・戦争当時の日本プロ野球−その3


一平−「じゃ、困った話だ。前回は主に選手や試合のことだったが、今度は球団そのものの話だ」

理奈−「球団そのもの? あ、お客さんが来なくて経営がうまくいかないとか、そういうの?」

一平−「そう、そんなもんだ。さらに言えば、お客どころか選手もいなかったからね。
     昭和17年には、黒鷲という球団が大和と改称してリーグ戦に参加した。これは、それまでイーグ
     ルスと呼ばれていたのを改名して黒鷲と言ってたんだけど、経営は後楽園球場だったんだ。
     だけどロクに客が入らなくなって、とうとう音を上げてしまった。そこを引き継いだのが大日本ビール
     という会社の高橋龍太郎社長だったんだけど、これも赤字を抱えてギブアップしてしまう」

理奈−「戦争中じゃあ景気のいい会社なんてないもんね」

一平−「それがそうでもない。戦争で肥える人も確かにいるんだ。軍需産業ってやつだな。この黒鷲の
     私設応援団のひとりに、大和工作所という軍需工場の社長がいたんだ。その佐伯謙吉に買い取
     られることになった」

理奈−「どこもそんな感じだったのかなあ」

一平−「そんなうまくはいかないよ。軍需産業が経営してくれれば軍部のお目こぼしも受けられるが、そう
     でない企業は苦労した。昭和19年のことだが、日本野球連盟は日本野球報国会と改名された。
     ただ名前が変わっただけじゃない。政府の非常措置要綱によって、戦力増強と直接関係の
     ない娯楽は一年間中止ということになったからだ。つまり、組織は残すが今後最低でも一年は
     野球やっちゃイカンというわけだ」

理奈−「…。じゃ選手はどうしたの? 戦争に行ったの?」

一平−「無論、戦地にも行った。若くて体力的にも優れているスポーツ選手だから当然だな。巨人にいた
     青田昇は陸軍航空隊にいて戦闘機乗りだったし、中日の杉下茂も陸軍にいて、中隊内の手榴弾
     投げで優勝したエピソードもある。また、巨人の水原茂は満州にいて、戦後すぐソ連の抑留されて
     シベリアのラーゲリ暮らしをした。が、それはあとで話す。

      でまあ、野球選手も何か軍需産業で働かなくてはならなかったわけだ。阪急とか阪神、南海など
     は、親会社が電鉄だから、自分のところで働けばいいわけだが、巨人とか名古屋(現・中日)など
     の新聞社系は困ってしまった。仕方がないので、巨人は東芝関係の会社、名古屋は理研に勤める
     ようになった。こういう選手を、軍需産業選手と呼んだんだそうだ」

理奈−「でもさあ、プロ野球の選手って野球をやりたくてプロに入ったわけでしょう? そんなことやらされた
     らイヤんなっちゃうんじゃないのかなあ」

一平−「その通り。特に巨人は、日本最初のプロ球団という自負もあったから、そういう選手が続出した。
     ムリもないよ。初の三冠王を獲得した中島治康監督をはじめ、伊藤健太郎、林清光、白石敏男、
     呉昌征などの主力選手が次々に退団してしまった」

理奈−「じゃもう解散するしかないじゃない」

一平−「最終的にはな。それでも、どうしても野球がやりたいという選手は残っていたんだ。
     辞める選手が続出して、大和と西鉄は解散してしまったが、巨人に産業(名古屋)、阪急、阪神の
     4球団が、解散したチームでまだ野球を続ける意志のある選手を引き取ったりした。
      結局、球団数はわずか6になり、選手は6球団すべて合わせても72名しかいなかった。ちなみに
     今の1球団あたりの支配下選手枠は70名だ。6球団合計で、今の1球団分という有様だ。
     巨人はさっき言ったように主力がごっそり抜けたし、産業(名古屋)にいたっては内野が組めないく
     らいになってしまった」

理奈−「最悪だね…」

一平−「それがもっと悪くなった。いよいよせっぱ詰まり、各球団ともにスタメンが組めなくなってきてしまった。
     どうにもならないので、とうとう公式戦は中止された。そこで、2球団を合同チームにして、日本野球
     総進軍優勝野球大会というご大層な名称で試合を挙行した。しかしそれでも限界だったんだね、
     同年(昭和19年)11月13日の試合を最後に、一時休止を発表した」

理奈−「そっか…。戦争に行った選手はどうなったの?」

一平−「じゃあ、沢村賞の元となった巨人の大エース・沢村栄治投手のエピソードを紹介しようか。
     彼は、絵に描いたようなラブロマンスがあって…」

理奈−「…ちょっとあんた、何の話してんのよ」

一平−「あれ、聞きたくないか? 暗い話ばっかだから少しは、と思って気を使ったんだけど」

理奈−「聞きたいけど」

一平−「よし。でまあ、昭和12年くらいから、彼のファンだった女の子がいたんだな。さる令嬢だったらしい
     が、これが試合のたびに後楽園の一塁側スタンドにあらわれた。たびたびだったもんで沢村も気づ
     いて、それからつきあいが始まり、見事にゴールインした。ふた昔前くらいの漫画だな」

理奈−「なのに…」

一平−「そう、戦死した。不運というか、沢村は3度も出征したんだ。一応、説明しておくが、当時の日本の
     兵隊は大半が徴兵だった」

理奈−「意味わかんない」

一平−「焦るな(^^;)。要するに軍人というのは職業軍人と徴兵された一般人の2種類あるということだ。
     今の日本で言えば、自衛官が職業軍人だ。で、沢村の職業は野球選手であり、職業軍人ではない。
     そういう人は、軍から招集されると兵隊になるという仕組みなんだな。これには任期があって、1年半
     とか2年とか、それくらいだ。それを全うすると、また一般生活に戻れる。ただ沢村の場合、その招集
     が3回もあったんだ」

理奈−「3回も?」

一平−「過去2回の出征では無事帰還したんだから一概に不運だとは言えないけど、それにしても3回だから
     なあ。で、その3回目の出征が昭和19年にあって、陸軍下士官として戦地に向かう途中、台湾の沖で
     アメリカの潜水艦に撃沈され戦死した。無論、遺体なんか見つからない」

理奈−「…」

一平−「ちなみに、この沢村とバッテリーを組んでいた吉原正喜捕手も同じ年に戦死している。吉原は、無事
     に戦地へは運ばれたんだが、参加したのがあの悪名高いインパール作戦。指導部の無茶苦茶な
     作戦立案と現地司令官の無謀な指導ぶりで、史上名高い最悪の被害が出た戦闘だ。吉原はこれに
     下士官として参加、戦死している。戦死の状況などまったくわからない。恐らく、病死乃至餓死だろうと
     言われている。そういうひどい作戦だったんだ」

理奈−「…」

一平−「理奈が黙っちゃったので続けるが、他にもひどい話はある。今度は球場施設のエピソードだ。
     球場は当時の高層建築物だったから、当然のように軍部に目をつけられた。後楽園球場の二階席には
     対空機関砲が設置され、電波探知機も備え付けられた。同じ東京では、神宮球場にも高射砲があった」

理奈−「…」

一平−「なぜ対空兵器が設置されるかというと空襲があるからだな。昭和19年も後半になると、野球は行なわ
     れなくなったから、そのグラウンドはサツマイモだのカボチャだのを植えた畑と化していた。
      本来ならそんなところを爆撃する意味はあまりないんだけど、一応、対空兵器はあったし、米軍は基本
     的に無差別爆撃をやってたから、これらの球場にも空襲があった。神宮球場などは、都民に配給するため
     の建築材料や炭や薪が大量に保存されていたんだ。そこに空襲、それも焼夷弾を大量に落とされたから
     たまらない、たちまちのうちに火の海だ。この「火の海」という表現は決して比喩ではないぞ。一週間近く
     燃え続けて、残ったのは鉄骨だけだったそうだ」

理奈−「焼夷弾て?」

一平−「日本の家は木製だ。それに火災を起こさせるための爆弾だ。具体的には、大きな爆弾の中に小さな
     ガラス製の爆弾が大量にセットしてある。そのガラス容器の中にはゲル状の可燃燃料が詰まってるんだ。
     液体なら流れてしまうが、ゲル状ならべっとりと建物に付着するので火がつきやすいというわけだ。
     人間てのは、こんなことばっか知恵がまわるんだな」

理奈−「…」

一平−「なにも東京だけでじゃない。大阪でも同じだ。甲子園も神宮と同じ運命になった。焼夷弾を山ほど落とさ
     れ、グラウンドは焼夷弾のガラス片が大量に突き刺さって使い物にならなかったそうだ。
      おまけに甲子園は、名物のバックネット裏の銀傘が軍部の目に止まり、銀傘の鉄を軍艦や戦車の材料
     にする、と言ってはぎ取られてしまった。海軍工廠の神戸製鋼所が買い取ったものの、その鉄はまったく
     使われず、戦後になって神戸製鋼の倉庫に、そのままの姿で見つかったという。ただの嫌がらせだった
     んじゃないか、と言いたいくらいだね」

理奈−「…戦争はいやだ」

一平−「そうだな。いくら不況でも戦争よりはマシだ」


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