〜中日ドラゴンズ編〜


 1980年代   〜戦力拮抗、戦国の覇者へ〜

   王、長嶋というスーパースターの引退、ドラフトによる各チームの戦力補強によって、永遠に続くかと思われた
  巨人の黄金時代は70年代中盤を持って終結しました。
   80年代のセ界は、混沌とした戦国時代になったのです。そんな中、ドラゴンズも82年、88年と2度の優勝を
  成し遂げました。その時、活躍していた外国人選手たち。彼らの中にも、第二のマーチンと言えるべき人気者
  たちがいました。また、近年台頭が著しい台湾球界からの助っ人もドラゴンズに名を連ねました。
   マーチン以来、伝統的に真面目外国人が多かったドラゴンズですが、この80年代もそんな選手ばかりでした。
  殊の外、入団した外国人選手が少なかった80年代。それは、とりもなおさず優良選手が多く、在籍年数が長か
  ったことに他なりません。ファンやナインに愛された選手ばかりでした。


   郭  源治(かく げんじ

    ドラゴンズファンなら忘れられない投手。台湾出身で、少数民族であるアミ族の出である。1969年、13歳の
   時に、リトルリーグ(現在の日本で言うボーイズリーグ)の台湾代表として来日している。その際、台湾の極東
   リーグ優勝の原動力となる。輔仁大時代から中日が目をつけるものの、兵役の義務があったため、卒業後2年
   の陸軍生活を経て来日、念願の中日入りが叶う。

    入団は81年の7月で、日本のプロのレベルの高さにとまどい、この年は1勝に終わるが、翌年には実力を
   遺憾なく発揮、9勝を挙げて広島・津田と新人王を争った。それからはすっかり主力投手の仲間入りし、4年続け
   て2ケタ勝利をあげる。しかし、好不調の波が激しく、勝ったり負けたりで、いわゆる貯金の出来ない投手でも
   あった。83年からは3年連続の200イニング以上を投げ、完投も多く、抜群のタフネスぶりを見せた。

    87年、落合博満とのトレードでリリーフエースの牛島和彦がロッテに去ったあと、星野監督の意向で抑えに
   転向する。これが当たった。
    溢れんばかりの闘志と気合満点のピッチングで、幾多のピンチや修羅場をくぐり抜け、30SPの好成績を残し
   最優秀救援投手賞を受賞する。。持ち前の体力と負けん気がクローザーに打ってつけだったのである。
    それまでの牛島が冷静な投球でピンチを摘み取る投手だったのに対し、郭はガッツむき出しのピッチングで
   相手を抑え込むのが印象的だった。三振の奪った時も、牛島が軽くうなずくだけだったのに対し、郭はガッツポ
   ーズをしてマウンドで跳ね上がるなど、魅せる投手でもあったのだ。
    88年の優勝も、郭なしでは考えられなかった。44SPという、当時の日本記録を作り、胴上げ投手にもなった。
   無論、文句なしのMVP。この年の5月13日、ナゴヤ球場で行われた巨人戦で、延長10回裏、巨人・槇原から
   サヨナラホームランをかっ飛ばしたことが印象深い。

    その後、抑え投手の宿命でもある利き腕の故障を経て、91年には先発に復帰、13勝をあげてエース格に
   のし上がった。そしてまたチーム事情で抑えに回ったり、またまた先発したり、とあやふやな使われ方になった
   のは気の毒だった。

    持ち前の明るさと面倒見の良さで、チーム内の人気者。また、その精悍なルックスとたくましい体つきで女性
   ファンの受けもよかった。また、子どものファンを大切にしていたことも印象に残る。
    日本人女性と結婚したこともあり、89年9月には日本に帰化している。引退まで実に16年間、ドラゴンズ一筋
   で働いた投手である。

    引退後は台湾へ戻り、新興したプロ野球に身を投じた。統一や和信などでプレー、40歳を過ぎても投げ続けた。
   99年のシドニー五輪でも、日本国籍ながら台湾代表として参加(認めた日本も立派だった)、オールスター級の
   選手を揃えた韓国相手に5イニング2失点と好投した。その時、42歳。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
  郭 右右 81 中日   6   1   2   0   21.3   0   0   16   17  17   15 6.43
    82  〃  34   9   7   0  176.0   6   1   76  132  81   68 3.48
    83  〃  32  10  10   0  213.3   8   3   68  159 100   89 3.75
    84  〃  34  13  11   0  216.0  11   2   78  177  90   78 3.25
    85  〃  34  11  11   3  230.3  15   1   62  157 102   89 3.48
    86  〃  30  11  10   0  177.3   9   2   55  127  76   72 3.65
    87  〃  59   4   3  26   98.0   0   0   28   70  19   17 1.56
    88  〃  61   7   6  37  111.0   0   0   34   94  27   24 1.95
    89  〃  42   5   3  25   74.0   1   0   19   69  19   19 2.31
    90  〃  22   2   6   0   67.3   0   0   33   57  42   39 5.21
    91  〃  33  13   9   2  163.0   9   4   54   95  52   49 2.71
    92  〃  18   4   3   0   90.0   2   0   26   54  37   30 3.00
    93  〃  39   3   9  17  107.6   4   2   38   78  44   41 3.43
    94  〃  21   8   7   2  139.3   7   2   36   85  43   38 2.45
    95  〃  26   5   8   4   80.6   0   0   29   40  44   36 4.02
    96  〃   5   0   1   0    5.6   0   0    5    4   2    2 3.18
 計       496 106 106 116 1971.0  72  17  657 1415 795  706 3.22

   ドナルド・コージ(Donald Cosey

    メジャー経験は80年の9試合のみ(アスレティックス)という25歳の黒人選手。なぜ彼が来日したのかと
   いうと、当時コーチを務めていたマーシャルの推薦があったからである。日本でのプレー経験があり、しかも
   コーチとして今の球界の状況も知っているはずの彼から奨めだから間違いはなかろうと思っていたはずだ。
    しかしフタを開けてみると、特にどうということはない。チームは長打を期待していたが、120試合で15発は
   いかにも不足。といって打率も.251では見るべき点もない。

    まあ今年は様子見で来年が期待という声もないわけではなかったが、実はこの選手、マーシャルが紹介
   いただけでなく、なんとマネージメントもやっていたことがわかり、それで彼が奨めたのではないかとの疑念
   も出て、結局この年で解雇。コーチと選手のまともな関係とはとても言えないだろう。。マーシャルもつまらな
   いことで評判を落としたものだ。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
コージ 左左  外 81 中日 120  342  40  86  41   15   19  51   2 .251

   レスリー・スパイクス(Leslie Spikes

    72年のヤンキースを皮切りに4球団に在籍。中日には81年のキャンプでテストを受けて入団した。
   フリー打撃や紅白戦での打席を見て決めようということだったが、練習では場外級の一発を立て続けに打ち
   込み、たまたまキャンプ視察にきていた評論家の広岡達郎氏も「私なら即合格を出す」と太鼓判を押していた。
   そのせいではなかろうがテストは合格で、ドラゴンズ入りが正式に決まる。

    ところがどっこい、オープン戦もシーズンに入ってからも、からっきし打てなかった。188センチ100キロの
   巨漢がブリブリ振り回すさまは迫力満点だったが、何しろ当たらない。身体は大きいが、見るからに大人しそう
   で、神経質そうな黒人選手だった。打てないことで悩んでいたのだろうなあ。
    南部の出で、独特の南部訛りが激しかったらしく、通訳はもちろんアメリカ人コーチのマーシャルでさえ、
   スパイクスが何を言っているのかわからないことがよくあったらしい。

     結局は、ケガもあって2軍落ち。復帰してからもやっぱり打てず、代打に降格、それでも打てなかった。
   広岡さん、何を見てたんでしょうねぇ(^^;)。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
スパイクス 右右  外 81 中日  26  90   3   6   6    1    3  21   0 .204

   ケネス・モッカ(Kenneth Macha

    74年にパイレーツでメジャー昇格、その後エキスポス、ブルージェイズと渡ってドラゴンズ入りする。
   185センチ88キロの大型三塁手で、一発長打を期待するむきも多かったが、どっこい広角打法がウリの
   選手だった。
    変化球の多い日本投手に対し、バットをおっつけて強く叩く打法がマッチしており、苦もなく日本のプロ
   野球に対応した。モッカと言えば思い出すのが、ライト線を襲う強烈な打球である。計ったようにライト線
   へ流し打つ独特のバッティングで、それも、まるで左打者が打ったかのようなライナーを飛ばして見せた。
   長打に関しても、ツボにはまれば豪快な一発をレフトスタンドへ放り込むことも可能で、また、得意の流し
   打ちでライトへ叩き込むことも多かった。

    勝負強さも天下一品で、「ここで打ってくれ」という場面やゲームで印象的な一打を放つ面もあった。
   82年に巨人に逆転優勝した時でも、天王山だった9月末の巨人3連戦で3連勝したときの活躍も見事
   だった。23回戦では5打数5安打し、24回戦では江川からホームランしている。
    ただ、バッティングはともかく守備、走塁はお粗末だったのがご愛敬。一生懸命のプレーだというのは
   わかるのだが、何せ身体が硬く、腰高の守備は見ていても危なっかしかった。

    真面目、誠実を絵に描いたような人柄で、ナインにすぐに溶け込み、人気もあった。また、首脳陣の
   アドバイスにも耳を傾け、それが好成績につながった。そういう素直さに加え、ケガに強く、滅多なことで
   は欠場しないこともあって、監督やコーチの信頼も厚かった。メジャー選手らしくファンも大切にし、はたまた
   契約交渉でごねることもなかったので、ファンやフロントにも受けがよかった。本当に誰からも愛された
   選手だったのだ。

    そのせいか、退団するとき、外国人選手としては異例なことに、シーズン最終戦で引退試合が挙行され
   ている。モッカはフル出場でそれに応え、試合終了時にはスタンドからモッカ・コールが鳴りやまなかった。
   その後、選手全員に胴上げされたのも、人柄の良いモッカらしいエピソードだ。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
モッカ 右右  三 82 中日 130  483  57 150  76   23   51  74   1 .311
      83  〃 111  389  40 110  45   15   35  57   0 .283
      84 130  465  71 147  93   31   62  54   1 .316
      85 102  362  46 109  54   13   49  40   4 .301
 計         473 1699 214 516 268   82  197 225   6 .304

   ゲーリー・レーシッチ(Gary Rajsich

    76年の夏期ドラフトでアストロズ入り。メジャーには82年(メッツ)昇格する。以後、ジャイアンツ、
   カーディナルスと過ごして86年に中日入団。184センチ91キロの堂々とした体つきでヒゲもたくわえて
   いたため怖そうな印象だったが、実は柔和で人当たりのよい優良外国人選手だった。
    優等生モッカの後釜とあって、球団もファンも目が厳しくなりがちだが、このゲーリーもモッカに輪を
   掛けて真面目な男だった。

    チームが期待しているのがホームランと知ると、不利を承知で大振りして長打を狙った。結果として
   36発、82打点という及第点をあげることは出来たが、その分、打率は低かった。翌年、ロッテから
   打撃の職人・落合が移籍してくると、キャンプで彼の打撃練習を見て感心、通訳、コーチを通じて彼に
   「弟子入り」している。大きく構えた去年のフォームとは一新し、落合直伝の神主打法で打席に入った。
    その結果、三振は文字通り半減し打率は面白いように上がった。ホームランこど減ったが、これは
   やむを得ないところだろう。この年は好成績が認められてオールスターにも選ばれている。
   優勝した88年は、ケガも絡んで代打出場ということも多かったが、シュアなバッティングでたびたび
   チームを救っている。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ゲーリー 左左 一、外 86 中日 129  486  58 122  82   36   36 105   2 .251
      87  〃  87  331  60 105  54   24   24  51   2 .317
      88  〃 101  358  56 105  53   16   40  51   2 .293
 計         317 1175 174 332 189   76  100 207   6 .283

   ロバート・カスティーヨ(Robert Castillo

    76年、メキシカン・リーグを経て、77年にドジャース入りを果たす。81年にはWシリーズに登板する
   など活躍。82年にツインズへ移籍したが、この年は13勝を挙げて自己最多の勝ち星を記録した。
   85年にドジャースへ復帰、87年6月にドラゴンズ入りする。

    当初から郭源治、ゲーリーの保険としての第三の外国人扱いだった。ゲーリーは主軸を打ち、
   郭も投手陣にかかせない存在だっただけになかなか出番がなかった。仕方なく2軍で
   調整していたが、ファームでは3勝3敗、防御率1.70という好成績を残している。9月になってようやく
   テストがてら1軍登録されたものの、先発した2試合をいずれも乱打されて見限られた。
    真面目人が多かった中日選手の中では奇人で通っていた。スパイクに火をつけたり奇声をあげたりで
   気味悪がられていたみたいです(^^;)。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
カスティーヨ 右右 87 中日   2  1  1 10.3   0   0    9  10  10    9 7.84

   陳  義信(ちん ぎしん

    かの郭源治の後輩にあたる。リトルリーグで活躍し、台湾代表のエースとなり、輔仁大に進んだのも
   同じである。88年に開催されたワールドカップでは最優秀投手に選出され、同年のソウルオリンピック
   にも台湾代表で投げている。その翌年、郭源治の紹介もあって中日入りした。

    第三の外国人扱いで不運な面はあったが、1年目は3勝をあげている。主に中継ぎだったが、先発も
   2試合だけある。思ったよりスピードがなく、コントロール、変化球もプロレベルとしては今ひとつだった
   のは否めない。ただ、ファームでは好成績を残しており、正直言って実力的にはそのクラスだったのだ
   ろう。
    2年で退団し、台湾に戻ってからは兄弟(球団名。ガルベスがいたとこね)に入団、エースとして活躍
   した。
    なお、日本での登録名は義信(よしのぶ)。日本読みにしたわけだが、これはどんなもんだろう。本来
   の発音を尊重すべきだろう。おまけに、名字の陳にしなかったのは「ちん」という日本語の発音の響きが
   あまりよくないからというものである。大きなお世話であろう。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
義 信 右右 89 中日  16  3  1 32.3   0   0   15  16  21   19 5.29
    90  〃   5  0  1  7.3   0   0    4   5   7    7 8.59
 計        21  3  1 39.6   0   0   19  21  28   26 5.90

   ジョージ・ヒンショー(George Hinshaw

    メジャー経験は13試合のみ。3Aでは4番を打ち、首位打者や打点王のタイトルも獲得している。
   来日時も30歳とまだ若く、大いに期待された。だが、モッカ、ゲーリーの後釜というわけだから、かなり
   シビアに見られている。

    記憶では、守備も脚も悪くなかった。バッティングもシュアで、変化球中心の日本投手にうまく対応
   していたように思う。4月はとまどいもあったが、5月にはすっかり馴染んで打ち始めた。しかし運悪く
   左手首を故障、ファーム落ち。復帰後も、その怪我を引きずっていたようで、今ひとつ調子に乗りきれな
   かった。若かったし、故障を完治させればけっこういけそうな予感はあったのだが、この年限りで整理
   されてしまった。

    登録名はジョージ。これも、セカンドネームのヒンショーというのが日本語の「貧小」に当てられて
   マスコミにからかわれるのを避けたためと言われている。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ジョージ 右右  外 89 中日  53 201  30  59  26    8   17  33  10 .294