〜近鉄バファローズ編〜


 1990年代   〜常勝から混沌へ〜

   熱血漢の闘将・西本に率いられ悲願の初優勝を遂げた後も、常にリーグ優勝争いをするまで力量を引き上げた
  バファローズでしたが、いつしか勤続疲労が忍び寄っていました。仰木監督はよかったが、鈴木監督がどうにもまずかった。
  とかく自己中心的であり、現役時代からのお山の大将的性格は直っておらず、チームは空中分解気味。そんな中、エース
  の野茂、主砲の石井にまで逃げられて戦力はガタガタになってしまいました。それを補うべく入団してきた助っ人たちも
  今ひとつだったようです……。


  ラルフ・ブライアント(Ralph Bryant)

   80年のドジャース、81年のツインズ指名を拒否。しかし同年の二次ドラフトでドジャースに再び1位指名される
  と、今度は入団した。85年にメジャーへ昇格したもののレギュラーは獲れず、マイナーとの往復を余儀なくされた。
  88年、ドジャースと友好球団だった中日が譲り受けた。しかし来日したものの、すでにドラゴンズには郭源治と
  ゲーリーがいたため、2軍戦しか出番がなかった。そこに、デービスの帰国などで戦力不足に喘いでた近鉄が
  目を付け、金銭トレードで譲渡してもらった。これが大当たり。
   それまで一軍の試合に出たくてウズウズしていたブライアントは、バファローズでレギュラーになると大活躍、
  74試合で34ホーマーという抜群の長打力を発揮して、ファンは驚喜、他球団は唖然とした。これならフルに出た
  らどこまで打つのかと思われた翌年は49発を放って見せて見事に本塁打王を獲得する。121打点もタイトル級
  だったが、ブーマーにこれは攫われた。それでも、この年の優勝は彼なしでは考えられず、当然のようにMVPに
  選出されている。3年目には、通算246試合で100号本塁打という驚異的なレコードも残した。
  バファローズファンにとって思い出深いのは、89年の優勝争いの際、天王山と言われた10/21,22の西武戦
  であろう。この試合でブライアントはいきなり3打席連続ホームランをかっ飛ばし、第二戦でもホームランして4打数
  連続本塁打の記録を作り、西武を叩きのめしたのである。

   但し、三振がやたらめった多く、初年度も74試合で91三振だったが、2年目には187三振、3年目には190
  三振を記録した。93年にはとうとう204三振と、200個を超える記録まで作った。それにしても今回調べて意外
  だったのは、初年度、2年目は打率も良かったのだ。三振とホームランばかり目立っていたが、合わせるバッティ
  ングも出来たらしい。普通、ここまで三振が多ければ批判も出るものだが、これだけホームランすればそんなもの
  も消えてしまうのだろう。
   91年は、6月に左膝半月板損傷という重傷で、シーズンの半分を棒に振ってしまったが、それ以外の年はほぼ
  満点に近い活躍だった。

   剽軽な性格で明るく、ナインの人気者でもあった。もちろんファンにも受けはよく、風貌が人気俳優のエディ・マー
  フィ似だということもあって(筆者はあんまりそうは思わなかったが)人気はあった。都合8年もバファローズのため
  に尽くし、近鉄にはなくてはならない戦力となっていた。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三 振 盗塁  打率
ブライアント 左左  外 88 中、近  74  267  50  82  73   34   33   91   1 .307
      89 近 鉄 129  494  91 140 121   49   74  187   5 .283
      90  〃 108  412  67 101  73   29   47  198   4 .245
      91  〃  63  239  37  57  43   22   25  100   3 .238
      92  〃 119  448  78 109  96   38   51  176   6 .243
      93  〃 127  497  83 125 107   42   51  204   4 .252
      94  〃 105  437  80 128 106   35   41  153   0 .293
      95  〃  48  186  26  36  22   10   20   77   0 .194
  計       8    773 2980 512 778 641  259  342 1186  23 .261

  ジェームス・トレーバー(James Traber)

   82年、ドラフト21位(!)でオリオールズ入り。84年にメジャーへ上がり、90年に来日した。182センチ96キロ
  のがっしりした体格、もじゃもじゃの髭面でバファローズファンの前に登場すると、1年目からその打棒を振るった。
  見た目にそぐわず器用なバッティングで、見事に3割をクリアする。ホームラン24本はまあまあだが、92打点は
  上出来。2年目は、打率をやや落としたものの本塁打は前年以上、打点も92を挙げて「いてまえ打線」の中核を
  為した。この年は打点王も獲得し、ベストナインにも選ばれている。
   成績を見てもらうとわかるが、案外と脚もあり、隙を見てよく走っていた。守備も良く、ゴールデングラブにも選出
  されるほどだった。30歳という脂の乗りきった年齢であり、まだまだ近鉄のために尽くせるはずだったが、年俸面で
  折り合わず、とうとう退団してしまった。いくら要求されたがわからないが、何とももったいない話。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
トレーバー 左左  一 90 近鉄 123  495  64 150  92   24   28  70   2 .303
      91  〃 124  486  61 132  92   29   37  51  11 .272
 計      2   247  981 125 282 184   54   65 121  13 .287

  ジェシー・リード(Jessie Reid)

   80年ドラフト1位でジャイアンツ入り。87年にメジャーへ上がったものの、90年には再びマイナー落ちした。
  それで見切りをつけたのか、91年に来日、近鉄入りした。7月のことである。なにせこの年は、ブライアントが
  故障し、カンセコは使えなかった。それでいてチームはライオンズと優勝争いをしていたため、何としても有能
  な外国人選手が必要だったのである。バファローズの救世主となるべくチームに加わったリードは、ホームラン
  こそ今ひとつだったが、そこそこの働きを見せ、充分に戦力になった。これなら、翌年は最初から使ってやれば
  かなりの成績を残してくれそうだったが、新外国人デービスにその座を奪われてしまう。その後は第三の外国人
  選手扱いでファーム暮らしが多く、モチベーションがかなり低下してしまったようだ。その結果、前年よりも成績
  は落ち、この年で退団した。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
リード 左左  外 91 近鉄  51  182  31  50  34   10   32  37   0 .275
      92  〃  77  246  33  57  37   10   48  66   0 .232
 計      2   128  428  64 107  71   20   80 103   0 .250

  オスバルド・カンセコ(Osvaldo Canseco)

   言わずと知れた大リーグのスーパースターだったホセ・カンセコの双子の兄にあたる。83年に、ドラフト2位で
  ヤンキース入りするが、これは投手として入団している。その後、85年に外野手に転向している。86年に1A、
  88年に2Aに昇格したものの、そこまでである。バファローズ入りした91年まで、メジャーはもちろん3A経験も
  なかった。189センチ101キロと体格は立派だったが、弟ほどの素質はなかったようだ。
   扱いは、トレーバー、ブライアントの次ぐ第三の外国人だった。当然、ファーム暮らしだったが、くさることなく
  .271、8ホーマーの成績を残していた。ところが7月になると任意引退選手とされてしまった。これはクビという
  わけでなく、単に支配下選手数が規定を超えてしまったための処置である。しかしこの扱いでは二軍戦にも出られ
  ず、さすがにカンセコも態度を硬化。そのまま退団してしまった。帰国後は3Aでプレーしている。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
カンセコ 右右  外 91 近鉄   0   0   0   0   0    0    0   0   0  −

  アルビン・デービス(Alvin Davis)

   82年にプロ入りすると、84年には早くもマリナーズでメジャー昇格し、いきなりオールスター戦に選出されるほど
  に大活躍する。結局、この年は新人王を獲得した。以来、8年間に渡ってマリナーズのファーストを守り続けた。92年
  にエンゼルスへ移籍したがレギュラーにはなれず、同年6月バファローズ入りした。
   優勝争いのライバルだった西武戦には滅法強く、チャンスで好打を放ったが、どういうわけか他球団戦ではさっぱり
  だった。彼は、役に立たなかったビーンをわずか三ヶ月で解雇してまで獲得した選手だったが、結局、彼もリードに
  その座を奪われることとなった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
デービス 右左  一 92 近鉄  40  131  10  36  12    5   15  19   1 .275

  ウィリアム・ビーン(William Bean)

   86年のドラフトでタイガース入りする。87年に3A、さらにメジャーへ昇るという順調な出世だった。しかし、90年
  91年とまたしても3Aに落ちてしまい、92年に来日して近鉄入りした。一発長打というよりも、左右に打ち分ける
  スプレーヒッターとして評価が高かった。従って日本向きと思われていたが、思うような結果が出なかった……と
  いうよりも、いくら何でも早く見切りすぎであろう。結局、第三の外国人扱いだったのに、たった三ヶ月で解雇されて
  しまった。7試合しかチャンスを与えていないのでは、ビーンの方にも言い分はあるだろう。
   帰国後はパドレスでメジャー復帰を果たしたが、3Aとの往復だったようだ。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ビーン 左左  外 92 近鉄   7   24   2   5   2    0    1   5   0 .208

  ルイス・アキーノ(Luis Aquino)

   81年のドラフト外でブルージェイズに入団したプエルトリカン。3Aを経て86年にメジャー入りした。以後、ロイヤルズ、
  マーリンズ、エクスポスと渡り歩き、96年にバファローズにやってきた。あまり球速はなく、スピードで勝負するタイプ
  ではなかったが、コントロールは良く、変化球中心のピッチングは日本球界に合っていたように思う。長い手足を振り
  回し、くにゃくにゃした投法で、モーションに対して長い腕が遅れて出てくる投げ方に、日本の打者はけっこう面食らっ
  ていたようである。確か「タコ投げ」とか「オクトパス投法」とか言われていたのじゃなかったかな。この年、近鉄投手陣
  は不調を極めており、11勝したアキーノがチーム最多勝だった。にも関わらず、なんと1年こっきりで解雇されている。
  まだ32歳だったし、まだまだ近鉄投手陣の一員として頑張れたと思うのだが、意味不明な処置だった。球団側の言い
  分としては「もうアキーノのピッチングパターンは覚えられてしまった」とのことだが、何じゃそら。相手が研究すれば
  こっちだってする。そんなのはプロなら当たり前である。クビの理由になるとはとても思えない。
   帰国して97年にはタイガースのキャンプに参加したが、メジャー復帰は叶わなかったようだ。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
アキーノ 右右 96 近鉄  25 11  9 156.0   2   1   59  58  75    7 4.04

  カイル・アボット(Kyle Abbott)

   エンゼルスにドラフト1位指名されたのが89年。90年に3A、91年にメジャー昇格と、トントン拍子だったが、92年
  にはフィリーズに放出されてしまう。その後また3Aに落ちてしまい、94年に日本へ渡った。192センチ88キロのがっ
  しりした体格を持つ陽気なアメリカンで、92年フィリーズでローテーション投手だった実績もあり、近鉄はエース格に
  期待した。実際、速球は常時140キロ超で、抜群の球威を持っていたが、惜しいことに来日してから右脚を故障して
  しまい、思うような投球が出来なかったのは、アボットにとっても近鉄にとっても残念だった。しかしまだ27歳の若さ、
  1年で切る必要はなかったと思える。はっきりしないが、よほど右脚の故障が重傷だったのだろうか? しかし翌年に
  は再びフィリーズでメジャー復帰しており、まったく惜しいことをした。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
アボット 左左 94 近鉄   4  0  0  11.6   0   0    9   8  11   10 7.71

  リー・スチーブンス(Lee Stevens)

   86年ドラフト1位でエンゼルス入り。90年にメジャー昇格を果たしたものの、またすぐにマイナー落ちする。
  192センチ99キロの巨漢にしては、おとなしそうな顔つきで、実際おとなしかった。当時の監督が闘将・鈴木啓治
  だったこともあり、闘志不足と判断されたのか、6月くらいまでは干され気味で、成績もさっぱりだった。それでも
  夏場になると本領発揮、7月、8月と爆発的に打ちまくった。それに引きずられるようにチームも快進撃、5位と
  低迷していたのが一気に首位争いにまでのし上がった。結局、息切れして優勝こそならなかったが、彼の打棒
  は再評価されている。翌年も当然のように契約し、スチーブンスもやる気満々だったのか、今度は春先から絶好調。
  4月にいきなり10ホーマーを放って月間MVPを獲得した。しかし、それ以降は思うように成績が上がらず、近鉄
  としても、その年限りで整理した。が、これには裏があるようで、実際にはこのシーズン途中からメジャー球団から
  声がかかっていたらしい。そのせいで……と思えば思えなくもないが、これは穿ち過ぎか。
   帰国後はレンジャースでメジャーに復帰。97,98年にはDH兼一塁手としてレギュラーを張っていた。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
スチーブンス 左左  外 94 近鉄  93  302  44  87  66   20   29 100   3 .288
      95  〃 129  476  54 117  70   23   47 129   0 .246
 計      2   222  778  98 204 136   46   76 229   3 .262

  ブライアン・シャウス(Brian Shouse)

   90年にパイレーツに13位指名されてプロ入り。93年にメジャー昇格し、オリオールズ、レッドソックスへ移籍した
  あと、98年6月に近鉄入り。シーズン途中の入団は、当時の近鉄が著しい投手不足に悩まされていたため。
  早速、中継ぎとして試運転させたものの、登板させた8試合、まるでピリッとせず。こりゃあダメだと先発をさせたもの
  の、こちらも3試合連続KOという体たらく。しかし、普通は、まず先発させてダメなら中継ぎとか、あるいは中継ぎで
  結果が出ているから先発させてみるとかするものだが、シャウスの場合はまるで逆なのね(^^;)。
  先発も失格とされ、また中継ぎで2試合ほど放ったものの結果が出ず、とうとうファーム落ち。そのまま一軍復帰する
  こともなく退団した。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
シャウス 左左 98 近鉄  13  0  2  26.3   0   0   13  20  20   19 6.49

  フェルナンド・デラクルーズ(Fernand Delacruz)

   メジャー経験はなく、2Aが最高。98年の秋季キャンプでテスト入団した。178センチ76キロと、大柄な方では
  なかったが、南米出身(ドミニカ)らしく強靱な筋肉を持っていた。それを活かした剛速球は確かに威力があり、150
  キロ近いスピードを計測したものの、案の定、細かいコントロールはなかった。なかなか一軍へは上がれなかったが、
  ファームではクローザーを務め、チーム最多の32試合に登板し5勝6敗9セーブを挙げている。一軍では1試合だけ
  登板したものの特に見るべきところはないと判断されたのか、わずか一年で解雇された。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
デラクルーズ 左左 99 近鉄   1  0  1   2.0   0   0    1   1   2    1 4.50

  デニス・パウエル(Dennis Powell)

   83年にドジャース入りし、2年後の85年にメジャー昇格した。87年にマリナーズへ移り、それからまたマイナー
  に落ちた。メキシカン・リーグを経て94年秋に来日する。秋季キャンプに参加し、テストを受けて合格した。
  ストレートのスピードに不満はあったが、変化球主体のクレバーなピッチングで日本向き、しかも左腕であるという
  利点もあって首脳陣の目に留まったようだ。95年春のキャンプやオープン戦ではそこそこの成績を残したらしく、
  開幕第2戦の先発に抜擢された。ここで見事に結果を出し、完投勝利を挙げてチームの信頼も増した。
  ……のであるが、実はこれっきりであとは全然パッとしなかった。その後、完封勝利したこともあったが、結局、
  勝ち星はその2勝のみ。コントロールは良く、四球を出さないので安定はしていたが、いかんせん球威がなく、
  ここぞというところで痛打され、勝ちに恵まれなかった。それなりにまとまっていた投手だったし、勝てなかった原因
  の半分くらいは、打てず守れないバックにもあったので、クビにすることはなかったと思うのだが。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
パウエル 左右 95 近鉄  23  2  7  83.3   2   1   36  54  40   34 3.67

  ロバート・ミラッキ(Robert Milacki)

   83年、パドレスにドラフト1位指名されるものの、これを拒否。しかし同年の二次ドラフトでオリオールズに指名
  されると入団した。パドレスがイヤだったのかな? メジャーに上がったのは88年と時間がかかったが、翌89年
  には14勝を挙げ、主力投手の仲間入りした。90年にも9勝してローテーションを守った。その後も2ケタ勝利を
  挙げるなど、実績は充分だった。そのミラッキが来日、バファローズ入りしたのは97年である。

   しかし、キャンプ地に現れたミラッキを見て、ナインは「ん?」と思った。192センチ104キロの巨漢だとは聞いて
  いたが、その104キロはどう見ても眉唾で、110キロは充分ありそうだった。巨漢というよりは巨体である。顔は
  下ぶくれで二重顎、腹も弛んでいた。これがメジャーで二度も2ケタ勝った男とは思えなかったが、キャンプで絞る
  つもりかも知れない。そう思ったが、シーズンになってもこの調子だった。
  とても一軍では使えぬと、開幕は二軍スタート。なんとか6月に一軍へ上がったが、まるでダメだった。6月27日
  の西武戦では、初回にいきなり10失点という無様な投球を見せ、すっかり信頼を失ってしまった。結局、まったく
  使えないままこの年限りで整理された。しかし、帰国した翌年にはダイヤモンドバックスでメジャー復帰している
  ところを見ると、実力的にダメというよりも、どうも日本でやる気がなかったのではないだろうか。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
ミラッキ 右右 97 近鉄   6  0  2  24.6   0   0   21   9  21   20 7.30

  ロバート・マットソン(Robert Mattson)

   メジャー経験はなく、2Aとメキシカン・リーグを経てバファローズ入りした。パウエルやデラクルーズと同様、秋季
  キャンプに参加してテスト合格した。多分、日本ではほぼ初めての本格的なナックルボーラーではなかったろうか。
  ここで言う「ナックルボーラー」とは、単にナックルボールを投げる投手のことではない。全投球の大部分がナックル
  だというピッチャーのことを言う。メジャーではぽつりぽつりといるが、日本ではここまで徹底した投手はいなかった
  ろう。筆者も、期待を込めて見ていた記憶がある。

   さて、このマットソン、やはり日本のストライク・ゾーンに戸惑い、日本式野球に面食らって、一軍開幕はならなかっ
  た。特に彼のような投手は、打者にナックルを見送られた場合、どのタマをストライクにとってくれるのかがしっかり
  把握できないと、四球連発というハメに陥るからだ。何とか6月には一軍昇格、そのピッチングを披露した。
  コントロールを心配する関係者が多い中、これが案外と通用した。特に、当時、強打を誇ったファイターズ打線は、
  マットソンのナックルに面白いように手を出し、空振りを取られ、凡ゴロを量産し、ポップフライを打ち上げた。概して
  振り回してくる打者はクルクルとバットが回っていた。結局この年は、10勝は出来なかったものの、それでもチーム
  最多勝をマークしている。もちろん翌年も契約したが、さすがに2年目は日本の打者たちも研究してきた。ボックスの
  後ろに立ち、じっくりとボールを見る待球戦法に出たのである。これをやられるとナックルボーラーはつらい。もともと
  細かいコントロールのある投手でなかっただけに、苦し紛れに投げてくる直球を痛打され、キレの悪いナックルも
  打ち返されることとなった。
   2年で解雇されたが、個人的には好きな投手だったので、もうちょっと様子を見て欲しかったかなあ、と。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
マットソン 右左 98 近鉄  24  9  7 131.6   5   1   62  74  57   52 3.55
    99  〃  20  5  4  84.3   2   0   52  59  44   44 4.70
  計    2    44 14 11 216.0   7   1  114 133 101   96 4.00

  カルロス・バルデス(Carlos Valdez)

   90年4月、ドラフト外でSFジャイアンツに入団し、ドミニカ・リーグで投げていた。95年に3A、そのままジャイ
  アンツに昇格する。98年にはレッドソックスへ移籍するものの、ほとんどは3A暮らしだった。近鉄入りしたのは
  99年。
   クローザー・大塚晶則投手の故障で、抑えに抜擢された。ガッツもやる気も球威もあったが、それが空回りする
  ことが多かった。気が強いというよりは荒っぽい気性で、アンパイアの判定やバックの守備の乱れでカリカリする
  ことも多く、ナインや首脳陣の信頼は失墜した。性格的にも球威からしても抑えに向いていたとは思うが、いかに
  も短気すぎて、チームの手に余ったようだ。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
バルデス 右右 99 近鉄  48  3  3  57.6   0   0   33  35  35   31 4.84

  カール・ローズ(Karl Rhose)

   タフィは愛称。86年、アストロズのドラフト3位でプロ入りし、90年にメジャー昇格。その後、カブスとレッドソックス
  に移籍し、近鉄入りしたのは96年。他の外国人選手とはひと味違って、すぐに日本に馴染んだ。片言ながら日本語
  を扱い、マスコミやファンにも人気があった。実力の方も一級品で、初年度から見事な働きを見せていた。どちらかと
  いうと、ホームラン打者というよりはチャンスに強いクラッチヒッターというイメージだったが、99年には40ホーマーして
  本塁打王を獲得した。この年は101打点で打点王も獲っている。同僚にホームラン屋の中村紀がいたため、意図的
  にホームランは捨てていたのかも知れない。
   2000年は全部門で成績を落とし、年齢的なことやケガもあり、限界かとも思われたが、2001年にはなんと55本も
  スタンドに叩き込んで度肝を抜いた。この年は、最終戦で新記録を作るチャンスがあったが、運悪く王監督率いるダイエ
  ー戦だったため、軒並み四球攻めされて記録を逃してしまった。後に巨人へ移籍した。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三 振 盗塁  打率
ローズ 左左  外 96 近鉄 130  501  80 147  97   27   58  122  11 .293
      97  〃 135  511  88 157 102   22   91  109  22 .307
      98  〃 134  494  81 127  70   22   81  120  15 .257
      99  〃 131  491  94 148 101   40   71  115   5 .301
      00  〃 135  525  85 143  89   25   60  134   6 .272
      01  〃 140  550 137 180 131   55   91  140   9 .327
                             
  計       8    805 3072 565 902 641  191  452  606  68 .294

  クリス・ドネルス(Chris Donnels)

   87年、メッツのドラフト1位でプロ入り。91年メジャー昇格すると、93年アストロズ、95年レッドソックスを経て
  近鉄入りする。96年入団当時の登録名はイニシャルのCD。
   なんというか不思議な打者で、頼りない印象ばかりが目立ったのだが、成績はそこそこのものを残している。
  守備も特別巧くはなく、話にならないほどヘタでもなく、とにかく印象が薄い。恐らく、ファンの方々もCDという
  選手がいたことは記憶しているだろうが、じゃあどんな選手だったのかと聞かれると困るのではないだろうか(^^;)。
  まあ年俸がそこそこなら、このくらいでもいいかな、というレベルの選手に見えたなあ。
   初年度は、打点が少々低かったものの、率も本塁打も「まあまあ」で、いかにもドネルスらしかった。しかし、
  右手の親指を負傷して投げられなくなってしまい、バファローズは考えた挙げ句、解雇したらしい。まだ30歳
  だったし、様子を見ても、という意見もあったのだろう。しかし、どうってことない成績だったしね(^^;)。
   その後ドネルスはメジャー復帰を目指して大リーグの春季キャンプに参加、レッドソックスでメジャー枠に入れ
  たのだけど、開幕寸前で解雇され、マイナー行きになってしまう。そこに日本のオリックスから声がかかり、再来日
  することとなったわけだ。チーム力低下に喘ぐオリックスでは、爆発力こそないものの、安定した成績を残せる選手
  が欲しかったのだろう。しかし98年に右肩を壊し、そのシーズンは以後棒に振ってしまう。意を決して99年に手術
  に踏み切ったものの、完治の見込みなしとして解雇されてしまった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三 振 盗塁  打率
ドネルス 右左  一 96 近  鉄 108  324  50  91  53   20   55   86   3 .281
      97 オリックス 112  384  55 116  67   17   86   80   0 .302
      98  〃  44  140  17  37  22    5   24   44   1 .264
      99  〃   0    0   0   0   0    0    0    0   0  −
  計       4    264  848 122 244 142   42  165  210   4 .288

  フィリップ・クラーク(Phillip Clark)

   86年のドラフト1位でデトロイトに入団した逸材。92年にメジャー昇格を果たすと、翌年パドレスへ移籍し、
  本領を発揮する。一塁手のレギュラーとしてほぼフル出場を果たし、.313をマークするのだ。しかしながら、
  以後はケガや大物選手に出番を奪われていき、とうとうマイナーへ。当然、マイナーでは大活躍で、この活躍
  ぶりがバファローズの目に留まることとなる。よって彼は、近鉄に請われ、97年に来日した。
   もともと大リーグのレギュラー級の実力があっただけに、来日早々からその打棒が炸裂する。同僚のローズ
  との3,4番コンビは、その勝負強さ、爆発力、いずれをとっても他球団からの脅威となった。
  182センチ90キロのがっちりした体格の黒人選手だったが、思いのほかからだが柔らかく、シュアなバッティ
  ングが持ち味だった。パワー的には申し分なかったものの、敢えて一発長打はローズや中村に任せ、好機で
  走者を帰す打撃に徹していた。初年度から23ホーマー、94打点は立派だが、それよりすごいのはシーズン
  174本もヒットを放っているのことである。翌年も170安打しているし、打点は114まで伸ばしている。
  3年目にホームランが増えた分、やや成績が落ちているが、それでも十二分に合格圏内だろう。98年が彼の
  ピークだが、この年はシーズン48二塁打の日本記録を樹立し、同時に年間81長打という記録も打ち立てて
  いる。これだけの成績を残しているのだが、どういうわけかタイトルには縁がなかった。

   クラークにとって運がなかったのが4年目のシーズン。右腕を骨折してしまい、近鉄は完治を待たないまま
  解雇した。この時点で、まだ32歳だっただけに、少し早まったのではないかと思ったものだが、クラークは
  帰国した後は球界に復帰していない。その怪我は、野球選手にとっては致命傷だったのかも知れない。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三 振 盗塁  打率
クラーク 右右  一 97 近鉄 135  526  61 174  93   23   38   67   1 .331
      98  〃 135  531  68 170 114   31   52   75   0 .320
      99  〃 134  509  79 146  84   29   57   64   4 .287
      00  〃  66  252  31  65  33   10   21   27   0 .258
  計       4    470 1818 239 555 324   93  168  233   5 .305