体不満足という本がベストセラーを続けている。内容は今更筆者が説明する
までもないが、俗に言う身体障害者の方が書かれた本だ。作者の本意に関わ
    らず、我々の心を打つのはこういう人がこれだけ頑張っている、という事実で
    あろう。そしてそれはスポーツの世界でも、同様の感動を呼ぶ。

     ご紹介するのは権藤正利投手。権藤は権藤でも、あの権藤博さんではない。
    昭和28(1953)年、柳川商業高校から大洋松竹ロビンスに入団すると、いき
    なり15勝を挙げて新人王を獲得する。
     このピッチャー、とにかくタフであった。今でもそうらしいが、柳川商と言えば
    当時は猛練習で有名だった。そこでの権藤の練習ぶりは今でも伝説だそうで
    ある。ブルペンで300球の投げ込みがあり、そのあと、バッティング投手として
    200球以上は投げた。それが毎日だというから恐れ入る。当然、この他に一般
    練習でのランニングやノック、バッティング練習もあるのである。まさにプロ野球
    のキャンプ並みの練習を一年中やっていたわけだ。
     おまけに、当時の練習でニューボールを使うことなど有り得ない。使い古した
    重たいボールをこれだけ投げたというのだ。だから、ニューボールを投げられる
    試合は楽だったそうだ。ゲーム開始の初球からラストボールまで全力投球でも
    まるで平気だったというからものすごい。
     これが現役を21年間も続けられた大きな要因であろう。

     これだけでもすごいのに、我々の心をさらに打つのは、この権藤は子供の頃
    小児麻痺に罹り、左半身不随という大きなハンディキャップを背負っていたこ
    とである。努力に努力を重ね、左半身不随を克服したばかりでなく、野球という
    スポーツ、しかも激しいポジションである投手になったのだ。頭が下がるではな
    いか。
     おまけに、利き腕の左手人差し指は、ケガで「く」の字に曲がっている。子供の
    頃にナイフで切ってしまい、神経を傷つけてしまったのだ。権藤のカーブは、この
    指のお陰だという人もいるが、権藤本人は「この怪我がなければ、もっと良い
    カーブが投げられた」と言っている。

     権藤の特徴は、その大きなカーブにあった。昔風に言うと「ドロップ」というやつ
    だ。大きなカーブというと、ドロンとした速度のないカーブを想像するが、権藤のは
    そうではない。「ストレートが急にキリキリと音をたてて曲がり落ちてくる」という
    代物だそうである。

     もうひとつ、権藤で思い出すのが、史上最大の連敗記録・28連敗だ。
    詳細は、別の機会に譲るが、昭和30年から3年越しで連敗を重ねた。トンネルを
    脱出したのは昭和32年の七夕、川崎球場での巨人戦だった。自らタイムリーを
    放つなどして、4−0とシャットアウトした。気骨の人だったのだろう。
     しかし、28連敗とはよく負けたと思われるだろうが、逆に言えば、それだけ負け
    ても使われ続けたということであり、信頼感のある投手だった裏付けになる。

     権藤が引退したのは昭和49年。これが残念な結果になっている。
    最後は阪神に在籍したのだが、さすがに晩年は先発完投とは行かず、リリーフが
    主な仕事になっていた。が、安定した投球でタイガースを支えており(在籍中に、
    最優秀防御率のタイトルも獲った)、なくてはならぬ投手であった。
     人格的にも温厚で、当時のエースだった江夏曰く「権藤さんが怒ったり怒鳴っ
    たりするのは一度も見たことがなかった」。常に優し気な笑みを浮かべている人
    だったそうだ。

     当時のタイガース監督の(さすがに匿名とする)は、とにかく人望のない人で、
    この時の監督を最後に、ほぼ完全に球界と縁が切れている。かつてはダイナマイ
    ト打線の一角で、監督にまでなった人物だというのに、引退後、マスコミが訪ねた
    ことは一度だけだというから、どんな人物か想像がつく。

     この人、とにかく底意地が悪いというか、冷たい性格だったようだ。おまけに口が
    悪い。悪口にしても、カラッと明るくあとに残らないように言える人もいるが、この人
    の場合、まるで逆だったらしい。

     このK監督のイジメの対象になっていたのが権藤だったらしい。人が良くておと
    なしく、しかも同僚はもちろん若手にも人望がある。そこが気に入らなかったのか。
    ことあるごとに権藤をいびっていた、と江夏は言っている。権藤のことを「猿」と罵り
    蔑んでいたそうだ。ある時、若手の目の前で、権藤に対し「猿でもタバコ吸うのか」
    とバカにした。その場にいた江夏は、さすがに権藤も怒るのではないか、と思った
    そうだが、権藤はやはり笑みを浮かべて立ち去ったという。

     そんな中、権藤は江夏に「わしはもう我慢出来ん」と口にした。江夏は「気持ちは
    わかるが、手を出したらクビになる。あんな監督のためにクビになるなんて馬鹿ら
    しい。思いとどまれないか」と言ったが、「もう決めた」と権藤は答えた。
     小児麻痺を克服してプロ入りし、4球団渡り歩いて21年も現役を続けた人だ。
    それだけでも自然に頭が下がる。その男が、一発の拳と引き換えに現役を棒に
    振ってもいい、という。江夏は返す言葉を失ったそうだ。

     江夏がK監督を呼び出し、権藤と話し合ってくれるよう交渉した。その際、取り巻
    きのコーチ連は江夏が制した。K監督は、取り巻きがいるとやたら高飛車だが、い
    ないとまるで弱腰になる。
     部屋にふたりが消えると、途端にK監督の悲鳴が響いた。ああ、やったな、と思
    った江夏とコーチ連が部屋に飛び込むと、仁王立ちの権藤と腰を抜かしたK監督
    がいた。K監督は、コーチ連の姿を見ると途端に元気づき、大きな瀬戸物の灰皿
    を権藤へ投げつけたという。こういう人なのだ。
     一方の権藤は、江夏が肩を抑えると感極まったように泣き出したという。

     そして権藤は翌日ファームに落ち、そのまま引退した。そんな権藤を見て「男の
    生き方として立派だと思う」と江夏は言っている。

     権藤正利の生涯成績。
    21年の選手生活(洋松−大洋−東映−阪神)。
    719試合に登板、117勝154敗、投球回数2513回、1943奪三振、防御率
    2.78。勝敗の割に防御率が抜きん出ている。目立たぬながらいぶし銀の活躍を
    した権藤らしい成績と言えよう。



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