年(1999年)のセンバツは、沖縄尚学が見事に優勝し、初めて優勝旗を沖縄
へ運んだ。この沖縄尚学は、いわゆる進学校で文武両道をもって鳴る。高校野球
    はセミプロ化が進み、私学の天下になりつつあったが、昨今の不況で私学も先
    立つものがないのか、一部を除けば各校に戦力が分散化しつつあり、見ている
    側とすれば面白いゲームが増えている。

     一方、大学はどうか。東京六大学も、思うようにスポーツ優待学生の枠が得ら
    れず、苦労しているかつての名門校もあるようだ。しかし、景気が良かろうが、
    不況だろうが、そんなことには一切関係のない野球部もある。東京大学だ。
    もともと、金で選手を集めるなどということをやっていないのだから、景気の動向
    など無関係だ。但し、弱い。

     そんな東大OBがプロ選手になったとして騒がれたのが、ロッテに在籍していた
    小林投手だ。左腕からのコントロールされた変化球が武器だったが、やはりプロ
    の壁は厚く、一軍に上がることは滅多になく、勝ち星もなかった。
     しかし、プロに入った東大の選手は、小林投手で3人目だったのである。
    ちゃんと成績を残した選手がいたのか? いたのだ。

     昭和39(1964)年、大洋漁業に東大出身の若者が就職した。
    名を新治伸治という。新治は本社勤務から、すぐさま子会社への出向を命じら
    れた。出向先は大洋ホエールズ球団株式会社。つまり、プロで野球をやれ、と
    いうことだ。ドラフト指名ではもちろんなく、ドラフト外指名でもなく、はたまたテスト
    入団でもなく、出向社員としてプロ球団入りしたのは、後にも先にも新治だけで
    あろう。

     東大野球部時代、東大野球部史上に残る名投手と言われていた新治は、六大
    学時代、通産で8勝41敗を記録していた。これを知っていた大洋が、話題取りと
    してホエールズ入りを命じた可能性もあるが、真相は藪の中だ。

     ともかく、プロ入りした新治は、昭和40年のオープン戦で初登板したが、この時
    は連打を食らってKOされている。シーズンに入ると、開幕からベンチ入りを命じ
    られ、4月17日に初登板した。この時はエースの秋山登をリリーフし、2イニング
    を投げて被安打1、四球2で失点1。奪三振もひとつあった。その後、ファーム落ち
    したが、4月19日にはイースタン・リーグの東映戦で勝利投手になっている。

     そして、7月25日、広島球場での広島戦で3人目の投手として登板し、2回を投
    げて4つの三振を奪う好投を見せた(1失点)。この間、味方打線が援護、逆転し
    てくれたため、見事プロ入り初勝利を挙げた。
     新治はこの後4年間現役を続け、9勝6敗を挙げた。防御率3.29。

     ちなみに、東大出身プロ選手の第2号は、中日に入団した井手俊である。
    井手は昭和41年の第2回ドラフト2位(変則ドラフトで、2回あった)指名された。
    やはり投手で、既に内定していた三菱商事への就職を蹴っての入団だ。
     この井手が初勝利したのが、昭和42年9月10日の大洋戦(中日球場)。奇しく
    も、この時の大洋の敗戦投手が新治なのだ。東大OB同士の投げ合いということ
    で、かなり話題を呼んだが、今後、こういうことは二度とあるまい。

     なお、井手はその後、外野手に転向。俊足と強肩を活かして、主に守備固めと
    して貴重なバイ・プレイヤーで活躍した。引退後も、知識とセンスを評価され、たび
    たび中日のコーチや二軍監督を勤めている。



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