〜日本ハムファイターズ編〜


 1960年代   〜東映フライヤーズ期〜

   最近は低迷の長いファイターズ。しかし、その昔は、「下町の暴れん坊」の異名をとる、パシフィックの名物
  チームでした。かの映画会社東映が持っていた球団で、今は亡き東京スタジアムに本拠地を置いていました。
  選手も、張本、大杉、大下、土橋に尾崎、種茂など、一癖も二癖もある個性派のサムライ揃い。そもそも、
  オーナーの大川博氏からして根っからのワンマン。当然、チームも、よく言えば自由闊達、逆から見ればまるで
  統制がとれていませんでした。従って、チームが乗れば、とんでもない力を発揮するが、そうでない時は情け
  ないくらい勝てないという、一種バクチのような面白いチームでした。
   さて、そんな中に飛び込むことになった外国人選手たち。彼らの運命やいかに…。


  ホセ・中村(Jose Nakamura)

   東映として(つまり日本ハム系)初めての外国人選手。それも、キューバ出身でメキシコ国籍という
  日系人。当時、各球団ともに外国人選手による補強が積極的に行われていたが、なぜか東映だけは
  出遅れていた。スタンレー橋本と同時に入団したサウスポーだが、1軍での実績はゼロで、ほとんど
  記録に残っていない。背番号18というのがわかる程度で、速球派だったらしいが、それ以上は不明。
   現在の書籍でも、ほとんどが無視されている(というか、不明なのだろう)存在。  

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
中  村 左左 57 東映   0  0  0  0   0   0    0   0   0    0   −

  西田  亨(Touru Nishida)

   非常に興味深い選手。成績一覧を見てもらえばわかるが、成績が飛び年なのだ。一時辞めて再入団
  するということを繰り返しているようだ。選手数が少なかったのだろうが、それだけ西田に素質があったの
  だろう。
   アメリカ国籍の日系人で、ハワイ出身。アメリカでのプロ経験はない。速球と大きなカーブで勝負する
  本格派だったらしい。52〜53、55年と巨人に在籍した当時はパッとしなかったが、58年に東映入り
  するとその実力が開花した。16勝をあげて、その年のオールスターにも出場している。19敗と負けが
  多いが、防御率は2.30と一流である。
   59〜61年までは、愛称のビル西田で登録している。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
西 田 右右 52 巨人  21  3  1  75.3   2   0   28  30  42   27 3.20
    55  〃  10  1  2  38.6   1   1    8  21   9    9 2.08
    58 東映  48 16 19 288.6  16   5   72 184  91   74 2.30
    60 毎日   9  1  0  29.6   1   0    6   5  13   10 3.00
    61  〃  32  9  6 112.6   2   0   38  54  50   42 3.35
    63 国鉄  30  1  6  76.6   0   0   32  47  26   22 2.57
 計       150 31 34   621.6  22   6  184 341 231  184 2.66

  ロバート・アレキサンダー(Robert Alexander)

   東映としては初めてのメジャー経験者である。オリオールズ、インディアンスに在籍していた。
  来日したのは7月だったし、年齢も37歳と高齢で、体力的にも多くは期待できなかった。
   メジャー経験者にありがちな「メジャーの誇り」をひけらかし(まあ、当時の日本球界なら致し方ある
  まいが)、あらゆる意味で日本の流儀に従わなかった。本人も観光旅行気分だったのかも知れない。
  成績もこの程度であるし、年齢的にも期待できず、また本人もやる気はなかったので、この年限りで
  解雇された。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
アレキサンダー 右右 59 東映  13  2  5 52.3   1  1   15  34  29   27 4.58


   スタンレー・橋本(Stanley Hashimoto

    ホセ中村とともに入団した東映初の外国人選手。ハワイ出身の日系人だが、レッドソックスでの
   プレー経験があった。そっちは引退し、故郷のハワイで小学校の教員をやっていたところを東映に
   誘われて入団。

    初年度は、実戦から離れていたこともあってか低打率に喘いだが、2年目からは本領発揮した。
   長打力こそなかったが、着実なミート打法は日本野球に向いており、2年目.387、3年目は.363
   と素晴らしい成績を残した。アメリカ人選手のような一発長打の魅力には乏しかったが、好打者と
   してチームに大きく貢献した。

    アメリカでは大した活躍は出来ず、また現役を離れていたにも関わらず、日本では優秀な成績を
   残しているところを見ると、当時の日本プロ野球の実力のほどがわかろう。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
橋 本 右右  一 57 東映  78  180  12  34  16    1   11  18   1 .239
      58  〃 111  398  39 116  46    5   23  45   7 .387
      59  〃 116  405  46 114  36    4   24  47  13 .363
      60  〃  77  164  11  35   9    1    6  23   1 .256
      61 大洋  80  143  14  38   7    0   14  21   2 .301
   計          462 1290 122 337 114   11   78 154  24 .333


   ジャック・ラドラ(Jack Ladra

    この選手もハワイ出。メジャー経験もマイナー経験もなし。つまりプロ選手ではなかった。
   しかし、このことが日本で成功した要因になっていたようだ。

    なにしろ、初めてのアメリカ人(非日系)選手。プロ経験がないとはいえ、来日当初から期待は大き
   かった。いきなり3番を打たされたのである。アマ出身がいきなりクリーンアップというのもすごいが、
   ラドラはその期待にちゃんと応えている。開幕当初からコンスタントに成績を挙げて、この年は監督
   推薦でオールスターにも出ているのだ。今の目で見ると、大した成績ではないが、これでもチームの
   本塁打王であり打点王であった。規定打席にも達し、111本のヒットを放ったことで、来季の契約も
   ものにした。

    まあ、今時、この程度の成績ではあっさり1年で切られること請け合いだが、外国人選手自体が
   珍しかった当時、彼ら目当ての観客もいたのだろう。大したことはないとはいえ、これでもチームでは
   トップクラスの打撃だったのだから、球団しても切る理由はない。
    とはいえ、規定打席に届いたのはこの年のみ。にも関わらず7年もの長期に渡って活躍できたのは、
   前述の理由もあるが、日本をバカにする風もなく真面目にプレーした点が評価されたからに他ならない。
   性格的にも温厚で、ナインともよく打ち解けた。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ラドラ 右右  三 58 東映 125  463  55 111  57    9   48  86  14 .240
       59  〃 111  296  37  72  35    5   26  74   8 .243
       60  〃 103  335  40  82  32    4   24  71  14 .245
       61  〃 109  326  41  88  44    4   15  51  11 .270
      62  〃 105  234  29  57  23    3   19  45   6 .244
      63  〃 112  261  30  53  18    4   13  50   3 .203
      64  〃 115  392  44  98  36    8   34  73  10 .250
   計          780 2307 276 561 245   37  179 154  66 .243

   ディック・バウワー(Dick Maibauer)

    本名はマイバウワーと発音する。プロ経験はあるがマイナーのみ。しかしながら、東映投手陣の先発
   ローテーションの一角を任された。初勝利は5月7日の近鉄戦だが、その試合では自らホームランする
   など気を吐いた。
    29歳とまだ若く、アメリカ仕込みの重いストレートとスライダーで勝負する投手だった。日本でも十分に
   通用したが、思ったように勝ち星は上がらなかった。年齢的にも実力的にも、まだまだいける投手だと
   思えるが、なぜかこの年限りで日本を去っている。まだメジャーに心残りがあったのだろうか?

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
バウワー 右右 61 東映  21  6  3  90.6   1   0   50  47  42   34 3.36

   白  仁天(Haku Jinten)

    韓国人選手。韓国・京東高卒業後、韓国農業銀行でプレーを続けていたが、フライヤーズに誘われて
   来日、入団する。これが20歳の時である。ルーキーイヤーから1軍戦に出場した。そして2年目からは
   捕手のレギュラーを獲得した。しかし種茂の成長もあり、白のバッティングを活かそうという方針から、66
   年には外野手に転向した。以後、コンスタントに成績を挙げて、大下、張本、大杉らとともに暴れん坊打線
   の中核を為した。いやらしい右打ちに加え、長打力もあり、その勝負強い打撃は、他球団投手から嫌われた。

    彼にとって暮らしやすかった東映は身売りし日拓へ、そしてわずか1年でさらに日本ハムへと売られた。
   その煽りを受けて、フライヤーズ色の濃かった白は同一リーグのライオンズへ放出された。ここも、古豪の
   西鉄が身売りされ、新たに太平洋クラブが買い取った球団だった。混沌としたチームだったが、白は古巣
   への怨念は忘れておらず、この年初めてのタイトルを獲得してみせた。首位打者である。際だった打撃
   技術の持ち主だったが、タイトルはこれ一回のみ。オールスターには4度も出ている常連である。
    以降は各球団を渡り歩く。ライオンズは2年で彼を放出する。成績的には何の問題もなかったはずだった。
   次はロッテへ移り、4年間活躍。79年には自己最高打率の.341をマークした。その後、81年に近鉄へ
   移籍したが、.227の成績に終わる。

    82年には、この年から発足された韓国プロ野球に身を投じることになった。MBC青龍から、選手兼監督
   として招かれ、この年に打率4割を打って初代首位打者となる。その後、LGツインズ、三星ライオンズと
   監督を歴任し、韓国プロ野球の重鎮となった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
 白 右右  捕 63 東映   20  19   0    3   2    0    0   4   0 .158
     〃 64  〃   92  250  25   63  23    9   11  34   9 .252
     〃 65  〃  116  356  43   95  44    9   15  28   9 .267
     外 66  〃  126  363  42   95  23   18   16  30  18 .262
      67  〃  128  396  43  111  51   13   20  24  13 .280
      68  〃  117  382  52  113  51    9   12  21   9 .296
      69  〃  109  454  68  132  46   13   16  31  13 .291
      70  〃  127  496  67  137  64   28   38  39  28 .276
      71  〃  107  421  47  100  38   17   27  37  17 .238
      72  〃  126  486  67  153  80   20   37  32  20 .315
      73 日拓   96  291  27   72  20    8   18  22   8 .247
      74 日本ハム  114  418  63  109  42   15   31  19  24 .261
      75 太平洋  102  379  57  121  53   16   19  18  13 .319
      76  〃  121  469  54  135  59   17   24  33  15 .288
      77 ロッテ  126  452  50  127  56   16   33  33   6 .281
      78  〃   58  171  19   44  11    3    8  12   5 .257
      79  〃  124  415  47  141  71   18   26  25   3 .340
      80  〃   76  167  11   36  21    5   10  17   0 .216
      81 近鉄   84  194  19   44  23    4   18  12   2 .227
 計         1969 6579 801 1831 776  209  322 471 212 .278

   ドナルド・ジマー(Donald Zimmer)

    ドジャース、カブス、レッズなどメジャー各球団で活躍し、セネタース時代には2度もWシリーズに出場
   したショート・ストップ。しかし、来日した当時すでに35歳で盛りは越えていた。
    とことんメジャー流で、初球から積極的に振っていくスタイル。ただ日本の変化球についていけず、中盤戦
   以降は控えに回ることが多くなった。年齢的な問題もあり、インサイドへの速球にも振り遅れが目立った。

    帰国するとマイナーの監督を勤め、パドレス、レッドソックス、レンジャース、カブスと、計13年間の長きに
   渡って監督として指揮を振るった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ジマー 右右  遊 66 東映  87 203  14  37  20    9    8  41   0 .182

   ノーマン・ラーカー(Norman Larker)

    強打の左打者を欲しがったフライヤーズは、ドジャースやブレーブスで活躍したラーカーを獲得した。
   前年まで在籍した人格者のラドラとは違い、気が荒く「ケンカ屋ラーカー」の異名をとった。
    その割には、打撃は粗いというほどではなかったが、期待した長打力も思ったほどではなかった。
   2年間スタメンで活躍したが、合計本塁打が14本では期待はずれだろう。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ラーカー 左左  一 65 東映 103 368  46 103  46    8   46  37   2 .280
      66  〃 121 359  24  91  39    6   31  31   0 .253
 計         224 727  70 194  85   14   77  68   2 .267