ハンディ・キャップ


理奈 「ちょっとヘヴィな質問が……」
一平 「なんだい、そりゃ?」
理奈 「んとね、野茂くんて子からなんだけど。 「始めまして大阪に住んでる野茂です
     僕は小学6年なのですが将来プロ野球選手になりたいと思ってます。でも
     僕は生まれつき心臓が悪いのですが(心臓が悪いのに激しい運動しても
     異常がないんです)今までに障害をもってプロ野球選手になった方はいるん
     でしょうか?」だって。どうなんだろ?」
一平 「う〜〜ん……」
理奈 「難しいよね」
一平 「簡単ではない。が、いないわけではないんだ」
理奈 「え、そうなの? ハンデ持っててプロになった人なんているの?」
一平 「いる。驚くかも知れないが、かの江夏豊がそうだった。先天的な心臓疾患だった
    んだな。ただ、決定的なものじゃなかった。野茂くんと同じかどうかわからないが、
    野球をやっても特に支障はなかったんだな」
理奈 「ふぅん。じゃあ問題ないのね?」
一平 「でもない。江夏も一度、試合で倒れかけたことがあったんだ。延長戦で0−0。息も
    つまるような展開だな。江夏はここで、相手の打者に決勝ホームランを打たれてしま
    ったんだな。そこでガックリ。急に胸の痛みを覚えてマウンドでしゃがみ込んでしまっ
    た。あまりの緊張感に、障害のある江夏の心臓は耐えきれなかったんだね」
理奈 「え、でも江夏投手って、けっこう長く活躍したんじゃなかったっけか?」
一平 「そうだよ。この試合のあと、江夏は医師の診断を受けた。そこで医者に言われたん
    だね。「江夏くん、きみの心臓は悲鳴を上げてるんだよ。酒やタバコの刺激、賭け事
    での興奮、それにプロ野球選手としての緊張感。限界なんだ」と」」
理奈 「ふんふん」
一平 「そこで医者はこう提案した。「そこでだ江夏くん。これからも野球を続けたいなら、
    どれかひとつでもいいからやめたまえ。酒でもタバコでも」とね」
理奈 「ふぅん」
一平 「で、江夏はそれ以来きっぱり酒を断つことにした。以後、引退するまで一滴も飲まな
    かったそうだ」
理奈 「へぇ。でも逆に言えば、それさえ守ればプレーできたわけね」
一平 「江夏の場合はね。みんながみんな、こうだとは限らないよ。その人によって病状は
    違うわけだから。野茂くんの場合も、素人判断しないで、よく医師の指導を受けるこ
    と。これがいちばん大事だ」
理奈 「他にも、そういう障害を持ってプレーした人っているの?」
一平 「いるよ。そうだな、じゃあ、ある意味、江夏よりもたいへんだった選手を紹介しようか」
理奈 「もっとたいへん?」
一平 「もっと直接的な障害だな。身体障害者って言い方はまずいのかな? そういう人たち
    の話だ。古い選手だが大リーグにピート・グレイって選手だ」
理奈 「え、大リーグで、そういう人がいたの!?」
一平 「いたんだな。いわゆる隻腕というやつだ」
理奈 「せきわん…?」
一平 「つまり片腕ってことだ。このグレイは、乗っていたトラックのステップから転がり落ち
    たとき、そのままタイヤに右腕を踏みつぶされて、付け根から切断するはめになった
    んだな」
理奈 「……」
一平 「だけどグレイは野球が好きだった。プロになりたかったんだ。懸命に努力して野球を
    続けた。人に言えない努力もあっただろう。そしてプロテストに合格、見事にプロにな
    った」
理奈 「すごいね」
一平 「プロになったってだけでもすごいが、彼は大リーガーにもなった。立派という言葉だけ
    ではすまないね」
理奈 「でもちょっと信じられないね。いくらなんでも片腕大リーガーなんて」
一平 「まあな。実はちょっと事情もある。グレイが所属したのはブラウンズという、今ではもう
    ない球団だ。ここのオーナーが山師でね、とにかくウケ狙いばかりしたんだよ。例えば、
    身長が1メートルもない選手を使ったこともある。グレイを採用したのは、恐らくそういう
    理由だったろうね」
理奈 「…言葉悪いけど、見せ物ってことなの?」
一平 「そうだろうな。実際、エディ・ゲーブル…って、これはその小さい選手なんだけど、彼は
    1試合しか出場しなかった」
理奈 「やっぱムリだったのかな」
一平 「というか、出場停止になっちゃったんだ」
理奈 「なんで?」
一平 「コミッショナーが処置した。こんな見せ物的なものは許せない、とね。ブラウンズのオー
    ナーも、これには従わざるを得なかった。もともと、そういうつもりで使ったのだからね」
理奈 「なんだかエディがかわいそう」
一平 「そうだね。彼はきっともっとプレーしたかったろうに。ああ、話が脱線した。で、グレイだけ
    どね、そういう思惑もあってマイナーからメジャーに引き上げられた」
理奈 「でも、そんなんじゃあ通用しないんじゃないの?」
一平 「普通はな。ところがグレイは違った。通用したんだ」
理奈 「でも片腕じゃ打てないじゃないの」
一平 「打ったんだよ。右腕がないから右打席に入った。そこで、左腕を叩きつけるように振り下
    ろして打ったんだ。大根切りだな。大きなバウンドを狙った打法だ。グレイは、右腕こそな
    かったが、その分、脚は速かった。だから内野安打を狙ったわけで、それが的中したんだ
    ね」
理奈 「どのくらいやれたの?」
一平 「77試合に出場し、打率2割1分8厘、13打点を記録した。ホームランこそなかったが、
    一塁線や三塁線を抜く長打も放った。守れないから代打だけだったが、十分に戦力にな
    ったんだね」
理奈 「なんかすごいね」
一平 「ああ。だが、やはりムリがあったんだろうな。結局1年限りで引退してしまった。活躍した
    のは1945年のシーズンだ。つまり第二次世界大戦で選手が不足していた時代だった
    わけだな。だから、ということもあるだろう。終戦後、多くの選手が復帰したから、彼の出
    番はなかったと見ることも出来る」
理奈 「へー」
一平 「グレイはかなり昔の話だが、ぐっと最近の例もあるんだ。ジム・アボットというサウスポ
    ーがいた。この選手はアマ時代、つまるい大学時代から注目されていたんだ」
理奈 「やっぱ障害者は野球やってるってことで?」
一平 「まあ、それもある。だが、それ以前に、アボットは障害者でありながら大学の全米
    代表選手に選ばれ、その中でエースとして大活躍したんだな」
理奈 「なんかすごいんだけど、どんな障害だったの?」
一平 「なんと右手がなかった」
理奈 「ええ!? それでピッチャー?」
一平 「具体的には、右手の手首から先が生まれつきなかったんだ」
理奈 「でも、どうやって……」
一平 「投げる時はグラブを右脇に挟んで投げた。投げ終わると、目にも留まらぬ早業で、グラ
    ブを左手に持ち替えて、捕手からの返球を受けた」
理奈 「なんかすごいんですけど、でもバントされたりとかピッチャーゴロとかどうすんの?」
一平 「アボットはバント守備の名手としても有名だったんだ。ある時など、9人連続バントを処
    理して全部アウトにしたこともあったそうだ。ピッチャーゴロも、そりゃあ鋭い打球には対
    応しきれなかったろうけど、並みのゴロはまったく問題なかった」
理奈 「でも、メジャーで投げるなんて……」
一平 「投手としての実力は折り紙つきだった。150キロの速球を放ったからね。1988年の
    ドラフトでなんと1位指名された。アボットは喜んだね。そして指名してくれたエンゼルス
    のために投げ抜いた。89年に12勝12敗、90年に10勝14敗、91年に18勝11敗と
    大活躍した。さらに、93年にはヤンキースでノーヒットノーランまで記録している。一級
    品の投手だったことに疑いの余地はないね」
理奈 「メジャーはやっぱスゴイなあ。日本にはいないよね、そういうの」
一平 「まあね。でも、ちょっとしたのならある。巨人にいた堀内恒夫投手とか、大洋にいた権藤
    正利投手などは、子どもの頃の事故で利き腕の指先を少し欠損してしまったが、それでも
    ピッチャーとして活躍していたしね。古い選手だけど、巨人、中日に在籍した近藤貞雄投
    手は、ジープにはねられて側溝に落ち込み、そこに落ちていたガラスの破片で右手中指
    に深い傷を負ってしまう。戦後の混乱期、手当ては遅れて、ようやく手術を受けたものの
    神経を傷付けてしまい、中指はねじれ、曲がらなくなってしまった。それでも投げたから
    ね」
理奈 「こうしてみると、あまり障害は関係ないのかなあ」
一平 「一概にそうは言えないけどね。あくまで主治医の意見を尊重した方がいいだろう。
    ただね、アボットが引退記者会見の席でこう言ってるんだ。「私は野球選手だ。出来る限
    り最高の投手でありたかった。何かに打ち克とうと考えたことなど全くなかった」とね」
理奈 「意識してないんだね」
一平 「そう、そうなんだ。彼は確かに障害者ではあったが、本人は意識しなかった。障害うんぬ
    ん以前に、野球が好きだったんだね。だから、うまくいかない理由を自分の障害に押しつ
    けたくなかったんだろう。
     それと、あまり障害者という見方はしないでくれ、ということなんだろうな。野球選手なん
    だから。日本では、どうもこういうのを感動的なストーリーとして伝えたがるが、本人は迷
    惑だったろうな。野球選手として評価してくれ、と言いたかったんだろう。野球を通じて障
    害を克服した、なんて話にするのはやめてくれってことだろうね」
理奈 「野茂くん、そういうこと。障害をハンデにするかどうかはきみ次第ってことみたいよ」