変わりといえば、小川健太郎でとどめをさすだろう。昭和39年、中日に入団し
た時、既に29歳。おまけに4人の子持ち。174センチ、64キロと、今から見れば
    小柄な部類だ。しかも、昭和29年に一度プロ入り(東映)しており、3年後に
    自由契約
。その後ノンプロをあちこり渡り歩き、9年後に再びプロ入りしたの
    である。

     性格的には偏屈で、他人との同調を嫌う一匹狼であったと伝えられるが、長い
    社会人野球暮らしで身についたのか、投手としての力量はすごかった。
    アンダースローながら、球威抜群の速球に加え、えげつないシュート、重いシンカ
    ーにナックルまで操った。
     入団2年目(昭和40年)には、いきなり17勝9敗でチームの勝ち頭となる。翌年
    にも17勝11敗で、やはりチーム最多勝を記録する。4年目はさらに飛躍し、なん
    と29勝12敗という成績で、セントラル最多勝と沢村賞を獲得する。5年目にも
    20勝12敗で、不動のエースの座についた・・・かに見えた。

     小川と言えば思い出すのが、なんと言っても背面投げであろう。昭和44年6月
    15日、後楽園球場での巨人戦。3回裏2死無走者で、打者は3番の王貞治
    2−0と追い込んだ小川は、ワインドアップからモーションを起こし、一連の動作の
    中、バックスイングで右腕を背中に回し、そのままヒョイと投げたのである!

     王はもちろんだが、キャッチャーの木俣もこれには唖然とした。「よく捕れた」とは
    試合後の談話。実は小川がキャンプでも、この投法を練習していたのは知ってい
    たが、シーズンに入っても、今まで投げたことがなかったので、まさか本当に投げ
    るとは思わなかったそうである。
     ボールはそれでも、ノーバウンドで木俣のミットに収まった。コース自体は、外角
    へ遠く外れたクソボール。四球目はまともに投げて、右飛で打ち取った。
     さらに6回の打席でも、カウント2−1からまた背面投げをやってのけた。今度は
    ワンバウンドのボール。さすがの王も呆れたのか、それとも毒気に当てられたの
    か、次のストライクを見逃して三振に倒れた。

     日本では、というより世界的に見ても、こんな投法をしたのは、恐らく小川が最初
    で最後だろう。小川自身はそれなりの成算があったようで、試合前に審判に確認
    したところ、ルール違反ではないと言われたのでやってみた、と述べている。
     他にも、ボークぎりぎりのクイックモーションで投げるなど、打者を幻惑させる投
    法をいくつか試みている。

     異才、奇才と呼ばれ、なおかつ実力もあった小川だが、球界を永久追放されて
    いる。ギャンブル好きが昂じて、オートレース八百長に関わったのがバレてしま
    ったのだ。また、この年(昭和44年)に、日本中の大騒ぎさせた「黒い霧事件」に
    も関係し、八百長疑惑も受けたとあっては致し方ないところだろう。

     しかし、在籍7年で、253試合に登板し95勝66敗はすごい。29歳から100勝
    近く挙げたピッチャーはそうそういないだろう。さらに素晴らしいのは739奪三振、
    防御率2.65である。しかも、永久追放になる前年も20勝しているし、当年も快調
    に勝ち星を挙げていた。40歳まで投げて200勝・・・というのも、あながち夢でも
    なかったろうに。返す返すも残念な投手だった。



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