なさんはドラフト制度に関してどのようなご意見をお持ちだろうか?
私見を言わせてもらえば、基本的に賛成である。無論、様々な問題はある。それを認めた
    上で、という消極的賛成ではあるが。基本概念である戦力の均等化という目的は誤って
    いない。強いところに選手が集まるのは当然だ、というもっともらしい意見があるのは承知
    しているが、強いところというよりも金のあるところと言い換えた方が妥当だろう。
    極言すれば、金で勝利を買うということだ。FAを見てもそれはわかる。それが間違いだとは
    言わぬが、気に入らないのは確かだしな。
     ドラフトが巻き起こした悲喜劇はいろいろあるが、今回ご紹介する事件は、あの江川事件
    に匹敵する大問題に発展した。

     昭和44(1969)年のドラフト会議。この年に指名された大物には、阪神・上田二朗投手、
    中日・谷沢健一外野手、近鉄・太田幸司投手、南海・佐藤道郎投手、門田博光外野手など
    がいる。そして、その大物の中に問題の荒川尭内野手がいた。

     荒川という姓を聞いて思い出すのは、やはり荒川博であろう。毎日オリオンズ時代は、
    パッとしない外野手だったが、広岡達朗の誘いで巨人の打撃コーチとして入団、のちに
    あの王貞治を育てることになる、あの荒川コーチである。問題の荒川尭は、この荒川博の
    養子である。

     この荒川尭、親の血以上の実力を備え、早稲田大学で大活躍して、この年のドラフトの
    大きな目玉のひとつになった。ところがこの荒川、ドラフトにあたってプロ入りへの条件を
    出した。「巨人かヤクルト以外には入団しない」と言ってのけたのだ。
    しかし、運命の女神は意地悪い。ヤクルトでも巨人でもなく、大洋が荒川の交渉権を獲得
    することになった。
     失望した荒川は、大洋との交渉を一切拒否した。

     大洋側は、予想はしていたものの、荒川の頑迷さにとまどってしまう。面白くないのは大洋
    ファンである。「なぜ大洋に入団しないのか」という脅迫状まで舞い込む騒ぎとなった。中には
    「ぶっ殺してやる」などという過激なものまであったが、明かに荒川家では本気にしなかった。
    それが裏目に出た。

     昭和45年1月5日、午後9時15分頃。荒川はいつものように犬を散歩に連れ出した。
    突然、二人組の暴漢が襲いかかり、荒川を棍棒状の凶器で殴打した。荒川は緊急入院し、
    診断の結果、後頭部および左手中指に亀裂骨折を負い、全治2週間
     それでも荒川は「ヤクルトか巨人以外は行かない」と言い張った。

     困った大洋サイドはひとつの条件を提示した。「大洋で2年間プレーすれば、巨人にトレード
    する」というのだ。しかし荒川は、この条件をも蹴った。
     そして渡米(ドジャースの練習に参加)した。

     5ヶ月のアメリカ生活を終えて帰国した荒川は、11月3日の夜、突如として大洋と入団契約を
    結んだ。ちょうど、大洋の交渉権が切れる日であった。なぜか。入団直後にヤクルトへの移籍
    いう条件を大洋が飲んだのである。そしてこの金銭トレードは実現したが、セントラル・リーグは、
    「非常に遺憾である」として、翌年の開幕から一ヶ月の出場停止処分を課した。さらに、新人選手
    の移籍を禁じる条項も規則に追加した。

     さて、念願のヤクルトに入った荒川だが、5月10日の巨人戦でデビューする。
    しかし、暴漢に教われて後頭部を強打した影響で左目視力の低下を招き、思うようなプレー
    が出来ず、手術までしたが、とうとう視力は回復しなかった。
     こうして荒川は、わずか4年でプロ生活を断念することになる。ドラフトについて、考えさせられる
    事件ではあった。


      戻る