〜ヤクルトスワローズ編〜
1980年代 〜好選手続出〜
近年でも、優良な外国人選手を獲得することで定評のあるスワローズですが、どうしたことか、この80年代は例外
だったようです。中にはキラリと光る選手もいたのですが、大半が使えず、早々に解雇してしまうことが多かった。
それにしても、少々忍耐が足りないかなと思えないでもありませんね。
サミュエル・パラーゾ(Samuel Perlozzo)
77年にツインズ、79年パドレスを経て、80年にヤクルト入りした時はまだ29歳。アメリカでの実績に見るべきもの
はなかったが、若いだけに期待が持たれた。スワローズとしては、かのヒルトン二世を期待したわけだが、パラーゾは
それに応えて見せた。海の物とも山の物ともわからない選手だったが、いざフタを開けて見ると、走攻守揃った好内野
手だったのだ。主にショートとセカンドを守ったが、他にサードも普通に守れた。成績を見ても、ヒルトンほどの鮮烈さは
ないものの、一年目としては充分に合格点を与えられるものだろう。盗塁成功率が低かったのが玉に瑕だが、それも
日本に慣れてくれば解消されると思われた。しかし、しかし。なぜかこの一年のみで解雇。理由をご存じの方、いらっ
しゃるかしらん??
帰国後はメッツ、マリナーズ、オリオールズでコーチを務めている。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ハラーゾ | 右右 | 遊 | 80 | ヤクルト | 118 | 473 | 70 | 133 | 43 | 15 | 32 | 30 | 13 | .281 |
デヴィッド・デントン(David Denton)
175センチ74キロと小柄で、日本人に混じってもほとんど目立たない体格。メジャー経験はなく、82年のユマ・
キャンプで入団テストを受けた。ショートやセカンドを守り、スイッチヒッターということもあり、日本向きではないかと
判断され、獲得した。球団はヒルトン二世を期待したし、彼自身、ヒルトンのようなタイプを目指せば成功したかも
知れない。しかし、ひょんなことが彼の目を曇らせた。3月、出場したオープン戦で、見事にホームランした彼は驚
いた。なんと賞金が出たのである。地方球場で開催されるオープン戦は、様々な特典がつくことも多いが、これに
デントンは魅了されてしまう。「日本ではホームランが喜ばれる」。そりゃアメリカだってホームランは喜ばれるだろ
うが、オープン戦はもちろん公式戦にだっていちいち本塁打に賞品や賞金はつかない。当たり前だ。ところが日本
は違う。コツコツと単打を稼ぐよりはホームランの方がいい。まさしく一発に賭けたのである。当然、これは大失敗。
打撃フォームを崩してしまい、一軍開幕を迎えることも出来なかった。フォーム改造を図るとともにに二軍戦に出場
していたが、こっちではそこそこの成績を残している。そこで一軍に引っ張り上げるとこれがダメ。心を入れ替えて
虚心坦懐、基本に戻ってやり直そうとしたものの後の祭り。一度崩した調子は最後まで戻らなかった。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
デントン | 右両 | 遊 | 82 | ヤクルト | 42 | 82 | 8 | 17 | 5 | 1 | 6 | 17 | 3 | .207 |
ラリー・ハーロー(Larry Harlow)
75年、オリオールズで大リーグ入り。79年のシーズン途中でエンゼルスにトレードされ、82年にヤクルト入団。
左の大物打ちという触れ込みで来日したものの、バットはサッパリ。一発長打もあり、俊足巧打という前評判はどこ
へやら、日本人投手に手も足も出なかった。もっとも、長打力もあり巧打も出来、肩が強くて脚も速い。そんな選手
が本当にいたとしても、大リーグが手放すわけがないのである。ヤクルトをガッカリさせたのはバッティングだけでは
なく、守備もダメだった。打球を見失う、ファンブルする、落球するという凡ミスが多く、見られたザマではなかった。
7月20日でクビ。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ハーロー | 左左 | 外 | 82 | ヤクルト | 42 | 110 | 11 | 18 | 12 | 4 | 10 | 34 | 2 | .164 |
ダニエル・ブリッグス(Daniel Briggs)
75年のエンゼルスを皮切りに、インディアンス、パドレス、エクスポス、カブスを渡り歩き、82年に来日
した。不振でクビになったハーローに代わって7月に入団したものの、パッとした成績は残していない。
しかし、8月6日には1試合3ホーマーするなど、一発長打と固め打ち出来る魅力があると判断、翌年も
契約を勝ち取っている。だが、そのチームの期待を意識しすぎたのか、83年は一発狙いが過ぎたようで
思ったように打率が上がらず、ホームランも増えなかった。どこと言って取り柄はなく、これなら日本人の
若手を育てた方が得策と判断したのか、2年目で解雇した。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ブリッグス | 左左 | 外 | 82 | ヤクルト | 53 | 200 | 22 | 48 | 24 | 6 | 13 | 41 | 1 | .240 |
83 | 〃 | 123 | 381 | 40 | 102 | 44 | 12 | 22 | 72 | 2 | .268 | |||
計 | 2 | 176 | 581 | 62 | 150 | 68 | 18 | 25 | 113 | 3 | .258 |
クリストファ・スミス(Clistopher Smith)
エクスポス、ジャイアンツを経て、84年にヤクルト入りする。スイッチヒッターの利点を生かし、率も長打も
期待されていたが、まったく裏目に出た。長打力も巧さも物足りず、すべての面で力不足だった。それでも
スワローズはまだ期待を掛けており、翌年も残留させたものの、前年よりさらに成績が落ち、スタメンにすら
入れない有り様だった。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
スミス | 右両 | 外 | 84 | ヤクルト | 52 | 140 | 9 | 30 | 15 | 5 | 12 | 17 | 0 | .214 |
85 | 〃 | 16 | 38 | 5 | 6 | 3 | 0 | 3 | 6 | 1 | .158 | |||
計 | 2 | 68 | 178 | 14 | 36 | 18 | 5 | 15 | 23 | 1 | .202 |
ロマン・ビーン(Roman Beene)
83〜84年、ブリュワーズを経てスワローズ入り。深刻な投手不足に、ヤクルトがシーズン途中で獲得した
33歳の投手。スミスの不振もあり、代わって一軍に引き上げられた。パッとした成績ではないが、それでも
5試合に先発し、そこそこ試合は作っている。しかし右肩を故障してファーム落ち、9月に治療のため帰国して
そのまま解雇された。
選手名 | 投打 | 年 | 所属 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 回 数 | 完投 | 完封 | 四死球 | 三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
ビーン | 右右 | 85 | ヤクルト | 8 | 2 | 2 | 0 | 22.3 | 0 | 0 | 17 | 15 | 19 | 18 | 7.25 |
マーク・ブロハード(Mark Brouhard)
79年に3Aで本塁打、打点の二冠王を獲得、翌80年にはメジャー昇格を果たした。ヤクルト入りしたのは
86年で、レギュラーメンバーに名を連ねてはいたものの、満足できる成績ではなかった。それでも、まだ30
歳という若さと、日本への順応性を期待して翌年も残留。思惑通り、87年は開幕直後から順調に打ってい
たが、かのホーナーに押し出される格好で二軍行きを通達される。それを不満とし、何度か球団と話し合い
を持ったものの、結局、物別れに終わり、退団、帰国した。
あのホーナーのことを考えるとやむを得ないかなとも思うのだが、開幕後の好調さを思うと、少々もったい
ない感じもする。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ブロハード | 右右 | 外 | 86 | ヤクルト | 129 | 480 | 59 | 124 | 64 | 21 | 33 | 104 | 4 | .258 |
87 | 〃 | 11 | 29 | 4 | 11 | 5 | 2 | 3 | 4 | 1 | .379 | |||
計 | 2 | 140 | 509 | 63 | 135 | 69 | 23 | 36 | 108 | 5 | .265 |
ジェームズ・ホーナー(James Horner)
ファンにはボブ・ホーナーという名前の方が記憶にあるだろうが、ボブはミドルネームのロバートの愛称で、
ファーストネームはジェームズである。アリゾナ州立大で活躍した後(日米大学野球で全米選抜に選ばれ、
来日している)、78年にドラフト1位でブレーブス入りし、いきなり大リーグ入りする。その年、89試合の出場
にも関わらず23本塁打して新人王に選出された。以後、一度もマイナー落ちすることなくレギュラーを守り続
け、4番を打ち、9年間で215ホーマーした巨砲。
なぜこんな超大物が来日したのかというと、例のFA制度のせい。ホーナーは、ブレーブスの出した3年
契約、総額450万ドルを不服として、他球団と交渉を持った。しかし、高年俸と持病の腰痛を問題視して
メジャー各球団は二の足を踏んだ。そこを漁夫の利でかっさらったのがヤクルトというわけである。
来日したのは5月で、初出場は5月5日こどもの日の神宮球場、阪神戦。日本中の野球ファンの注目を集
めたその試合で、いきなり来日第一号をかっ飛ばした。「さすが、バリバリのメジャーリーガー」と、感心する
ファンを後目に、翌日はなんと3発もスタンドに叩き込んで見せた。これにはファンだけでなく相手の阪神も
唖然。恐れおののいて、第三戦は徹底した警戒で3四球で逃げ回った。ところが、その次の広島戦(広島)
でも4号、5号と楽々放り込んで、実力の違いを見せつけたのだ。
この強力な打棒だけでもヤクルトは狂喜乱舞だったが、それ以上に彼が見せてくれたのがメジャー・スピリ
ッツである。全力疾走するのだ。例え当たり損ねの内野ゴロでも、一塁へは全力で走る。当たり前のように
思えるが、当時、日本の主力打者たちは「ピッチャーゴロで一塁へ走るなんてバカバカしくて」と言わんばかり
の走塁を見せていたのだ。そこに、実績充分、プライドの塊であるメジャーリーガーが見せた、手抜きのない
走塁。ましてホーナーは、185センチ97キロの巨漢(というより小太りだった)が、内野ゴロで一塁へ駆け抜
ける走塁に、目から鱗が落ちた。
結局、93試合出場の341ホーマーを記録。これでフル出場していればと悔やまれたが、懸念されていた
右膝の持病が出て、スタメンから外れる試合もけっこうあった。それと残念だったのは、ホーナーも全力疾走
しなくなってしまったのだ。膝の怪我のせいということもあろうが、いかにホーナーが見本を見せようとも、気力
のない走塁を繰り返すチームメイトに嫌気が差した、とも言われている。それだけが原因だったとは思えない
が、ホーナーは翌年にはメジャー(カーディナルス)に復帰している。ただ、この年はわずか60試合の出場で
3ホーマー、打率.257に留まり、この年で引退している。ケガがかなり重かったのかも知れない。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ホーナー | 右右 | 三 | 87 | ヤクルト | 93 | 303 | 60 | 99 | 73 | 31 | 51 | 65 | 0 | .327 |
ロバート・ギブソン(Robert Gibson)
79年にプロ入りすると、83年にブリュワーズでメジャー昇格を果たした。87年にメッツへ移り、88年にヤクルト
へ入ることになる。ケガで帰国したハーパーの代わりに獲得したのが5月のことだ。しばらくファームで調整し、初登
板したのは6月14日。奇しくもこの日の巨人戦は、呂明賜もデビュー戦だった。台湾から鳴り物入りで入団した呂に
対し、ギブソンは初打席初本塁打を許してしまうこととなる。それでも、先発投手の絶対数が足らなかったスワローズ
でローテーション投手として投げ続けた。だが、いかんせん実力の方はもうひとつで、7勝したものの11敗のおまけ
がついた。防御率4.87も、セントラルで規定投球回数に達した投手の中で最下位だった。
選手名 | 投打 | 年 | 所属 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 回 数 | 完投 | 完封 | 四死球 | 三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
ギブソン | 右右 | 88 | ヤクルト | 23 | 7 | 11 | 0 | 140.3 | 4 | 0 | 70 | 80 | 83 | 75 | 4.87 |
ダグラス・デシンセイ(Douglas Decinces)
70年にプロへ入り、73年にオリオールズで初メジャー。82年エンゼルス、87年カーディナルス。この間、サード
のレギュラーを獲得し、メジャー通算14年間で237ホーマー(打率.259)した巨砲。79年にはWシリーズにも出場
している。来日した時にはもう38歳で、さすがにとうがたっていた。
とはいえ、実績14年の大リーグ選手だけあって、随所に際立った働きを見せた。開幕の巨人戦では、いきなり桑田
から来日第一号をレフトスタンドに叩き込んだ。このホームランは、東京ドーム開場第一号本塁打である。他にも、2
試合連続で逆転サヨナラホームランして見せたり、ここぞという時には頼りになった。また、守備も一級品で、派手な
ところはなかったが、守備範囲に飛んできた打球は堅実にさばき、危ういところがなかった。それでも、一年を通して
見れば、成績的には今ひとつだったし、年齢的な限界もあって、フル出場は難しかった。スワローズは契約更新しな
かったが、本人も続ける意志はなかったらしい。帰国後は不動産会社を開き、社長に納まっている。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
デシンセイ | 右右 | 三 | 88 | ヤクルト | 84 | 291 | 39 | 71 | 44 | 19 | 32 | 63 | 1 | .244 |
テリー・ハーパー(Terry Harper)
73年に、投手としてブレーブスにドラフト16位指名されて入団する。76年に外野手転向、その後ブレーブス、
タイガース、パイレーツを経て、88年、33歳の時にヤクルト入りした。開幕早々、僅か10試合に出場しただけで
右膝を故障、帰国してしまう。アメリカで治療に専念していたが、結局そのまま帰ってこなかった。従って、残って
いる成績は10試合分のみで、これではどんな選手だったのか想像しようもない。実際、筆者もあまりよく憶えて
いない選手である。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ハーパー | 右右 | 外 | 88 | ヤクルト | 10 | 35 | 5 | 5 | 6 | 2 | 6 | 6 | 0 | .143 |
ユアン・アイケルバーガー(Juan Eichelberger)
75年、パドレスのドラフト1位。78年にメジャー初昇格すると、81年からはローテーション入りし8勝、翌82年にも
7勝した。その後、83年にインディアンス、88年はブレーブスに移籍し、89年にスワローズ入りする。
187センチ92キロの堂々たる体格の黒人投手で、いかにもパワー・ピッチングを予感させた。案の定というべきか、
かなりの制球難で首脳陣の手を焼かせた。開幕第2戦にリリーフとして登板するも、いきなりサヨナラ暴投という散々
な出来だった。それからも何度かチャンスはもらったがいずれも活かせず、とても通用するとは思えなかった。
5月20日付で早々に解雇。
選手名 | 投打 | 年 | 所属 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 回 数 | 完投 | 完封 | 四死球 | 三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
アイケルバーガー | 右右 | 89 | ヤクルト | 8 | 0 | 3 | 0 | 7.3 | 0 | 0 | 7 | 6 | 6 | 6 | 7.36 |
ラリー・パリッシュ(Larry Parrish)
72年にエクスポス入り。ドラフト外ながら、74年には早くもメジャーに上がっている。以後、レンジャース、レッドソッ
クスで15年間大リーグで活躍を続けた。36歳になった89年にヤクルト入りする。
メジャーのレギュラーで、大物打ちだった実績は伊達ではなく、日本でもそのパワーを遺憾なく発揮した。一年目から
ホームランを連発し、89年にはフル出場して42本塁打し、見事にホームラン王を獲得、同時にベストナインにも選出
されている。なのに、驚いたことにこの一年であっさりクビにされてしまう。緻密な野球を目指していた野村監督には、
長打力はあるが三振も多く、荒っぽい打撃は好みではなかったようだ。それにしたって本塁打のタイトルホルダーを
いきなり解雇というのもなあ(^^;)。
そんなわけで、よくわからん理由で解雇された実力者を他球団が放っておくはずもなく、早速、タイガースが雇い入
れた。阪神でも順調に打ち続けてはいたが、その裏、左膝の古傷がぶり返してきていた。8月中旬、その左膝を痛め
てプレー出来る状態にないとして、なんと引退を表明してしまう。その時点で28ホーマーしており、ホームランダービー
のトップを走っていた。涙ながらに記者会見したパリッシュは、球団の慰留も振り切って引退、帰国した。
アメリカへ帰ると、92年からマイナーの監督を勤め、98年にはデトロイト・タイガースの監督になっている。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
パリッシュ | 右右 | 三 | 89 | ヤクルト | 130 | 493 | 75 | 132 | 103 | 42 | 40 | 129 | 2 | .268 |
90 | 阪 神 | 105 | 381 | 56 | 95 | 80 | 28 | 48 | 98 | 0 | .249 | |||
計 | 2 | 235 | 874 | 131 | 227 | 183 | 70 | 88 | 227 | 2 | .260 |
郭 建成(かく けんせい)
88年のソウル五輪で、台湾代表に選ばれている。スワローズ入りしたのは89年だが、外国人枠の問題で
この年は二軍暮らし。そのイースタンリーグでは、12セーブポイントを挙げて、最優秀救援投手に選出された。
それが評価され、90年には晴れて一軍入りした。コントロールは良かったが、思ったより球速はなく、変化球
も平凡。二軍レベルでなら充分に通用したが、一軍に通用する力はなかった。結局、日本では未勝利のまま
帰国した。
92年にはノンプロの時報に入団、主戦投手として活躍、そのままプロ球団となった時報でも投げ抜いた。
しかし97年に、台湾プロ野球賭博に絡む八百長で逮捕され、実刑判決を受けたのは寂しい話だ。
選手名 | 投打 | 年 | 所属 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 回 数 | 完投 | 完封 | 四死球 | 三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
郭 | 右右 | 89 | ヤクルト | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | − |
90 | 〃 | 17 | 0 | 4 | 0 | 60.0 | 0 | 0 | 19 | 30 | 39 | 33 | 4.95 | ||
91 | 〃 | 4 | 0 | 0 | 0 | 5.0 | 0 | 0 | 1 | 2 | 5 | 5 | 9.00 | ||
計 | 2 | 21 | 0 | 4 | 0 | 65.0 | 0 | 0 | 20 | 32 | 44 | 38 | 5.26 |