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年、日本テレビ系のナイター中継を見ていて驚いたことがある。日本テレビの
ナイターだから巨人戦だ。相手は横浜である。アナウンサーが監督の権藤博
の経歴を簡単に紹介した。曰く、新人の年に35勝して新人王になった、曰く
翌年も30勝を挙げた、と、野球ファンにはお馴染みの記録だ。
ところが、これに感心したように、「へぇ、そうなんですかぁ」とバカな相づちを打
っていた解説者がいたのである! いやしくも、プロ野球解説者と名乗るのであ
れば知っていて当然の記録であるし、そもそも12球団の監督のデータくらいは
押さえて当たり前だろう。それがこの体たらくだ。最近の解説者の質は落ちた、
とはよく聞くが、その最たるものだったろう。元々、この解説者は、自分が現役
時代のことしか知らないフシはあったが、いみじくもそれが証明された形になった。
それはさておき。
解説者でさえそうなのだから、もしかすると一部の横浜ファンや古くからの中日
ファンしか、大投手・権藤博のことは知らないのではないか、という気がしてきて
しまった。そこで、手垢にまみれた(それくらい有名な)選手であるが、取り上げる
ことになった次第。
昭和36(1961)年、鳥栖高校からノンプロのブリヂストンタイヤを経て中日に
入団した権藤は、オープン戦から凄まじいばかりの成績を上げる。28回1/3を投
げて失点わずかに1、防御率は実に0.32。松坂どころの話ではなかったのだ。
シーズン後はプロの洗礼か、とも思われたがとんでもない。開幕2戦目の巨人戦
に先発して4−1で下すと、名古屋に戻って国鉄戦で5−1、再び巨人戦で4−0と
半月あまりでオール完投の3連勝を遂げる。
今と違い、投手の絶対数が少なかった時代。同時期に大エースと呼ばれた稲尾
も杉浦も秋山も、みな連投に次ぐ連投、完投に次ぐ完投。
無論、権藤も例外でなく、「これはいける」と見た当時の濃人監督に酷使された。
シーズンが終わってみれば、69試合に登板し35勝19敗。内容も完璧に近く、
310奪三振、防御率1.70。すごいのは、32完投で12完封、投球回数に至って
は、実に429回1/3。
ちなみに、試合数は今より少ない130試合でこの成績なのだ。
さらに翌年も30勝を挙げた。驚くべきは、ドラゴンズだ。この大投手を擁した2年
間、いずれも優勝を逃しているのだ。
こんな使い方では長くは持つまい、という懸念は当然で、権藤の投手としての実績
は、事実上この2年だけ。3年目は10勝12敗と大きく成績を落とし、4年目は6勝
止まりであった(11敗)。成績が落ち気味だったこともあるが、投げ過ぎが祟り、肩
痛に悩まされた権藤は内野手に転向する。その脚力とバネに着目されたわけだ。
60試合〜80試合ほどに出場する程度ではあったが、内野手をやっているうちに、
肩の痛みが取れてきて、再びマウンドに登ることになった。昭和43年に投手復帰を
果たしたが、往年の力は戻りようもなく1勝1敗に終わり、選手生命もここでピリオド
を打つことになる。
中日、近鉄、ダイエー、横浜と、指導者になってからも権藤の支持者は多い。
自分が苦労を重ねているだけに、投手にとって最大の理解者なのだ。近鉄時代、
当時の仰木監督(現オリックス監督)と衝突し、退団することになった際は、投手陣
から球団へ多数の抗議が寄せられた。ダイエー時でも同じことが起こっている。
「投手コーチは監督と衝突するものだ」とは、現中日投手チーフコーチの山田久志
の弁だが、その優秀な投手コーチが監督になったらどうなるのか、という疑問もあ
った。
結果は昨年の通り。もちろん1年だけで判断することは出来ないが、権藤が
名伯楽なのは疑いのないところではなかろうか。