・老雄健在

理奈−「こないだのペイジの話だけどさ、あの人は59歳で投げたんでしょ? 日本ではそういう人
     っていないの?」

一平−「あ、なるほど。あるにはある。さすがに59歳ってわけじゃないけどね」

理奈−「いくつくらい?」

一平−「まずその人物を紹介しよう。ひとりは浜崎真二という。広島の生まれで慶応大へ進み、中国の
     満州鉄道で投げている。その後、昭和22(1947)年に毎日へ入団した。その時すでに46歳だ。
     もうひとりは湯浅禎夫。鳥取の人で明治大に進学した。浜崎さんとはその頃からライバル関係
     だったんだね」

理奈−「あ、学生んときからのライバルかー。どっちが勝ってたのかな」

一平−「あ、これはもう湯浅投手の方だね。1923年に明治を初優勝をもたらしたのはこの人のおかげ
     らしい。1925年の秋のシーズンには立教戦で東京六大学初のノーヒット・ノーランを記録して
     いる。さらにこのシーズン、東大戦でもう一度ノーヒット・ノーランをやっている。このシーズンに
     記録した109奪三振は未だに記録だそうだ」

理奈 「それぞれどんな感じ?」」

一平 「それぞれじゃなくて、いっぺんに紹介できるんだ、これが」

理奈 「どゆこと?」

一平 「このふたり、なんと同じ試合で投げ合ったんだ」

理奈 「うわー。もしかして果たし状とかで申し合わせたとか」

一平 「どうも、それに近いらしいよ。当時、阪急で指揮を執っていた浜崎監督と、毎日を率いていた湯浅
    監督が、どっちからってこともないけど、「ワシ、投げるからあんたもどうや?」 「よっしゃ、やったる
    わい」ってな感じで話がまとまったらしい」

理奈 「それでいいの?」

一平 「あんまし良いとは思わないけど、消化試合だったらしいからね。詳しく言うと、昭和25(1950)年の
    11月5日。パシフィックでは、すでに毎日の優勝が決まっていたんだ。で、申し合わせたらしい」

理奈 「当時いくつだったの?」

一平 「浜崎真二は明治34年12月10日生まれというから、当時48歳10ヶ月。湯浅禎夫は明治35年10月
    2日生まれの48歳1ヶ月だ。59歳というペイジには及ばないが、今ではとても考えられない年齢だね」

理奈 「消化試合のファンサービスだったら、バッターひとりしか投げないとか、そういうんじゃないの?」

一平 「ところがそうじゃない。驚いたことに、ふたりともちゃんと先発している。結果は、浜崎の方が3回2/3を
    投げて被安打8、四球2、奪三振2で失点・自責点ともに5。打者21人に対して投球数72だった。
    一方の湯浅は、4イニング投げて被安打わずかに2、四球6、奪三振2で失点・自責点ともに2。打者19
    人に対して投球数79だった。浜崎の方は負け投手になっている」

理奈 「あーー、じゃあけっこう投げたんだ。でもさあ、監督が投げたりしていいの?」

一平 「普通はダメだと思うけど、当時は選手登録が緩やかだったのかも知れないな。巨人の藤本英雄が史上
    初の完全試合を達成した時も、相手の西日本パイレーツは、最後の打者として小島監督が代打を買って
    出て三振している」

理奈 「でも、もう50歳近いのに投げるなんてスゴイね」

一平 「そうだな。日本では現役の限界が35歳前後とされているからね」

理奈 「日本では、ってなに? アメリカじゃ違うとか」

一平 「日本よりは長いね。ダイヤモンドバックスのランディ・ジョンソンなんか、今年で38歳になるが、未だに
    160キロ近い剛速球を投げて、最多勝、最多奪三振の常連だ。かのノーラン・ライアンも、40歳過ぎて
    150キロの速球を放っていたよ」

理奈 「なんでこう違うんだろ?」

一平 「アメリカ人に言わせると、練習のし過ぎがまずいらしいね」

理奈 「あー、日本人はやりすぎる、と」

一平 「うん。キャンプでもシーズン中でも、あれだけ練習してしまえば疲れ切ってしまうだろう、と。若いうちなら
    まだしも、ベテランの域でもあれだけ投げたら肩だって使い切ってしまう、という意見らしいね」

理奈 「その見解は正しいのかな」

一平 「何とも言えないが、結果から見ると根拠がないとは言えないな。それと風習の違いもあるな。日本だと、
    ある程度の年齢になってしまうと、それとなく「後進に道を譲れ」と言われるらしいしね。どっちがどうとは
    言えないけども、日本でも長生き選手が見てみたいよね」


    戻る