アブー先生における眼鏡の眼鏡性についての一考察(アクダマ雑文祭
 

眼鏡で重要なのはデスね、その象徴するトコロのシチュエーションだけではありませんでして。
もちろん、眼鏡を構成する物質自体だけでもないのデス。
ボク思うに、前者については、眼鏡はあくまでも媒介的存在でしかなく、
真にヒトビトの欲望をかき立て刺激するのは、
眼鏡の向こう側に見える人間性になってしまうのデス。
これはキ印だらけの世間の中に頽落し、
何も知らないのに知ったような気になって奇声をあげて、
本当の知への道を閉ざしてしまう非本来的な在り方デス。
また、後者のような物質主義に陥ってしまうのもすごおく危険デス。
なぜなら眼鏡と眼鏡の本性は別物でありまって、
眼鏡が眼鏡性を持っているとは限らないように、
眼鏡の本性も眼鏡的である必要はないからデス。
アブージャパンによれば、「本性」の語源はラテン語の「存する」でありまって、
眼鏡の本性とは、眼鏡という存在者の存在自体の本質に関わってマス。
つまりボクの言いたいのは、使い方次第でその価値や、
意味するトコロが変わるようなニュートラルなものではなく、
むしろその様々な意味や価値が出てくるのは眼鏡のいかなる眼鏡性故か、
を問う必要があるということデス。ボヘエ。
さて、一般的に眼鏡の役割は見ることデス。
見ることとは、対象を知覚するだけでなく分節化しまって、
もう一度完成された到来へと誘い発現させることデス。
大変なことにボク気付いてしまいまった。死にタイ。
今日もアブー先生はボクが万引きしてきた腐肉や腐魚を食べまって、
消化し、自らの体脂肪としてモゾモゾと発現させているワケなのデスが、
その一連の動作は、眼鏡の眼鏡性と驚くほど共通点があるのデス。
更に食後には、webッペやメッセンジャイからヌースを集めまって、
まとめて発表していらっさる、つまり明るみに持ち来して到来へと誘っているのデス。
ボクなんでアブー先生に惚れたのかチョと分かりまった。
存在を了解している存在者(忌み子)として、本来的な眼鏡性に惹かれたのデス。
だからアブー眼鏡の中のヒトなんていなくていい。
ウフーフ(全裸で使用済み眼鏡をペロペロ舐めながら)。

*
以上ヒクチョンです。
劣化コピーを量産しても仕方ないと思いまって、
逆にミスマッチすぎて意味不明になるような内容を狙ってみたのデスが、
全然面白くないと言われたら喉元をかっ切って死にマス。ヒー(発狂)。
 

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