気仙沼へのボランティア活動
ボランティアのニュースを作成しました。 こちら→
ボランティアの報告書 こちら→
以下は、写真集です。
苫小牧港から出発する「きそ」に乗船 |
私たち4人は、苫小牧のフェリーに乗船し、翌日の10時に仙台港に入港した。 仙台港のフェリーターミナルの前の交差点には、信号機が無残にも倒れていた。 仙台港もかなりの津波におそわれている。 |
奥のビルがフェリーターミナル |
三陸自動車道の河北ICからR45号線に降りたが途中で通行止め。再び三陸道にもどり、終点の登米東和からR398号線にのり、南三陸町へ。 なだらかな田園風景、長閑な田舎道を降りて行くと突然・・・・・→ |
茶色に枯れた杉木立 |
南三陸町にて、 指さす方向は町の防災センター |
南三陸町の「防災対策庁舎」 |
津波で骨組みだけになった「防災対策庁舎」は看板だけが1階の玄関上にかかっていた。ここでも多くの命が失われたと思うと胸がつまる。 町が荒野となり、人っ子ひとりいないなか、重機と作業員だけが動いている様子は異様な風景であった。 |
しかし、がんばっている姿もあった。 |
R45号線で北上し、ようやく気仙沼市に入った。午後3時ごろ。
ガソリンスタンドと思われる |
高台であったが、津波で1階部分には何もない。 |
街の中心部に近づくにつれて、破壊された建物が次から次へと目に飛び込んでくる。 その破壊力はすさまじい。 |
ボランティア・センターに到着後、ただちに訪問活動を行なってくれ、と要請を受ける。 近くの仮設住宅に全国から寄せられた物資の無料配布のお知らせにお伺いした。 それにして暑い! 35度もある。 仮設のなかはもっと暑いようだ! |
15日はセンターに瓦礫撤去の要請がきていたので、いざ出陣!
左から、石川、橋本、藤井、佐々木 異様な臭いが靴に、服に・・・・・ やわらかいものを踏んづけたと思ったら、腐った魚のかたまりであった。 やはり、炎天下の作業は厳しい! |
完全装備の私です。 |
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16日は、仮設住宅へ全国から送られてきた物資の配布
私は食器を担当 |
たくさんの方々が・・・・・ |
日中の気温は35度。直射日光でフラフラしてくる。 仮設に入居したばかりで、何もない人たちがいかに多いか。 食器、夏服や肌着の要望が多かった。 |
山形農民連からサクランボが大量に到着。午後から公民館の避難所へ届ける。 この公民館では当初400人だったのが、今は60人ほどになったとのこと。 |
各地域ごとに支援物資を区分けしている。 |
館長からお話しを聞くと、4ヶ月目にして、親戚や知人宅に避難している方々119世帯319人の所在が分かったので、それぞれの地域に物資を仕分けして運ぶところだと説明を受けた。 親戚や知人宅をどうして調べたのかと聞くと、自治会の力とのこと。やはり自治会の力は災害の時には大きな力を発揮している。 |
地元の人に、気仙沼の市街地を見せていただいた。(大震災から4ヶ月を経過した姿です)
南気仙沼駅から漁港へ、そしてフェリー乗り場、鹿折唐桑(ししおりからくわ)駅と一回りした。
家が流され、駅のホームに |
気仙沼地域はまだ瓦礫がそのまま |
南気仙沼駅のホーム |
地盤沈下のため、水が溜まっている。 |
下水道処理施設が壊滅している。 こうしたものこそ国の責任が問われているのではないか。 |
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鹿折唐桑駅まえに流された 大きな船 |
左の船、いわゆる駅前からみた 商店街通り |
4ヶ月たっても、いまだに瓦礫処理の最中であった。 一自治体の力量をはるかに超えている。 国の迅速な支援が求められている。 |
気仙沼市のHPには、震災復興会議での資料が掲載されている。こちら→
HPの一番下に第1回と第2回の資料がある。
下の地図は第1回の会議の資料に掲載されている「津波被害の状況」。
左の図は、鹿折(ししおり)地区の津波被害図である。 赤が「ほぼ壊滅」の地域。 左に駅があるが、そこに巨大な漁船が流されていた。(上の写真) ぜひ気仙沼市のホームページを見ていただきたい。 |
三日半の作業を終え、帰途につく前に、陸前高田市に寄った。
ここは高台が少なく、街の中心がすべて津波で流されたため、復興は大変な状況である。
こうのような破壊的な自然災害にたいしてこそ、国の出番である。
住民の住民による住民のための復興計画を。
その計画に対して、全面的なバックアップすることこそ、国が行なうべき仕事ではないか。
国道45号からみた陸前高田市。なにもない荒野になっている。あるのは廃墟となったビルと瓦礫の山。
三陸鉄道の橋脚も破壊されていた。 鉄道は住民の重要な足。 これも国の責任で再建することが緊急に求められている。 |
大震災・原発災害にあたっての提言(第2次) →
2011年5月17日
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