〜近鉄バファローズ編〜


 1970年代   〜我慢、我慢の年代〜

   パシフィックのお荷物とまで言われたバファローズ。それでも、弱いだけに、人気がないだけに熱心だったファンの
  応援、地味ながらコツコツと続けてきた補強が、徐々に実を結びつつありました。そこへやってきたのは、かの「灰色
  のチーム」阪急ブレーブスを鍛え抜き、立ち直らせた闘将・西本幸雄でした。彼の情熱と鉄拳に、午垂を貪っていた
  腰抜け水牛に腰が入ってきました。栄光はすぐそこまで近づいています。


  クリストファ・アーノルド(Christopher Arnold)

   71〜76年までSFジャイアンツでセカンド、サードを守った白人選手。180センチ79キロと、日本人と大差ない
  体格で、バファローズでも二塁を守った。同時期の一発屋・マニエルとは対照的に、投球に対して無理のないシュア
  な打撃でチームに貢献した。外国人選手としてはいささか力不足で、長打力に欠け、といって3割を打つわけでも
  なかったが、チーム打撃にも素直に従い、打撃同様守備も堅実で、全般的に野手不足だったバファローズにとって
  欠かせない選手だった。恐らく、よほどの近鉄ファンでもなければあまり印象に残っている選手ではないと思うが、
  79年の初優勝時には主力として貢献している。
   なお、引退後は来日して日本球界入りするアメリカ人選手のマネージングをやっていた。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
アーノルド 右右  二 78 近鉄 123  402  59 110  72   15   21  61   5 .274
      79  〃 116  395  57 114  65   17   28  62   6 .289
      80  〃  91  254  38  64  37   11   22  57   1 .252
   計        3    330 1051 154 288 174   43   71 180  12 .274

  マイケル・アンドリュース(Micael Andrews)

   66年にレッドソックスでメジャー昇格。翌年にレギュラー二塁手となった。以後、ホワイトソックス、アスレティックス
  と移籍し、67年と73年にはワールドシリーズにも出場した。190センチ88キロの筋肉マンで、こういう選手が二塁を
  守るということ自体、筆者はショックだった記憶がある。バリバリのメジャーリーガーで、Wシリーズにも出たということ
  で、チームの期待も大。当然、クリーンアップを任されたが、これがどうしたことかサッパリ。

   どのメジャー選手も必ずぶち当たる難問。日本投手の変化球攻めであった。速球で勝負し、力でねじ伏せる投球を
  する投手がこの時代まだ多かった大リーグとは一変、カウント稼ぎではなく勝負球で変化球ばかりの日本人に面食ら
  った。思ったより三振は少なかったが、逆に、振りかけたバットにボールが当たるなど、中途半端な打撃が多かった。
  きちんとスイングさせてもらえば、一発長打の魅力充分だったが、そこまで日本の投手は甘くなかった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
アンドリュース 右右  二 75 近鉄 123  389  31  90  40   12   28  43   2 .231

  エライジャ・ジョンソン(Elijah Johnson)

   メジャー経験のない31歳黒人選手。183センチ84キロのがっしりした体格で、闘牛を思わせる体つきだった。
  マイナー選手なので年俸も安く、パワーはありそうだったので2年契約を結んだ。ところがフタを開けてみると球団の
  期待は失望に変わる。守備はもちろんうまくないし、いつまで経ってもそのバットから快音は聞かれなかった。にも
  関わらず、待遇が悪いの、設備がなってないの、と不満ばかり。身体の不調を訴えて練習や試合をサボることもしば
  しばで、いい加減ハラを立てた球団が、オフの契約更改で年俸50%ダウンを申しつけると、「そんならやめた」とあっ
  さり退団表明。2年契約だから、と仕方なく更改しようとした球団も、「渡りに舟」と契約解除した。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ジョンソン 右右  一 71 近鉄  52  130  12  24  15    7    7  29   0 .185

  ジャン・テハダ(Juan Tejada)

   写真や名前から推察するに南米系の選手と思われるが詳細不明。何しろ出身校もわからないらしい。
  カナダのセミプロチームで3割を打っていたということがわかっているだけで、他はさっぱり不明。どういう経緯で
  バファローズが情報を得たのかわからないが、ミートの巧い中距離打者という触れ込みだったらしい。4月、開幕
  後の来日だったが、まるで通用しなかった。最初は一塁のポジションを与えられたが、ベンチに下がるのも早かっ
  た。
   ただ、ベンチではやたら元気がよく、「打撃は2Aクラスだが、ヤジはメジャー級」と言われたそうな。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
テハダ 左左  一 70 近鉄  38   60   2   9   6    2    4  15   1 .150

  チャールス・ブラッドフォード(Charles Bradford)

   66年、ホワイトソックスでメジャー入りし、インディアンス、レッズ、カーディナルスを経て近鉄入りした。
  183センチ89キロの巨漢黒人選手で、メジャー経験のあるホームラン打者として招かれたものの、これも空振り。
  ほぼまるっきり役に立たず、脚の故障治療を名目に帰国し、そのまま帰って来なかった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
バディ 右右  外 77 近鉄  56   78   8  15  11    4   10  23   4 .192

  フランクリン・コギンス(Franklin Coggins)

   67年、セネタースでメジャー昇格、72年カブス移籍、その翌年に来日した。鼻髭を蓄えた剽軽な顔を黒人選手
  だった。サードを守るスイッチヒッターとして球団の評価は高かった。ホームランも打てる好打者だということだった
  が、これもサッパリダメだった。スタメンやクリーンアップなど夢のまた夢で、代打でも数字を残せなかった。ほとんど
  がファーム暮らしで、それで怒ることもなかった。救いのないことにやる気もなかったようで、まるで話にならない
  選手だった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
コギンス 右両  三 73 近鉄  13   40   3   5   4    2    0   8   0 .125

  テリー・ハンキンス(Terry Hankins)

   メジャー経験はなかったが、まだ23歳と若く、サードの両打ということでテスト入団した。日本球界向きという判断
  だったそうだが、結果から見ればテストが甘かったということだろう。守備も打撃もからっきしで、これなら新人三塁手
  (佐々木恭介)の方がずっとマシということで、早々に見切られてしまった。まあ、数字は悪いがまだ若いし、テスト
  までして獲ったのだから、2,3年ファームに置いて鍛えるくらいも気持ちがあってもよかったろう。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ハンキンス 右両  三 72 近鉄  24   43   2  10   2    0    5   9   0 .233

  ジェームス・クォルス(James Qualls)

   69年にカブスでメジャー入り。エクスポス、ホワイトソックスへ移り、72年にバファローズ入りした。
  スイッチヒッターで、一塁の他、二塁、遊撃も守れ、外野も出来た。ただし、179センチ72キロと、力強さには欠けた。
  どこでも守れ、代打でもいけるバイ・プレイヤーとしてベンチは重宝する選手だったろう。1年目は、規定打席には足り
  なかったが.292と数字を残し、ホームラン9本と少ないながら、そのうち2本は満塁アーチと勝負強さもかいま見せた。
   なかなか便利ということで2年目も契約したが、今度は打率も低下し出場機会も減った。試合出場数は同じだが、1年
  目は一塁を守り、5番や6番を打っていたものの、2年めはスタメンを外れることが多かった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打 数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
クォルス 右両  一 72 近鉄  81  318  42  93  48    9   12  25   4 .292
  73  〃  81  302  32  63  23    6   12  30   2 .209
  計   75    162  620  74 156  71   15   24  55   6 .252

   ラモン・サントス(Ramon Santos)

    ドミニカ出身で、アメリカ球界の経験はない。ドミニカ海軍チームに所属したサウスポーで、ドミニカ・ナショナルチームに
   選抜され、キューバを相手に完投勝利した19歳ということで俄然注目を集めた。それに目をつけたバファローズが入団に
   こぎ着けたが、サントスは日本のストライクゾーンに戸惑うばかり。一軍にも上がれずファーム暮らしだった。それでもまだ
   10代の若さだったから、秋季キャンプにも呼ばれたが、なぜか翌年1月で任意引退選手となった。詳しい事情はわから
   ないが、様々な意味で異境の地に慣れ親しめなかったということではなかろうか。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
サントス 左左 70 近鉄   0  0  0  0.0   0   0    0   0   0    0   −

  クラレンス・ジョーンズ(Clarence Jones)

   67年にカブスへ昇格したものの、それから2年で68試合に出場したのみのスペア選手だった。191センチ93キロの
  偉丈夫で、腕っ節の強さとアフロが自慢の黒人選手だった。ホークス入団一年目から長打力は爆発し、いきなり33ホー
  マー。以後も、南海在籍4年間すべてで30発以上の本塁打を放つ主砲の働きをした。にも関わらず、ホークスを出され
  てしまう。それを拾ったのがバファローズだったが、本塁打不足に喘ぐチームには大きな補強となった。
   移籍後も、その長打力を遺憾なく発揮、74年、76年と本塁王のタイトルを獲得している。また、南海時代も72年には
  オールスター戦にも出ているし、74年にはベストナインも受賞した。意外なのは守備も上手で、73年には一塁手として
  ダイヤモンドグラブにも選ばれた。南海ファンというよりも、近鉄ファンの方がより印象深い選手だと思われる。

   欠点は、やはり大振りから来る打率の低さで、それはジョーンズ本人もわかってはいただろうし、チームもそれは折り
  込み済みだったろう。恐らくすべての打席で一発を狙っていたろうし、結果として三振が増え、率が落ちるのは承知だった
  と思われる。突然変異的に、72年だけ.292も打っているが、これは例外であろう。三振と言えばジョーンズと思われて
  いたほどに振り回す選手だった。後年、広島に在籍したランスも、このジョーンズタイプだろう。
   最終年は36歳ということもあってだいぶ力が衰えていたが、それでも8年間もプレーした息の長い外国人選手であった。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ジョーンズ 左左  一 70 南海 128  443  69 108  88   33   81 102   9 .244
      71  〃  125  412  62  95  73   35   71  94   4 .231
      72  〃 126  452  65 132  70   32   55  82   4 .292
      73  〃 126  410  75 100  76   32   90  93   1 .244
      74 近鉄 130  411  66  93  90   38   99 112   5 .226
      75  〃 130  429  54  98  73   29   92  98   3 .228
      76  〃 114  377  54  92  68   36   68  87   0 .244
      77  〃  82  248  30  44  24   11   40  51   0 .177
   計        8    961 3182 475 762 562  246  596 719  26 .239