藤・横浜監督を見ていると、いつも思い出す人がいる。近藤貞雄である。権藤
博は、現役時代からスリムな二枚目の快腕投手として知られ、横浜の指揮を執る
    今もスマートさは全く変わらず、キビキビした若い動きを見せている。
     一方の近藤も、若い頃はハンサムで知られ、引退後も体つきは少しも変わら
    ず、シャレた服を着こなすダンディぶりで有名だ。

     近藤がプロに入団したのは昭18(1943)年のことだ。正に世界戦争の真っ
    只中であり、戦局は日本に不利であった。愛知・岡崎中学から西鉄に入団。
    時の監督は広島出身の石本秀一だ。石本は、中学時代、強打の一塁手として
    活躍していた近藤を、投手にコンバートした。その長身からの速球を見出されて
    のことだが、当時のチーム事情として深刻な投手不足の穴埋めという見方も出
    来よう。

     だが、近藤が入団したその年、西鉄は折りからの厳しい戦局と財政難、選手
    不足に音を上げて解散の憂き目に遭う。これは西鉄だけの話ではなく、他球団
    も次々に解散、合併、消滅し、とうとう6球団を残すのみとなった。

     そんな中、近藤は巨人に引っ張られることになる。名門・巨人軍をもってして
    も、戦争の荒波には勝てず、選手は次々と招集、応招され、とうとう全選手6名
    にまで落ち込んだ。そこへ入団したのである。

     プロ野球にとって、いや日本にとって悪夢のような太平洋戦争は、日本の無
    条件降伏によって幕を閉じたが、そんなことは選手たちには関係なかった。ま
    た野球ができる。それだけだったろう。

     プロ野球は、早くも終戦の11月23日に復興し、翌年からはリーグ戦も再開
    された。その昭和21年、巨人は近畿グレートリンク(現・ダイエー)に僅差で破
    れ、優勝を逃すのだが、近藤はエースとして大活躍したのである。
     後に日本初の完全試合達成投手となる藤本英雄21勝、10個も四球を出し
    ながらノーヒットノーランするという珍記録を上げた左腕・中尾が11勝する中、
    近藤は23勝を上げ、チーム64勝の1/3以上を稼いだ。

     若きエースとして君臨するかに見えた近藤に不運が舞い込むのはこの年の
    秋だ。オープン戦で松山・道後に来ていた近藤は、夜道を歩いている時、暴走
    する進駐軍のジープに突っかけられた。身をかわし、接触事故にはならなかっ
    たが、側溝に落ち込み、そこに落ちていたガラスの破片で右手中指に深い傷を
    負ってしまう。戦後の混乱期、手当ては遅れて、ようやく手術を受けたものの、
    神経を傷付けてしまい、中指はねじれ、曲がらなくなってしまった。

     ゆくゆくは巨人のエースになるはずだった男は、翌年オフにあっさりクビにな
    った。途方に暮れたが、西鉄時代からの同僚で下手投げの宮下信明投手が
    中日に声を掛けられた時、その宮下に中日入りを勧められた。
     宮下は、中日・天知俊一監督に「自分の契約金はいらないから、一緒に近藤
    もとってくれ。必ず役に立つ」と交渉してくれたのだ。

     天知監督と宮下に報いるため、それこそ死ぬ思いで練習に励んだ。曲がらな
    い指でボールを投げるだけでもひと苦労だが、近藤は中指を使わずに投げる変
    化球「疑似チェンジアップ」とも言うべきボールを編み出した。
     入団した昭和23年、24年と7勝ずつ上げ、25年には13勝を上げて恩義に報
    いた。

     引退後は指導者として非凡なところを見せ、昭和44年からロッテの投手コーチ、
    昭和47年からは中日のヘッドコーチを勤め、それぞれ優勝に大きく貢献した。
     近藤は、日本で初めて投手の分業システムを取り入れたコーチとして著名だ。
    先発完投が当然だったそれまでの投手起用に対し、先発は5〜6回まで、中継ぎ
    で1〜2回持たせて、最後にリリーフエースが1〜2回を締める、という現在では
    当たり前の投手起用法を編み出した。
     おまけに、キャンプでの投手陣の投げ込みを禁止するという前代未聞な練習を
    やってのけた。「投手の肩は消耗品」が近藤の持論であった。

     その後、中日で念願の監督を務め、見事に優勝させた。さらに大洋、日本ハム
    でも指揮を執り、不審な判定を下した審判に猛然と食ってかかっていくそのファ
    イター振りは記憶に新しい。
     マスコミ好きとしても有名で、大洋時代に俊足打者を揃えて「スーパーカートリオ」
    と命名して売り出すなど、表面に出ることを好んだ。

     マスコミやファンの受けはよかったものの、選手掌握術は今ひとつだったようで
    中日ヘッドコーチ、監督および大洋、日本ハム監督時代には、たびたび選手と衝
    突していた。熱血漢で気が強いのだが、それが逆に出る面もあり、しばしば独断
    専行を指摘されてもいた。昭和57年の中日監督当時は、優勝目前のチームが内
    紛で爆発寸前だったことが知られている。「優勝なんて滅多に出来ないのだから」
    とベテランの木俣や星野が必死に若手を抑えていたと伝えられる。星野曰く、「お
    まえら、使ってもらえるだけいいじゃないか。オレを見ろ」。これには若い選手たち
    も二の句が告げなかったそうな。

     解説者としての近藤の弁舌は鮮やかで、言いたいことはズバリと言う。中日のゲ
    ームをカバーする放送局でしかお目にかかれないのはさびしいが、いつまでも元
    気な声を聞かせて欲しいものだ。



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