先 |
日、知人の女の子と話していた時のことである。ひょんなことから佐々木信也
の話が出た。プロ野球ニュースの名司会ぶりが印象的だったせいか、佐々木が
プロ野球選手だったことを知らないというのだ。確かに、甘いマスクにソフトで
歯切れの良い喋りと、野暮くさい野球選手らしからぬ雰囲気を持っていたのは
確かだ。
しかし、この佐々木信也、実は大した選手だったのだ。
神奈川の湘南高校時代は甲子園で優勝、その後、慶応に進んで神宮を沸かせ
たスタープレイヤー。それが佐々木だ。父親も慶応野球部出身で、高校野球の
監督も勤めた。その父の縁で、別当薫や大島信雄の薫陶を受けるなど、抜群
の環境の元に育った毛並みの良いサラブレッドだったのである。
昭和31(1956)年、20社以上という社会人チームの誘いを断り、弱小の
高橋ユニオンズに入団する。そして、1年目からレギュラー二塁手として抜擢され
フル出場を果たし、.289という好成績を挙げた。しかも全イニング出場である。
この年の試合数は154試合という多さだ。ユニオンズのシーズン守備イニング
は1386回1/3という膨大さ。これを守り切ったのだから大したものだ。
今後、これ以上の試合数をこなすシーズンがあるとは思えないので、この佐々木
の記録は永久に残ることになるだろう。
成績の詳細は、刺殺380、補殺414、併殺86,失策29で守備率.965。
622打数180安打の.289(ベスト10の6位)で、6ホーマー、37打点。
ルーキーの180安打という記録も破られないだろうし、なによりすごいのは
622という打数である。
これだけの成績なら文句なく新人王かと思われたが、とんでもない強敵がいた。
かの稲尾和久だ。この年、21勝を挙げ、防御率1.06。おまけに、稲尾は佐々木
に対して無類の強さを発揮、18打数1安打と抑え込んだ。これでは佐々木は
白旗を揚げざるを得まい。
順風かと思われた佐々木だが、チーム運に恵まれなかった。ユニオンズはこの
年も最下位。おまけに翌年には大映に吸収されてしまった。大半の選手が解雇
される中、佐々木は大映に移籍するが、この大映も本業の不振で解散してしまい
毎日オリオンズに吸収される。この時も佐々木はサバイバルに成功するが、その
年を最後に解雇された。解雇されるほどの成績ではなかったが、一部には当時の
監督・別当薫とうまくいかなかった、という話もあったが、あくまで噂である。
その後、慶応の先輩だった、巨人・水原監督に呼ばれる話もあったが、これは
実らなかった。そこへ、「言語明晰と画面映りも良い」とNET(現・テレビ朝日)に
解説者として招かれることになった。当時26歳。史上最年少解説者として話題を
呼んだ。以後、タレントとしても活躍し、プロ野球ニュースの初代キャスターとして
人気者になったのはご存知の通りである。
プロ通産4年の成績。466試合で1602打数424安打、13ホーマー、101
打点、.265。