プロフィール

石川明美

1951年 埼玉県生まれ
1970年 埼玉県立川越工業高校卒業後、
      日本電気エンジニアリング(株)
1971年 日本共産党に入る
1977年 日本民主青年同盟釧路地区委員長
1980年 赤旗釧路出張所
1997年 釧路市議会議員初当選
 〜〜〜
2011年 釧路市議に4期目の当選
       日本共産党釧路市議団長
       総務文教常任委員会所属
       石炭対策特別委員会所属
2014年11月 
     総選挙立候補のため、市議を辞任 北海道7区
2015年4月
     道議会議員選挙 釧路市区に立候補
2017年10月
     衆議院北海道7区に「野党の統一候補」として立起
現在
     再び衆議院北海道7区に挑戦


家族
     妻
     子どもは2人(自立しています)

名前について
 なんといっても「明美」とい名前が大変です。顔を見せないとわかりません。ただ、見せると「ガッカリ」するようです。(美人を期待していたのかな・・・・・)
 私が中学に入ったときは、女子の名簿に入っていたと先生が打ち明けてくれました。
 戸籍にのせるときは「あきみ」と読んだようです。それで小さいときは「あきちゃん」と呼ばれていました。その後、いつのまにやら、ふりがなが「あけみ」になってしまいました。

 「明美」という名前の男は俺だけだ、と長い間思っていましたが、残念。人伝てに聞くと、道東地域に3人いました。根室、帯広、北見です。根室の人とは一度お会いしました。

子ども時代
 子ども時代は、野山をかけめぐっていました。近くにお寺(永源寺)の大きな森があり、昼なお暗い場所で、格好の遊び場でした。夏休みは30日間、毎日川で泳ぎ、魚とりなどしていました。
 中学時代に川は汚れ泳げなくなり、森は切り開かれ、団地に変わってしまいました。野山で遊んできた最後の世代なのかなと思っています。

 ちなみに永源寺は曹洞宗(そうとうしゅう)で、私の実家の菩提寺です。入り口に「不許葷酒入山門」の石碑(戒壇石)が建っています。 小さいころは何だかわかりませんでしたが、「くんしゅさんもんにいるをゆるさず」と読みます。にんにくとか酒は修行の妨げになるから、ここからは持ち込み禁止ということです。禅寺の入り口には必ずあるそうですね! 五戒のひとつです。
 しかし、般若湯(はんにゃとう)を飲むと、般若(仏の知恵)がつくということで・・・・・人間はいろいろ考えるものですね! 子どもとよく遊んだ有名な良寛和尚は曹洞宗です。しかし、般若湯をこよなく愛したとのことです。自らの号を「大愚」と称したこととかかわりあるのでしょうか。
   「盗人に 取り残されし 窓の月」 
 あまりにも有名なこの句をよむと、人間を超越しているのではと思ってしまいます。十牛図のなかの人牛倶亡(じんぎゅうぐぼう)の域に達しているのかも・・・・・いや、それすら超えているのかもしれません。

 禅に関しては、京極夏彦氏の長編推理小説の「鉄鼠の檻」に詳しく書かれています。
 なまじっかの宗教解説本より、禅がよくわかるとのことです。(禅宗の方におこられそうですが・・・)箱根の山奥に建立年代不明のお寺があり、多くのお坊さんが禅の修行をしているのですが、そのお寺でお坊さんが次々と殺されていく。 犯人は??? 京極堂はいかに解決するのか?
 読んでいくと禅や悟りについて、わかるような気分になっていきます。ラストは悲しいですね。
 いわゆる宗教ミステリー長編小説です。

 横道にそれてしまいました。すみません。
 中学時代は、バスケットの選手(今の姿から想像できないという声がある)でした。
 また、アマチュア無線に凝って、ラジオや無線機を作っては壊していました。十台以上は作ったと記憶しています。 お金は? すべてアルバイトで作ったお金です。親に負担はかけませんでした。小学6年から高校3年まで7年間、毎日牛乳配達をしていました。
 アマチュア無線(ハム)では、QSLカードを集めることが流行っていました。モールスもやっていたのでアメリカやドイツ、ソ連の人と交信し、QSLカードを集めて楽しんでいました。
 不思議に、今でもモールス信号は覚えています。中学時代に覚えたものは記憶に残るものですね。そんなこんなで、子ども時代は家での勉強はしませんでした。(まったく自慢にならない!)
 こうした無線趣味が高じて、高校は工業高校電気科を選択しました。

仕事
 就職は1970年ですが、当時は景気高揚期でした。就職紹介の部屋には企業の募集書類が山のように積みあがっていました。いまの時代をみると考えられないですね。そして、選んだのがコンピューター関係の会社でした。
 コンピューター教育を受けたあと、配属されたのが新人教育の部門で、インストラクターの仕事でした。コンピューターの新人が、翌年から新入社員にコンピューターを教えるのですから、今から思うと冷や汗ものです。
 70年代のコンピュータといえば、トランジスタの世代です。ビルの一室を占領するほど大型でしたが性能的には、現在のパソコンの足元にも及びません。巨大な大型コンピューターが、今や机の上に、さらにスマホのように手のひらにのってしまい、ネットで世界中とつながっているのですから、技術の発展は驚きです。
 当時のプログラムは、すべて機械語(数字のみ)で組んでいました。いまでも33は比較命令、65はジャンプ命令など記憶に残っています。そして、トランジスタが壊れる率が高かった時代でもあります。数十万個のなかから、オシロスコープを使って壊れたトランジスタを見つけ出しハンダゴテで取り替えるのですから、手工業的な職人技でした。
 教育コースの手が空いたとき、工場から「壊れたコンピューターが2台あるので、適当に組み合わせて動くようにしろ。期限は一週間」と要請されたときは大変でした。一人であちこち取替えて調整し、動くようになり引き渡したことは今でも思い出に残っています。
 当時のCPUのスピードは1MHzでした。現在のパソコンは1000MHzや2000MHz(2GHz)という驚異的な速さです。すさまじい技術の発展ですね。
 このあと、ICやLSIが急速に普及し、当時のコンピューターは過去の遺産になってしまいました。

 よく人からコンピューターに詳しいのでしょう? と聞かれますが、私はコンピューターの黎明期の人間であって、現在のパソコンに詳しいわけではありません。現在のパソコンを見ると、自転車とジェット機ほどの違いがあります。そして、ハードは限りなく小さくなり、ソフトがほとんどの世界になってしまい、ブラッックボックスだらけです。
 ソフトは「アプリ」となり、メーカーにより、また開発者により大きな違いがあって、同じ機能でも使い方がまったく違うということになります。アーキテクチャの違いはそうとうなものです。
 プログラム言語は、機械語、アッセンブラ、コボル、ベーシック、C言語、JAVAなどたくさんの種類がありますが、それぞれ日本語、英語、フランス語を学ぶようなもので、若いときは良いのですが、年をとると大変です。
 コンピューターに詳しいということは、使用するソフトに詳しいということであり、ネットワークに詳しい人のことです。ハードは私たちの視界から限りなく消えつつあります。


 このように根っからの技術屋でしたが、その後、17年間にわたって新聞配達(朝3時半に起床)。 このあとに市議会議員として17年間務めてきました。力足らずの面もありましたが、みなさんには大変お世話になりました。
 
現在は、2020年〜衆議院7区の小選挙区に挑戦中です。
これからもよろしくお願いします。