いことしかニュースにしようとしてないんだから仕方ないのではないでしょうか。

今回の事故では、スペースシャトルが地上と宇宙を行き来することが決して「当たり前」のことではなく、大変なリスクを背負った大事であったことを思い出させてくれました。他にも、成功してもそれが当然だと思われて見向きもされないのに、失敗すると大騒ぎになってしまうようなことが世の中にはたくさんあると思います。明るいニュースが欲しいなら、そういう埋もれた成功例に光を当てるべきではないでしょうか。少なくとも、迷い込んだアザラシの映像を流すよりはずっと価値のある情報だと思うのですが。
 
 


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