〜中日ドラゴンズ編〜


 1990年代   〜混沌の時代へ〜

   戦力均衡が図られた80年代に比し、90年代はまたしても「持てる球団」が有利になってしまう時代になり
  ました。フリー・エージェント制度。ドラフト逆指名制度。そして外国人選手枠拡大。
   必然的に、一部の金銭的に豊かな球団および人気球団に好選手が集中してしまう結果になってしまいます。
  そうでない多数のチームの対応策。言うまでもなく外国人選手に頼るしかありません。ドラゴンズは、資金力は
  そう悪くもありませんでしたが、人気の面では今ひとつ。どうしても新戦力、即戦力を国外に求めることになります。
   スマッシュヒットを連打した80年代に対し、90年代は当たりはずれが激しかった。好選手もいましたが、疑問符
  をつけざるを得ない選手も多かった。
   そんな中、他球団に対していち早く韓国球界に目を付け、その道を切り開いたのは特筆すべきことでした。


   ベニト・ディステファーノ(Benito Distefano

    いやー、なんと言いますか(^^;)。
   81年プロ入りで、84年にパイレーツでメジャー昇格を果たす。89年には1軍定着し、左の代打の切り札的
   存在として活躍する。また、大リーグ史上3人目の左投げ捕手として出場もしている。
   入団したのはキャンプ直前の1月末だった。

    強打の外野手として期待されたが、粗さばかりが目立った。粗いのはバッティングばかりでなく、気も荒かっ
   た。ブラッシュボールやラフプレイには過激に反応、オープン戦から乱闘騒ぎを起こして退場処分を食っている。
   しかし、デビューは華々しく、ナゴヤ球場で行われた開幕戦で初打席でホームランを放っている。
    期待された打撃はサッパリ、血の気も多すぎで、まるで使えなかった。ケガがあったわけでもないが、これじゃ
   アカンということで8月で解雇されている。ま、しゃーないわな(^^;)。
    だが、帰国後は92年にアストロズでメジャー復帰を果たしているそうな。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ディステファーノ 左左  外 90 中日  56 181  18  39  14    5   14  33   1 .215

   ヴァンス・ロー(Vance Law

    78年のプロ入りで80年にはパイレーツで大リーグ昇格。以後、ホワイトソックス、エクスポスを経て
   カブスで活躍。オールスターにも出ている、バリバリのメジャー、レギュラー選手で、なぜ中日入りしたのか
   不思議なくらいだった。
    90年にドラゴンズ入り。本職は二塁手だったが、ドラゴンズのチーム事情で三塁を守ることとなる。
   しかしサードの守備も無難にこなし、本職並みの好守を見せた。バッティングも一流で、シュアな広角
   打法を売り物にしていたが、なかなかどうして長打力もあって、チーム2位の29ホーマーを打ち込んで
   いる。もっとも、これは狭いナゴヤ球場ならでは、とも言えるだろう。
    この年は三塁手でベストナインにも選出された。

    攻守ともに優れた好選手で、2年契約だったこともあり、球団も残留を望んでいたが、家庭の事情と
   称して1年限りで退団した。家族が日本に馴染めなかったのではないかと言われている。
   大柄だったが、メタルフレームの眼鏡をかけた穏やかな紳士だった。本当にもったいなかったなあ。
   メジャーらしい選手で、プレーは常に全力疾走だし、すぐに日本野球にも馴染んだし…。34歳だったけど
   あと2〜3年は十分にやれたはず。それはそうで、翌年にはすぐにメジャー復帰している。
    なお、登録名はバンスロー。そして父親はサイヤング賞を獲ったバーン・ロー投手である。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
バンスロー 右右  三 90 中日 122 457  69 143  78   29   44  83   2 .313

   スコット・アンダーソン(Scott Anderson

    80年、高卒時にアスレティックスにドラフト指名されたがこれは拒否、4年後のオレゴン州立大卒業時に
   レンジャースに指名されて入団した。90年に3Aで12勝を挙げてメジャー昇格、4試合に登板した。
   翌年、中日入りすることになる。

    195センチという長身で、角度のある速球を武器にした。変化球のコントロールもまずまずで四球の少ない
   投手だった。ただ、良い時と悪い時の差が極端で、目の覚めるようなピッチングで完封したかと思うと、次の
   試合では3回でKOされたり、あまり安定性はなかった。単調さを指摘する声もあったが、それよりも気の弱さ
   が問題だったらしい。いわゆるノミの心臓というやつで、ピンチやプレッシャーに弱かった。

    それでも91年は勝ち頭だったし、翌年も同じく9勝したのであるが、いかんせん打たれ出すと乱打される
   クセは治らず、14敗と大負けしたこともあり2年で解雇された。
    帰国後、球界に復帰、3Aで投げた。95年にはメジャーへ復帰。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
アンダーソン 右右 91 中日  23  9  7 132.0   6   4   45  80  62   60 4.09
    92  〃  31  9 14 140.0   1   0   50  92  72   61 3.92
 計        44 18 21 272.0   7   4   95 172 134  121 4.00

   デビッド・サーヴィス(David Service

    85年にドラフト外でフィリーズ入り。88年にメジャーへ上がり5試合に登板したが、再び3Aに落ちた。
   その後91年の7月に中日入りする。第三の外国人扱いで、1軍に上がったのは9月だった。
   ヤクルト戦で1イニング投げただけで日本でのチャンスは終わってしまった。…ということで、申し訳ないが
   ほとんど記憶にありません(^^;)。

    帰国後の92年、エクスポスでメジャー復帰。98年にはロイヤルズで6勝している。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
デビッド 右右 91 中日   1  0  0  1.0   0   0    0   0   1    1 9.00

   マーク・ライアル(Mark Ryal

    78年、ロイヤルズのドラフト3位でプロ入り。82年にメジャー初昇格。その後、ホワイトソックス、
   エンゼルス、フィリーズ、パイレーツを渡り歩く。90年には3Aで首位打者獲得。その翌年に中日入り。

    183センチ、89キロのがっしりした体格だったが、一発長打というよりもシュアな打撃をウリにした。
   三振も少なく、ここいちばんで勝負強かった。ホームランは24本だったが、打点は87もあり、これは
   チームで落合博満に次ぐ成績だった。
    翌年も活躍を期待されたが、運悪く左膝を故障。球団が慌てて獲得した穴埋めのパウエルが思いの
   外大当たりで、結果としてライアルの出番はなくなり、92年限りで整理される。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ライアル 左左  外 91 中日 117 463  65 132  87   24   27  57   2 .285
      92  〃   7  20   1   6   1    0    2   1   0 .300
 計         124 483  66 138  88   24   29  58   2 .286

   ブルック・ジャコビーJr.(Brook Jacoby Jr.

    79年、ブレーブス入り。81年にメジャー昇格し、84年にはインディアンスへ移籍、サードのレギュラーを
   獲得する。87年には打率3割、32ホーマーを記録し、主力打者の仲間入り。メジャー通算で1311試合に
   出場、打率.270、120本塁打の545打点という華々しい実績をひっさげてドラゴンズ入りするのは93年。

    球団の期待も絶大で、5番サードを任されたが、開幕以後まるっきりの不振。5月早々には古傷の右膝の
   故障を訴え、あっさり退団してファンや球団を唖然とさせた。まるっきりの看板倒れ。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ジャコビー 右右  三 93 中日  18  60   4  11   6    2    7  11   0 .183

   アロンゾ・パウエル(Alonzo Powell

    83年、ドラフト外でジャイアンツ入り。その後、1Aだけで5球団を渡り歩いた苦労人。86年に2Aを経て
   87年にエクスポスで初のメジャー。その後も3Aとメジャーのエレベーターを繰り返していたが、92年に
   故障したライアルの保険を探していたドラゴンズに見初められ入団。5月のことだった。

    常時1軍で活躍できたのがうれしかったのか、はたまた日本球界の水に合ったのか、シーズン途中の
   来日だったが3割をクリアした。翌年もケガが絡んだが3割をキープ、ホームランも27本放って、チームの
   クリーンアップ一角を為した。本領発揮は94年からで、なんと3年続けて首位打者を獲得する。

    特徴としては、かのモッカと同じく右打ちを得意とした。モッカがフルスイングでライト打ちしたのに対し、
   パウエルは軽く合わせる感じでライト線へ持っていくバッティングだった。外角はもとより、左投手の内角
   速球を見事に右打ちするので、好調時は本当に抑えようのない打者だった。
    長打力よりは、堅実な打撃を売り物としたが、パワーも人並み以上で、横浜スタジアムでレフト場外へ
   叩き出す特大ホームランもかっ飛ばしている。ただ、タイトルホルダーの割にはチャンスに弱いと評された
   のも事実で、実際、打点は思ったより上がっていない。
    人格的には、呆れるほどの真面目人間で、ドラゴンズ外国人選手の伝統(?)を守っている。中日在籍
   6年と長かったこともあり、新たに入団する外国人選手たちの良き先輩、アドバイザーとしても信頼された。
   97年、年齢的な面と成績が上がらなかったこともあり、自由契約。翌年には阪神と契約する。しかし、
   期待された活躍は出来ず、8月で退団する。帰国後すぐに3Aでプレーした。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
パウエル 右右  外 92 中日  88  302  44  93  35   13   23  59   4 .308
      93  〃  97  394  63 125  66   27   36  76   3 .317
      94  〃 110  423  61 137  76   20   47  73   3 .324
      95  〃 101  389  63 138  69   19   33  60   1 .355
      96  〃 130  518  63 176  67   14   46  69   1 .340
      97  〃 106  379  36  96  56   14   38  56   0 .253
      98 阪神  78  204  24  52  28    9   24  50   1 .255
 計         710 2609 354 817 397  116  247 443  13 .313

   マット・ステアーズ(Matthew Stairs

    アマチュア時代には、88年のソウル五輪でカナダ代表としてナショナルチーム入りしている。
   翌年プロ入りし、92年に地元エキスポスでメジャー昇格を果たす。93年は再び3A暮らしとなり、6月に
   役立たずのジャコビーの代わりにドラゴンズ入りした。

    独特の、輪を描くようなスイングで日本投手に対抗したが、思うように結果が残せなかった。
   スタメン落ちすることも多かったが、激しい首位争いを展開していたヤクルトとの9月決戦では2ホーマー
   するなど、面目躍如の活躍をしたこともあった。
    結局この年で解雇、翌年にアメリカ球界復帰。97年にはメジャーで4番を打つまでの成長している。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ステアーズ 右左  外 93 中日  60 132  10  33  23    6    8  34   1 .250

   ディオン・ジェームズ(Dion James

    80年にドラフト1位(ブリュワーズ)でプロ入りする。ブレーブス、インディアンス、ヤンキースを経て94年に
   中日入団。
    一発の魅力には乏しいが、広角打法を得意とし、日本向きと評された。ドラゴンズでも、ほぼレギュラーと
   して起用されたが、期待通りとは言えなかった。ただ、1年で解雇するほどでもなかったのも確か。まだ若かっ
   たし、もう1年様子を見る手もあっただろう。
    帰国後はヤンキースに復帰している。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ジェームズ 左左  外 94 中日 110 373  38  99  57   21   26  46   4 .263

   ドウェイン・ヘンリー(Dwayne Henry

    80年、レンジャースのドラフト2位指名。84年にメジャー昇格、以後4球団を渡って94年にドラゴンズ入り。
   94年のキャンプで臨時コーチを務めたトム・ハウスの推薦を受けてテスト入団した。メジャー登板246試合と
   いう実績も十分だった。ドラゴンズでは抑えとして起用する手はずになっていた。

    が、大舞台を何度も経験した割には案外気弱で、コントロールもあまり良くなく、あまり向いてはいないよう
   だった。スピードはあったので、決まるときは三振をバタバタ奪えたが、ここ一番で勝負弱かったのは否めない。
   94年限りで解雇。のちにメジャー復帰した。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
ヘンリー 右右 94 中日  31  3  7 67.3   0   0   48  70  28   26 3.48

   メルヴィン・ホール(Melvin Hall Jr.

    ロッテ1990年代を見よ。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ホール 左左  外 93 ロッテ 129  480  71 142  92   30   59  81  21 .296
      94  〃 119  459  69 127  80   22   44  84  13 .277
      95 中日  50  178  20  42  35   12    9  28   2 .236
 計         298 1117 160 311 207   64  112 193  36 .278

   リチャード・モンテレオン(Richard Monteleon

    82年、ドラフト1位でタイガース入り。85年に、移籍先のマリナーズでメジャーに上がった。その後、
   ジャイアンツ、ヤンキースを経て95年にドラゴンズに入団。
    アメリカではほとんど中継ぎだったが、中日では先発を任された。しかし、制球は甘くスピードもなく、
   いいように打ち込まれた。球質も軽かったのか、よく長打を食らっていたのを記憶している。
   これはダメだと愛想を尽かされ7月にはクビ、帰国している。その後、エンゼルスでメジャー復帰。
    登録名はモンテ。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
モンテ 右右 95 中日  11  2  4 44.0   0   0   19  19  34   32 6.55

   ダネル・コールズ(Darnel Coles)

    80年、マリナーズのドラフト1位指名選手。3年後にメジャーに上がったが、7球団を渡り歩くジプシー
   生活。この間、93年にはブルージェイズでWシリーズに出場している。バリバリのメジャーリーガーで
   96年に中日入団。

    ドラゴンズではトップバッターに抜擢され、存分に活躍した。器用なバッティングで、あまり穴のない
   黒人打者だった。さほど期待されていなかった長打力も、せまいナゴヤ球場ということもあってか、
   29ホーマーして首脳陣を喜ばせた。
    問題があるとしたらそれは守備で、こちらはお世辞にもうまいとは言えなかった。翌97年には本拠地
   が広いナゴヤドームへ移るとあって、不安な守備を心配する声が強く、また長打も期待できないだろう
   ということもあって、わずか1年で解雇されてしまう。

    これはおかしかった。確かに守備に問題はあった。が、3割打っているのは確かだし、次に来た選手
   が好守だったとしても、打てるかどうかはまったくの別問題なのだ。仮に攻守走揃った選手がいたとして、
   そんな選手をアメリカが手放すはずはないのだ。まったくもったいないことをしたものだ。
    コールズは翌年、阪神に拾われたが、ケガもあって思うように試合に出られなかった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
コールズ 右右  三 96 中日 130 513  77 155  79   29   60  79   0 .302
      97 阪神  63 231  28  56  28    7   14  40   0 .242
  計         193 744 105 211 107   36   74 119   0 .284

   宣  銅烈(そん どんよる

    高麗大−韓国化粧品を経て85年にヘテ・タイガースに入団した。韓国プロ野球では、最多勝5回、
   セーブ王2回、最優秀防御率7回、奪三振王5回、MVP3回という、超人的な活躍を見せ、「韓国の
   至宝」とまで呼ばれた。
    95年のオフ、日本球界入り希望を表明、日本プロ野球界は俄然色めき立った。数球団が獲得に動き
   始め、最終的には巨人と中日が激しく争ったが、中日が争奪戦に勝利し、ドラゴンズ入りした。

    入団初年度の96年は、来日後キャンプから日韓双方の凄まじい取材攻勢を受け難儀していたようだ。
   そのせいか、この年は期待外れに終わり、韓国マスコミからは「祖国の恥さらし」を手厳しい批判を受けた。
   「このままでは国に帰れない」と、帰国せずに日本に残り自主トレに励み、翌年に臨んだ。

    汚名返上を目指した97年は開幕直後から活躍、シーズンを通してドラゴンズの最後のマウンドを守り
   抜いた。結果、38Sの好成績を上げ、この年の最優秀救援投手賞に選出された。98,99年も切り札と
   して大活躍。99年には優勝に大きく貢献、胴上げ投手にもなった。しかし、年齢的なこともあり、この
   年限りでの引退を表明。中日は引き留めたが本人の意志が固く、これを認めた。その後、大リーグの
   レッドソックスから入団要請があったものの、これも断って引退した。

    150キロを超える速球と、そのストレートとさほどスピードの差がない高速スライダーを武器として、
   ピンチをしのいだ。ボールの握りが一種独特で、親指と人差し指、中指をたてて投げた。この投げ方は
   相当な握力が必要なはずで、伝家の宝刀スライダーが見せた抜群のキレもその辺に秘密があったのだ
   ろう。
    184センチ90キロという公称だったが、実際は100キロ近くあったのではないかと思われる体格で
    コロコロしていた。その丸顔も、アンパンマンにそっくりでした(^^;)。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
 宣 右右 96 中日  38  5  1  3  54.0   0   0   25  67  35   33 5.50
    97  〃  43  1  1 38  63.3   0   0   13  69   9    9 1.28
    98  〃  42  3  0 29  48.6   0   0   11  58   8    8 1.48
    99  〃  39  1  2 28  31.0   0   0   10  34   9    9 2.61
 計       162 10  4 98 197.0   0   0   59 228  61   59 2.70

   レオナルド・ゴメス(Leonard Gomez

    プエルトリコ出身。85年、オリオールズへドラフト外で入団。90年、3Aで打点王になってメジャーへ
   昇格。96年にはカブス、翌年にドラゴンズへ。
    入団した初年度から打棒が炸裂、3割をクリアし、31ホーマーを飛ばした。打点も81あり、この年は
   チーム三冠となる。翌年は、やや成績を落としたが、安定したバッティングで貧打のドラゴンズ打線を
   背負って立った。
    99年には自己最高の、ホームラン36本、打点109を挙げてチーム優勝に大きく貢献する。
   当時の星野体制は、投手力中心で守り勝つ野球だったこともあり、得点力に欠けるチームだったが、
   その打線の中、数少ないホームラン打者として尽くした。

    守備、走塁だけは不得手だったものの、真面目で温厚な紳士であり、ナインや首脳陣の信頼は絶大
   だった。また、巨人戦に強いのもファンにアピールした。特に99年は、36ホーマーのうち巨人戦で
   13ホーマーという驚異的な記録も残している。中でも桑田に強く、この年は桑田相手に5ホーマーを
   浴びせている。

    ファンやチームに惜しまれながら、「体力の限界」を理由に2001年で引退した。プエルトリコに帰国
   して、翌年は国内リーグでプレーしていたが、新外国人選手の思わぬ不振で再び中日からラブコール。
   ゴメスもこれに応えて日本球界に復帰した。打線の軸に欠けるドラゴンズにあって、そこそこの成績を
   残しはしたが、やはり年齢的にムリがあったようで、シーズン終盤を待たずして、今度こそ引退した。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ゴメス 右右 三、一 97 中日 135  483  84 152  81   31   77  76   2 .315
      98  〃 116  420  57 115  76   26   62  66   1 .274
      99  〃 133  474  84 141 109   36   77  59   4 .297
      00  〃 122  440  59 127  79   25   62  75   1 .289
      01  〃  88  291  30  89  61   19   47  35   0 .306
      02  〃  64  238  33  64  42   16   30  37   0 .269
 計         765 2729 392 784 500  171  372 430  10 .287

   ケヴィン・ジャービス(Kevin Jarvis

    91年にレッズ入り。ツインズ、タイガースと渡って98年に中日入団。
   初先発したゲームで勝利投手になった幸運も、サムソンが来た途端に消え失せた。
   速球はさほどでもなかったが、コントロールはよく変化球もまずますで、悪い投手ではなかった。鳴り物
   入りのサムソンが入団すると、1軍外国人投手枠は宣とサムソンで埋まってしまい、ジャービスはファーム
   へ行くしかなくなった。
    すっかりやる気がなくなったようで、2軍でも3勝4敗とパッとせず、8月の下旬には退団した。こういうの
   を見てしまうと、外国人枠というのは何なのだろうと思ってしまう。

    余談だが、98年版のPSソフト「ワールドスタジアム」では、このジャービスのデータがやたらよかった
   ようで、筆者はこのジャービスで何度も完封したことを覚えている。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
ジャービス 右左 98 中日   4  1  2 16.3   0   0    5   7   8    8 4.41

   李  尚勲(い さんふん

    高麗大時代から話題の速球投手で、93年に韓国プロ野球のLGライオンズに入団する。94、95年と
   2年連続の最多勝。97年には一転、抑えに転向して37セーブを挙げて今度は最優秀救援投手となる。
   自信家のサムソンの夢は広がり、さらに高みを目指してメジャー入りを表明した。興味を持った数球団が
   接触したものの、条件面で折り合いがつかず、行き先を日本に変えて交渉した。今度もまた、宣と同じ
   く、巨人と中日の激しい争奪戦が繰り広げられたが、またしても中日が巨人を出し抜き、入団にこぎ着けた。

    入団初年度は明らかに調整不足で、8月になってようやく初勝利を挙げたものの、この年は1勝のみ。
   このままでは韓国へ帰れないと、オフになっても帰国せず、先輩の宣とともに日本に残ってトレーニングを
   重ねて翌年に備えた。
    98年はローテーションの一角として投げていたが、ナゴヤドームでの巨人戦で、打席に入って三振した
   ときに、強振しすぎて右肩を脱臼するという情けない故障で戦線離脱。

    しかし、故障癒えて復帰した後にサムソンが本領を発揮した。先発ではなく中抑えとして起用したのが
   あたったのである。体力はあるから連投が利く。スピードボールもある。「ドラゴンズの暴れ馬」と異名を
   とるほど気性も激しい。打ってつけだったわけだ。守護神たる大先輩の宣につなぐ、落合、岩瀬、正津と
   ともに中継ぎカルテットの中核になった。
    肩にかかる長髪を振り乱して力投、三振を奪うたびに派手なガッツポーズをとり、マウンドで吠える。
   その姿はドラゴンズファンの心を捉え、サムソンの名がアナウンスされると絶叫に近い声援が球場に飛んだ。

    長髪と気の荒さに関しては、韓国時代にこんなエピソードがある。実力者のサムソンではあったが、それ
   でも不調の時はある。そういう時、韓国マスコミはこぞってサムソンの長髪を揶揄した。反発したサムソン
   は、「髪型と野球は無関係だ」と言い放ち、翌日には散髪どころか長髪のまま茶髪に染めて球場に現れ、
   周囲を唖然とさせた。
    日本、とりわけ中日の星野監督がサムソンをどう扱うか注目されたが、基本的に好きにさせていた。
   少々打たれても差し出がましいことは言わず、自主性に任せた。これにサムソンも応えたということだろう。

    99年、中日優勝の大きな力になったサムソンだが、長年の夢であった大リーグ挑戦を果たすため、
   惜しまれながらドラゴンズを退団する。翌年、折良くレッドソックスと契約したが、3Aでも5勝止まりで、
   メジャーにも上がったがわずか5試合の登板のみで帰国、韓国球界に復帰した。
    なお、登録名は「サムソン・リー」。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
サムソン 左左 98 中日  11  1  0  0  32.6   0   0   13  33  22   17 4.68
    99  〃  36  6  5  3  95.3   2   0   34  65  30   30 2.83
 計        47  7  5  3 128.0   2   0   47  98  52   47 3.30

   李  鍾範(りー じょんぼむ)

    建国大を経て93年にヘテ・タイガース入り。94年には、194安打で打率.394、84盗塁で首位打者と
   盗塁王を獲得。さらに96,97年と盗塁王。韓国シリーズのMVPも2度獲得するなど、勝負どころに強く、
   「韓国のイチロー」と呼ばれていた。
    日本球界入りを目指している中、すでに韓国球界に太いパイプを持っていた中日と交渉、移籍金4億5000
   万円という破格の金額で入団決定。

    中日入団後もショートを守り、がっちりとショートのレギュラーを獲得した。すぐに日本球界にも馴染み、
   シーズン前半から活躍、盗塁王を射程圏に捉えていたが、右肘を骨折する不運に見まわれる。
   「風の子」と異名をとり、おとなしい中日選手の中にあって、元気いっぱいのトップバッターとしてチームを
   引っ張った。サムソンに劣らぬガッツの持ち主で、ヘッドスライディングは当たり前、好機にヒットを放てば
   塁上でガッツポーズ、絶叫。当然、ファンの受けもよかった。

    翌年は、大物ルーキー・福留孝介の入団もあって、外野へのコンバートを余儀なくされる。これには李も相当
   不満を持ったようで、かなりストレスがたまったようだ。確かに、李は粗っぽいプレーをすることもあり、守備は
   満点とは言えなかったが、かと言ってコンバートさせねばならないほどひどかったわけでもなかった。
   脚も速く肩もある、ということもあったのだろうが、いささか乱暴な話である。結局のところ、福留のショート守備
   も失格の烙印を押され、2001年には外野にコンバートされてしまうのだから、もう少し様子を見てもよかった。

    いずれにせよ、このコンバートで李はかなりモチベーションが落ちたようで、精彩を欠くプレーが目立った。
   慣れない外野守備に加え、打撃も不振。李は、打てなくなると悪いクセが出る。それは身体に似合わず、
   引っ張りにかかり大物を打ちたがることだ。李ほどの脚と技術があれば、軽く合わせてセンターやライトに打ち
   返すだけで打率は上がるのだが、いくらコーチに言われても、最後まで直らなかった。
    表面的には明るいガッツマンではあったが、打てなくなって円形脱毛症になるほど悩んでいた。

    2000年には出場試合数も激減し、新外国人選手入団も決まると、プレー機会を増やすよう直訴。それが
   ムリなら退団を希望して、結局、帰国した。韓国へ戻ってからは再びショートで活躍している。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
 李 右右  遊 98 中日  67  244  38  69  29   10   42  33  18 .283
     外 99  〃 123  424  76 101  33    9   45  62  24 .238
     〃 00  〃 113  414  58 114  37    8   36  44  11 .275
  計         303 1082 172 284  99   27  123 139  53 .262

   ネルソン・リリアーノ(Nelson Liriano

     メキシカン・リーグ出身でメジャー経験はもちろん、アメリカではマイナー経験もない。李の不振で、登録
    ギリギリの6月末に入団した黒人選手。二塁手ということだったが、内野ならどこでも守れる万能選手だった。
    99年の7月21日、東京ドームでの巨人戦で初出場、初スタメン。これはたまたま筆者もTV観戦していた。
    結果は4タコ2三振。

     確かに結果は出なかったが、実績としてはこれしかないのだ。これでどう評価しろと(^^;)?
    故に、好選手だったのかどうなのかサッパリわかりませんでした。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
リリアーノ 右左  二 99 中日   1   4   0   0   0    0    0   2   0 .000