〜日本ハムファイターズ編〜


 1980年代   〜念願の優勝、実る地道な補強〜

   不人気のパ・リーグながら、観客動員ではファイターズは善戦を続けました。少年ファイターズ制度など、
  地道なファン獲得、底辺の拡大が実りつつあったのです。順位的に低迷を続けながら、補強を重ね、育てた
  若い芽が伸びて、81年には見事に優勝を飾りました。以降、ファイターズはパシフィックの強豪のひとつに
  数えられるようになりました。そのチームの中心となるべく集められた外国人選手たちは…。


  トミー・クルーズ(Tommy Cruz)

   ファイターズファンにとっては忘れられない選手のひとりだろう。来日後、大活躍したが、意外なことに
  メジャー経験は少ない。73年カーディナルス、77年ホワイトソックスで合計7試合に出場したのみ。
  79年に3Aで首位打者を獲得すると、ファイターズに目をつけられ翌年入団する。
   このクルーズ、メジャーでは「クルーズ3兄弟」として有名で、アストロズのレギュラーだった長兄の
  ホセ、後に巨人入りするヘクターもメジャーではレギュラー格だった。そんな中、間のトミーだけはパッと
  しなかったのだが、日本へ来たのが大成功した。

   初年度からいきなり3割をマーク、通算でも.310を記録する。81年の優勝は、同僚・ソレイタとともに、
  打線の中核として大車輪の活躍だった。長打力はソレイタにひけを取ったものの、6年で120ホーマー
  だし、極めて勝負強い打撃も魅力だった。
   根っからのプエルトリカン、そしてガッツマンだった。顔面に死球を食らって大出血、担架と救急車で
  球場を後にしたこともある。そして驚くべきは、顔を7針縫ったにも関わらず、なんと翌日の試合にスタメン
  出場、おまけに3安打の猛打賞を記録したことである! これにはチームメイトたちも顔色なし。クルーズ
  がファイターズでの地歩をがっちり固めたシーンだったろう。時の監督、大沢親分のお気に入りだったこと
  も伝えられるが、それはこのエピソードから見ても十分に理解できる。

   84年には.348の好打率をマークしたものの、この年はかのブーマーが三冠王を獲得した年で、.355
  と打ちまくっており、惜しくも首位打者は逃した。翌85年限りで退団したが、この年も3割をクリアしており、
  惜しまれながらチームを去った。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
クルーズ 左左  外 80 日本ハム 127  488  62 151  84   26   22  44   4 .309
      81  〃 116  465  65 138  75   18   34  36   2 .297
      82  〃 125  477  55 128  67   17   25  39   1 .268
      83  〃 113  434  34 139  74   11   42  32   2 .320
      84  〃 124  489  66 170  96   29   33  37   0 .348
      85  〃 107  427  63 137  70   19   32  32   0 .321
  計         712 2780 345 863 466  120  188 220   9 .310

  トニー・ソレイタ(Tolia Solaita)

   クルーズとの最強外国人コンビを組んだのがソレイタ。彼こそは元祖「怪人」である。今でこそ「○○の
  怪人」(例:カブレラを「カリブの怪人」とか言うでしょ)とよく言われるが、その祖はソレイタの「サモアの怪人」
  だと言ってよかろう。とにかく、その圧倒的なパワーと水牛のように頑健な体、そして魁偉な容貌と合わせて、
  彼こそ「怪人」だったろう。

   68年にヤンキース昇格以降、ロイヤルズ、エンゼルス、エクスポズ、ブルージェイズと渡り歩き、80年に
  日本ハム入り。初年度からいきなり45ホーマーを飛ばして不動の4番に固定される。打率こそ低かったが、
  ファイターズのホームラン不足は一気に解消されてしまった。以後、在籍4年間すべて30発以上を記録する。
  翌年には懸念の打率も3割を達成、おまけに44ホーマー、108打点で二冠王に輝いた。その打棒は、この
  年の日本ハム初優勝の原動力となったのだ。
   1年目、2年目と100三振を記録したの彼らしいが、3年目以降はそれすら減らした。また、ソレイタらしい
  記録としては、80年にマークした4打数連続本塁打だろう。しかも、この年はそれを2回も記録したのである。
  4打席ではなく4打数なのは間に四死球が入るからだが、それが死球だったのも彼らしいか。ちなみに、
  ひとりで2度(それも1シーズンで!)も4打数連続本塁打を記録したのは、当然ソレイタしかいない。

   結局、4年間の在籍、36歳の年で退団、引退する。その後、日本にびっくりするようなニュースが届く。
  ソレイタは退団後、帰国していたのだが、90年の2月に土地絡みのトラブルで大喧嘩、挙げ句、拳銃で
  射殺されるという波乱の人生を終えている。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ソレイタ 左左  一 80 日本ハム 125  447  62 107  95   45   74 121   0 .239
      81  〃 128  454  86 136 108   44   87 102   0 .300
      82  〃 130  449  65 126  84   30   73  77   2 .281
      83  〃 127  436  64 110  84   36   74  71   0 .252
  計         510 1786 277 479 371  155  308 371   2 .268

  マーシャル・ブラント(Marsall Brant)

   ソレイタの後任として期待された長距離砲。79年に3AでMVPになると80年にヤンキースへ昇格。
  83年までアスレティックスも在籍して、翌年ファイターズ入りする。同僚でアベレージヒッターである
  クルーズが左打者であることから、右のパワーヒッター・ブラントの加入は理想的だったろう。それが成功
  していれば、だが。
   日本流の変化球投手、日本のストライクゾーンへの対応が出来ず、さっぱり打てなくて5月を待たずして
  ファーム落ち。その後も上がったり下がったりで、結局、期待されたホームランはわずか16本。この年、
  クルーズは29本も打っており、まったく勝負にもならなかった。あっさり見限られて、翌年はパターソンの
  控えという形で、第三の外国人選手となった。さらに出番が減り、当然、成績も伸びなかった。もちろん
  契約延長の話は出ず、85年限りで整理された。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ブラント 右右  一 84 日本ハム  86 237  32  55  41   16   24  64   0 .232
      85  〃  32 119  16  32  17    9   12  25   0 .269
 計         118 356  48  87  58   25   36  89   0 .244

  マイク・パターソン(Mike Patterson)

   ソレイタの後釜だと思っていたブラントがまるで使えず、頭を抱えていた84年秋。シーズン終了後に、
  「テストを受けさせてくれ」と言う黒人選手がやってきた。パターソンである。調べてみると、アスレティックス
  とヤンキースに在籍していたらしい。言われた通りテストしてみると、そこそこスイングは鋭く、割といける
  のではないかと判断した。しかも自費で来日してきたというやる気も買った。

   ところが、やっぱり自費でテストに来る程度の選手だったようで、打率も低空飛行なら長打力も期待はずれ。
  どうにもならないということで、先のブラントと、調子の良い方を1軍に引っ張り上げて確かめながら起用する
  という、なんともしまらない結果となった。無論、この年でクビ。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
パターソン 右左  外 85 日本ハム  88 280  33  63  44   16   25  48   5 .225

  パトリック・パットナム(Patrick Putnam)

   77年、24歳でメジャーに初昇格(レンジャース)すると、79年には18ホーマーを飛ばして打線の中核を
  為した。その後、マリナーズ、ツインズを経て86年にファイターズ入りする。現役バリバリのメジャーリーガー
  で、長打力もある。首脳陣の期待も大きかった。

   来日初年度は、その期待に応えたと言っていいだろう。かのソレイタに比べれば不足だが、それでも25
  ホーマー、78打点はチームトップの成績。また、最多勝利打点のタイトルも獲得し、立派に主砲の役割を
  果たした。が、2年目はどうしたのか、成績ががた落ちする。幸か不幸か、この年はチームが好調だったこと
  もあり、パットナムの不振が目立つ格好になり、この年で解雇された。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
パットナム 右左  一 86 日本ハム 128 483  61 138  78   25   53  92   0 .286
      87  〃 115 382  39  92  43   12   35  59   0 .241
  計         243 865 100 230 121   37   88 151   0 .266

  アンソニー・ブリューワ(Anthony Brewer)

   ブリューワも日本ハムで大活躍した優良外国人選手だが、クルーズと同様に、これまたメジャーでは
  パッとしなかった。メジャーに上がったのは84年(ドジャース)で、わずか24試合に出場したのみ。あとは
  マイナー生活である。来日前の85年も3A暮らしだった。

   日本で1軍、それもスタメンのチャンスをもらったブリューワは、持ち前の力強いバッティング(これがもう、
  本当に思いっきりバットを振る人なんだ(^^;))が開花し、中心打者として打ちまくった。初年度は、その
  スイングの割には本塁打が少なかったが、その分、意外にも(?)打率は.321を残した。ホームランが
  少ないことを懸念する声が一部に出ると、それではとばかりに翌年は35ホーマーしてみせる意地も合わせ
  持っていた。しかも打率だって3割をクリアしている。文句のつけようのない活躍だった。この87年はオール
  スター戦にも出場し、ベストナインにも選出されることになり、ブリューワにとっても最良の年だった。
  おまけに、2年ともほぼフル出場なのは立派である。

   ところが、好事魔多し。3年目のキャンプで腰を痛めたブリューワ。これが意外に重傷で、とうとうこの年
  はシーズンを通して棒に振ることになる。だが、前2年の実績を考えればブリューワは切りがたい。球団は
  1年働けなかった彼を解雇にはしなかった。
   これに恩義を感じたブリューワ、4年目も打ちまくり、チーム三冠を記録して、その打棒の健在ぶりを示した。
  最後の年は、やや成績を落としたものの解雇されるほどではない。年齢も33歳で、まだやれたと思うが、
  持病になりつつあった腰の不安もあり、この年限りで引退した。

   なお、帰国後のブリューワは、カリフォルニアのパロアルト高校野球部のコーチを務め、95年には全米
  高校選抜のチーム監督となって来日している。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ブリューワ 右右  外 86 日本ハム 130  511  78 164  68   20   51  71   1 .321
      87  〃 129  478  85 145  98   35   72  74   2 .303
      88  〃   0    0   0   0   0    0    0   0   0   −
      89  〃 130  477  70 146  73   27   73  79   8 .306
      90  〃 109  407  65 120  63   17   59  51   4 .295
  計         498 1873 298 575 302   99  255 275  15 .307

  ブライアン・デイエット(Brian Dayett)

   この程度の成績で、なんで4年も生きながらえたのかと思うだろうが、彼はほとんどは第三の外国人扱い
  だったからだ。アメリカでは、3Aで本塁打、打点の二冠をとったり、メジャーでカブス時代には97試合も
  出場したりと、そこそこだったのだが、日本では今ひとつだった。
   来日初年度はもちろん期待された。しかし、いきなり脚を故障してしまい、満足に試合に出られない有り様。
  これじゃあダメだってんで、すぐに代役・イースラーが入団し、たちまち控え扱いである。ところが、そのイース
  ラーまで故障する非常事態で、デイエットにもそれなりに出場機会はあったが、はっきり言ってどうってこと
  ない成績。筆者にもほとんど記憶にない選手(名前くらいは憶えていたが)。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
デイエット 右右  外 88 日本ハム  35 115  11  28  13    4   15  27   0 .243
      89  〃  84 313  39  87  41   14   40  63   2 .278
      90  〃  15  53   7  11  11    3    9  14   3 .208
      91  〃  11  42   2  14   1    0    2   8   1 .333
  計         145 523  59 140  66   21   66 112   6 .268

   マイク・イースラー(Mike Easler)

    メジャー選手ではある。79年には、かのデーブ・パーカーとともにパイレーツでWシリーズにも出場して
   いるのだ。しかし、なかなかレギュラーの機会はなかったらしく、とにかく移籍が多かった。アストロズに
   昇格したあと、エンゼルス、パイレーツ、レッドソックス、ヤンキース、フィリーズ、再びヤンキースという
   履歴を持つ。
    日本へは88年にシーズン途中の来日である。言うまでもなく、デイエットのケガと不振の穴埋めとして
   ということだ。

    この選手はデイエットと比べてとても印象的な選手だった。というのも、非常に個性的なスイングをして
   いたからだ。極端なアッパーで、まるでゴルフのような振りだったのだ。アメリカでもゴルフ・スイングとして
   有名だったらしい。こりゃあ典型的なパワーヒッターで、長打力もあるかも知れないが、三振もすごいので
   はないかと思ったものだ。実際、来日初打席はいきなり強烈なホームランを放っている。
    ところがホームラン数は意外に伸びず、期待していなかったアベレージの方が3割を突破して、首脳陣
   を苦笑させた。しかし、これなら日本でも十分通用するとして、デイエットを2軍に落としてイースラーを
   指名打者として固定した。が、活躍したのは1年目だけで、翌年はあちこち故障、控えのデイエットを
   1軍に上げざるをえない状態が多くなってしまった。

    個性的だし、日本にも順応してきたので、まだ活躍できると思ったが、2年で解雇。やはりケガが怖か
   ったのか。しかし個人的にはとても面白い選手だった。目一杯長く持ったバットを思い切り振り上げて、
   フォロースルーで右手に持ったバットを突き出すようなスイング。打てなくても、その打席を見ているだけ
   で楽しかった記憶がある。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
イースラー 右左  外 88 日本ハム  97 355  47 108  58   19   45  69   1 .304
      89  〃  45 162  19  48  32    7   24  39   3 .296
 計         142 517  66 156  90   26   69 108   4 .302