〜横浜ベイスターズ編〜


 1990年代   〜輝かしい黄金時代〜

   もちろん、大矢監督で下地を作り、権藤監督に率いられて1998年に優勝したから、ということもあります。
  が、それ以上に、この時期に来日した外国人選手たちの素晴らしかったこと! 短命で終わった選手もおり
  ますが、「なぜ??」という疑問符付き解雇も多かった。ハズレもいないわけではありませんが、総じて合格
  点ばかりだったと思います。スカ外国人選手に泣かされる他球団から見れば、うらやましい限りの補強ぶり
  でした。もっとも、投手だけはスカのオンパレードだったようですが、まあメジャーでも慢性的な投手不足です
  から、好投手を獲得するのは相当難しいのですがね。


  タナー・マイヤー(Tanner Meyer Jr.)

   81年にエンゼルスのドラフト8位指名を受けるものの入団を拒否、ハワイ大へ進学。その後、83年にブリュ
  ワーズに5位指名されてプロ入りする。ルーキーイヤーに、1Aながら三冠王を獲得した。3Aに昇格後、本拠地
  のデンバースタジアム3階席最上段に叩き込む165メートル弾を打ち込んで一躍注目を浴びた。88年にメジャー
  入り(ブリュワーズ)し、90年に横浜入り。
   そのがっちりした体つきに見合う長打力を期待され、またそれに応えた。力強い豪快なスイングで、まともに
  ミートすればウソのようにボールがスタンドに消えた。実績のあったかのポンセを押しのけて4番を打っていたの
  もうなずける。率も打点も、そしてホームラン数も悪くはなかったが、一年で解雇された。問題は守備だったのだ。
  もう、脚は遅いわ肩はないわ、挙げ句キャッチングもまずいわではどうにもならなかった。バッティングは充分に
  通用したから、指名打者としてパシフィックへの移籍も視野に入れたが、どうやら買い手がなかったらしい。
   191センチ118キロの巨漢、そして褐色の肌。誰かに似ている。そう、同じハワイ出身の、大相撲・元横綱の
  曙太郎の従兄弟なのだ。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
マイヤー 右右  一 90 大洋 104 378  59 104  77   26   44  82   0 .275

  ロバート・レイノルズ(Robert Reynolds)

   80年のドジャース2位指名でプロ入り。83年にメジャー昇格して、85年にパイレーツへ移籍した。
  その後、90年にメジャー・オールスターの一員として来日、その時の活躍が印象に残って、その直後に
  横浜と契約する。もっとも、オールスターとはいえ、二戦級の選手たちも混じっていることも事実。でなけ
  れば、こんな電光石火な入団劇はなかったろう。まだ31歳で脂が乗りきったところだったのだし。
  それでも、183センチ82キロの俊敏な黒人選手は、難なく日本球界に馴染んだ。メジャーや日米戦で
  見せたような俊足は見られなかったが、実はその当時すでに膝を故障していたらしい。なるほど、
  パイレーツがあっさり手放したワケである。それでもレイノルズ自身はよく頑張った方だ。盗塁は少なかっ
  たが、常に次の塁を狙う走塁や、ゲッツー防ぎのスライディングなどは、さすがメジャーと唸らせた。

   バッティングも、長打力こそなかったが、シュアな打撃は日本向きで、楽に3割をマークしている。
  91年には日本記録になる11打席連続安打をやってのけるなど、充分に戦力になった。それでも、膝が
  完治せず、成績も落ちたこともあって2年で自由契約。93年には近鉄に拾われ、そこそこの成績を
  残したが、1年限りで解雇された。
   なお、今、日本球界でも主流になっているスタイルで、アンダーソックスをズボンで完全に隠すという
  のがある。これはメジャーで流行り始めたことで、脚を長く見せる効果があるとのことだったが、これを
  日本に持ち込み、最初にやったのがこのレイノルズだった。今ではほとんどの選手がこれをやるが、
  レイノルズくらい脚が長くないと、かえって短く見えるよね、あれ。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
レイノルズ 右右  外 91 大洋 118  468  71 148  80   15   38  77  17 .316
      92  〃 113  427  57 106  66   19   41 102  12 .248
      93 近鉄 104  336  46 100  50   18   30  74  12 .298
   計        3    335 1231 174 354 196   52  109 253  41 .288

  ラリー・シーツ(Larry Sheets)

   78年、オリオールズのドラフト2位でプロ入り、84年にメジャー昇格した。面白いのは、プロに入ったのに、
  79年、80年、81年はほとんど野球をやってないこと。なんでも、プロでやっていくのが不安で、食いっぱぐれ
  ないようにしようと大学へ行っていたとのこと。これで87年には保健体育学の学位をとったというから、感心と
  いうか、「野球やれよ、おまえ」というか(^^;)。その87年には主力打者として活躍、.316、31ホーマーと
  打ちまくった。かのノーラン・ライアンに「もっとも打ち取りにくい打者のひとり」とまで称された。
  90年にはタイガースへ移ったが、91年に契約で揉めて退団。91年にはイタリアのプロリーグに行っていた。
  これに目を付けていたのが、かの牛込氏で、さすがに抜け目がない。シーツ自身も、オリオールズ時代に
  日米野球で来日しており、そこで4割、4本塁打、11打点と活躍していて、日本野球にも不安はなかったの
  だろう。
   彼は期待通りだった。メジャー通算93本塁打の実績は伊達でなく、横浜でもクリーンアップとして猛打を
  振るった。とにかく勝負強く、ここぞというところでよく打った。ホームランの割りに打点が多いのもそのせいだ
  ろう。打率も3割打っていたし、何の問題もなく来季契約更新だとみんな思った。ファンも思った。なのにクビだ。
  なぜだ、なぜなんだ!?(−−;)

   例によって球団の言い訳は、「守備がまずい」(そんなにひどくはなかったよ)、「ホームランがもっと欲しい」
  (26本打ちゃ上等じゃん。100打点だよ?)というもの。そんなバカな理由を信じる人はいないわけで、実際
  はカネらしい。このシーツ、いかにメジャー実績があろうとも来日前は野球後進国イタリアのセミプロにいた、と
  いうことで、けっこう年俸を安く抑えられてたらしい。それにも彼は不満はあったわけで、ならばと日本で好成績
  を残した。これで文句はあるまいと大幅アップを望んだわけだ。希望金額自体は、その頃の外国人選手年俸
  から見れば異例でもなかったのだろうが、なにせ元が安かったからアップ率は凄かった。球団はそれを拒否。
  結局、物別れで退団ということらしい。
   タダで退団されたんじゃ被害が大きいということで、パ・リーグ球団へトレードして商売しようとしたらしいが、
  そっちはシーツが拒否。「それなら帰国する」と言うことで、日本では1年のプレーとなった。もったいなこと夥しい。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
シーツ 右左  外 92 横浜 131 487  61 150 100   26   46  59   1 .308

  グレン・ブラッグス(Glenn Braggs)

   80年のヤンキース6位指名を断ってハワイ大へ進む。83年のブリュワーズのドラフト2位でプロ入りした。
  メジャー昇格は86年で、90年にレッズへ移籍した。本格的な活躍はそれからで、かのビッグレッドマシンの4番
  を打ち、チームに貢献していた。彼が日本へ来ると聞いた時、ファンはみんな驚いた。去年までメジャーで4番を
  打ってた選手が来日したのである。193センチ100キロという巨漢だが、精悍で黒豹のような黒人選手だった。

   ファンと球団の双方から絶大な期待を受け、その夢をバットに乗せて豪打を放った。実際にブラッグスのプレー
  を見ることが出来たファンは、フルスイングとかパワー・バッティングとは彼のためにある言葉だということが実感
  できたろう。なにせ、当てるとか流すとか、そういうせせこましい打撃とは無縁だった。といって荒っぽかったわけ
  ではない。ミートポイントは実に正確で、鋭い打球がグラウンドに飛び交った。強烈なスイングから生み出される
  打球は半端でない球速が加味され、あっというまに広い横浜スタジアムのレフトスタンドに飛び込んだものだ。
  空振りしようがホームランしようが、めいっぱいフルスイングされたバットは、勢い余って自分の背中に直撃する
  のが常だった。筆者も見たのだが、ブラッグスが空振りしたとき、スイングしたバットが例によって彼の背中に
  ぶち当たり、あろうことかそのバットが真っ二つに折れてしまったことがある。要するに、バットで背中を思い切り
  ぶっ叩いたら、そのバットが折れてしまったと思えばいい。想像を絶する背筋の強さと丈夫さである。当のブラッ
  グスはと言えば、ケロッとしていたのが印象的だった。
  今では当たり前の筋トレで、上半身を鍛え上げていたということなのだろう。

   初年度から大暴れで、一緒に来日したローズとともに横浜打線を支えた。残念ながら初年度は7月に骨折して
  しまい、そのシーズンはそこまでだった。しかし、その時点での打撃三部門の成績は横浜を充分に満足させる
  ものだった。当然、以降も契約を続け、主力打者の道を進み続けた。在籍4年だったが、その打棒だけでなく
  メジャー・スピリットをアピールしたことも、その後の横浜に大きなプラスになっただろう。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ブラッグス 右右  外 93 横浜  72  264  61  91  41   19   44  46   2 .345
      94  〃 122  448  84 141  91   35   80  83   1 .315
      95  〃 110  407  75 111  72   24   72 102   4 .273
      96  〃 100  356  55 100  56   13   50  72   6 .281
   計        4    404 1475 275 443 260   91  246 303  13 .300

  ロバート・ローズ(Robert Rose)

   85年のエンゼルス5位指名でプロ入り。89年にマイナーでの成績が認められ、初のメジャー昇格。92年
  には開幕からスタメンで活躍したが、不幸なことに5月、バス移動中に交通事故に遭う。そのせいでまたして
  もマイナー。逆に言えば、これが横浜にとっては幸いした。牛込担当は、89年からこのローズに目をつけて
  いたものの、その後メジャーに上がり、92年にはレギュラーになってしまったため、半ば諦めていたところに
  この事故だ。その時、新興球団のロッキーズもローズに興味を示したため、慌てて入団にこぎ着けたらしい。
  この時、まだ26歳。若い。

   180センチ85キロと、アメリカ人選手としてはまるで目立たず、同時入団したブラッグスがメジャーの実績
  充分、また大柄だったこともあって、日本人はほとんどローズに注目しなかった。しかし牛込は成功に確信
  していたという。走者が3塁にいれば外野フライを狙い、2塁走者がいればライト打ちが出来る。それもベンチ
  の指示ではなく自分で考えてやれるプレイヤーだったことが、牛込のそれを補強していた。以後の活躍は、
  ベイスターズファンだけでなく、プロ野球ファンなら誰でも知るところだろう。

   タイトルだけでも、首位打者99年、打点王93、99年、最高出塁率97年、ベストナイン93,95,97,98、
  99年、ゴールデングラブ98年。おまけにサイクルヒットを3回。1試合10打点もあれば、99年には153打点
  という信じがたい成績も残した。打っても守っても非の打ち所のない超優良外国人選手だったのだ。ブラッグス
  が帰国した後も打ち続け、真の強打者は誰なのかを横浜ファンに強烈に印象づけた。

   このようにプレイそのものには文句のつけようがなかったが、残念なことにグラウンド外で非難されることに
  なってしまう。ローズは98年、99年のシーズン中に、何度も引退をほのめかし、そのたびにファンや球団、
  選手たちに説得されてきた。原因は家庭の問題とか、あるいは体力的なものと言われていたが、実のとこ
  ろ、やはりカネだったらしい。若く、メジャー経験もまだ少なかったことから、もともとローズの年俸は安く抑え
  られていたそうだ。ローズも、実績がまるで違うブラッグスと比較するつもりもなかったらしく、それに応じて
  いた。ところが球団の方が、これだけの成績を残しているのに、他球団の外国人選手と比べて安すぎるとい
  うことで、大幅にアップしたらしい。世間体が悪い、ということのようだが、何と言うかまあ(^^;)。これが96
  年のシーズンである。世話人の牛込は反対したが、球団は実行してしまった。給料を増やしてくれるというの
  だから、もとよりローズに断る理由もない。しかし、事態は牛込の恐れた通りになった。成績が上がるごとに、
  倍々ゲームで年俸を上げざるを得なくなっていったのだ。ローズの方も、そういうものだと思ってしまった。
  「しまった」と球団が思ってももう間に合わない。好成績を上げるたび、ローズは大幅な昇給を要求する。
  以前、球団が自らそうしてしまったのだから、彼の要求も仕方がない。しかし、当然のことながら財源には
  限界があるのだ。二度の引退騒ぎの裏はそういうことらしい。

   そしてとうとう、2000年のオフ、横浜と決別(ケンカ別れだったらしい)することになる。ローズは、日本で
  やるならベイスターズしかないと思っていたから、他球団からの誘いには一切応じなかった。まあ、多少後味
  は悪かったが、これで終わっていれば、ローズの印象はさほど悪くなかったはずである。ところが。

   三度目の正直で、とうとう引退したローズだったが、なんと2003年になって千葉ロッテへ電撃入団する。
  年俸は8000万円と、当時の彼を思えば格安だったが、2年のブランクに加え35歳の年齢に、懸念を表明
  する人も多かった。事実、この間ローズはまったくプレイしていなかったらしい。ハイスクールのコーチとして
  身体を動かしていたし、ジムへは通っていたそうだが、逆に言えばその程度しかやっていなかったのである。
  期待と不安を胸にキャンプを迎えたのは、ファンやチームだけでなく本人もだったろう。案の定だった。キャンプ
  で3試合の紅白戦に臨んだが無安打。通算8打数無安打に終わり、その夜に宿舎で山本監督と川北球団
  代表に退団を申し出た。その際、ローズは「続けるのは難しい。球が見えなくなった」として動体視力の衰え
  も訴えたという。球団サイドは強く慰留し、いったん帰京して静養するよう勧めたが、ローズを翻意させることは
  出来なかった。
   確かにローズはかなりまいっていたらしい。家族も一緒に来日していたのだが、アメリカンスクールに通う
  子どもたちは環境の変化に戸惑って登校拒否に近い状態。さらにミッシェル夫人も、近所に知り合いがまったく
  いないことで悩み、精神的にかなり不安定だったと伝えられる。それらの悩みでローズが不整脈、激しい動悸
  を煩ったのもストレスが元らしく、球団関係者は「精神的に極限に近い状態だった」と証言している。

   これだけでも悪印象を与えるのに充分だが、さらにファンの神経を逆撫でしたのが金銭問題。
  8000万円の年俸について川北代表は、「計算式にのっとって支払う」と日割り計算する方針を示唆した。
  これは、1月1日から契約が成立したとすれば、ローズに支払われるのは、退団の2月19日まで50日間分
  の約1096万円ということになる。これをローズが辞退でもすればまだ違ったと思うのだが……。

選手名 投打 守備 所属 試 合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ローズ 右右  二 93 横浜  130  486  61  158  94   19   53  63   2 .325
      94  〃  130  510  71  151  86   15   57  72   1 .296
      95  〃  130  492  76  155  97   22   54  76   3 .315
      96  〃  126  483  62  147  86   16   57  66   1 .304
      97  〃  130  463  70  152  99   18  102  70   3 .328
      98  〃  124  468  70  152  96   19   73  79   2 .325
      99  〃  134  521  93  192 153   37   70  81   3 .369
      00  〃  135  506  71  168  97   21   79  59   1 .332
      02 ロッテ    0    0   0    0   0    0    0   0   0   −
   計        9    1039 3929 574 1275 808  167  545 566  16 .325

  ダリル・スコット(Darryl Scott)

   90年6月にエンゼルスでメジャー入り。その後また3A生活を送り、93年に再度エンゼルス入りして1勝
  する。横浜に来たのはその翌年だった。まだ26歳と若かったので期待は大きかった。制球はよかったのだ
  が、ストレートが物足りず、変化球もパッとしなかった。登板はすべてリリーフで、勝ち星は挙げられなかった。
  ただ、中継ぎとして考えればそう悪い成績ではなく、年齢的に見ても、1年で(それもシーズン半ばで)クビに
  することはなかったと思う。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
スコット 右右 94 横浜  25  0  1 32.3   0   0   17  27  10    9 2.51

  ジェフリー・シュワーズ(Jeffrey Schwarz)

   82年、カブスのドラフト24位(そんなに指名するんだね(^^;))でプロ入り。92年までマイナーで93年に
  ホワイトソックスに昇格。94年にエンゼルスに移り、95年に横浜入りした。196センチの長身から投げ下ろす
  速球と、割れて落ちるカーブとスライダー気味のカーブを操る投手と評判だったが、コントロールがなかった。
  わずか4試合の登板で1勝1敗という冴えない成績だったのだが、実は横浜の球団史に残る活躍だったのだ。
  なにせ、横浜(大洋)の外国人投手に勝ち星がついたのが、実に29年ぶりだったからだ。わずか1勝止まり
  だったシュワーズだが、その1勝で記録に残ることになった。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
シュワーズ 右右 95 横浜   4  1  1  8.6   0   0   15   8   4    4 4.15

  マイケル・バークベック(Michael Birkbeck)

   83年にブリュワーズのドラフト4位でプロ入りし、88年にメジャー昇格。その後またマイナー落ちして、92
  年にメッツに入団。ただ、これも翌年また3A落ち、95年の4月にメッツ昇格してから横浜に中途入団すると
  いう慌ただしい球歴。来日したのは7月で、完封を含めていきなり2連勝した。これは拾い物、ローテの中心
  に、と思った矢先の巨人戦、マックの打球をモロに右脚に受けて骨折してしまった。結果的にはこれが痛かった。
  秋口には戻ってきたが、精彩を欠いた。結局、このケガが最後まで響いて、翌年は前年の活躍がウソのよう
  な乱調ぶりで途中解雇されてしまった。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
バークベック 右右 95 横浜   8  2  0 38.3   1   1    9  24  12   12  2.82
    96  〃   4  0  2 10.6   0   0    5   3  14   14 11.81
  計    2    12  2  2 49.0   1   1   14  27  26   26  4.78

  ウィリアム・セルビー(William Selby)

   92年、レッドソックスのドラフト13位でプロ入りし、96年にメジャー昇格。なのに、その翌年にはベイスターズに
  来たことになる。なんでだろうか、せっかく大リーグに上がったばかりなのに??
  175センチと小柄だが、86キロも体重があり、見た目よりはがっちりしていたらしい。確かにユニフォームから見え
  る腕っ節は太かったし、パワーはあったのだろう。しかし彼にとって不運だったのは、横浜にはローズという神クラス
  の打者が二塁を守っていたことである。もともとセカンドだったセルビーを守らせる場所がなく、仕方がないので外野
  やサードをやらせていた。しかしキャンプの練習では好打を連発、オープン戦でもでかいのをぶち込んでいたので、
  これは期待できるとベイ首脳陣を喜ばせた。ところが開幕するや否や、途端にその打棒は翳りを見せ、湿ってしまう。
  まるでオープン戦の投球はサービスだったと言わんばかりの日本投手の厳しい攻めにすっかり翻弄されてしまった。
  守備もまずかったが、これは前述の通り、本職以外のポジションばかりやらされたことをさっ引いてやる必要はある
  だろう。確かにセルビーもパッとした選手ではなかったが、それ以上に横浜フロントは何を考えて彼を獲得したの
  だろうか。ローズがいるところに、新たな二塁手をアメリカから獲ってきてどんな意味があったのか疑問である。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
セルビー 右左  外 97 横浜  90 171  19  39  17    5   22  37   3 .228

  マイケル・キャンベル(Michael Compbell)

   ニューポートハイスクール時代の82年、ブレーブスにドラフト5位指名されたが、これは拒否。その後ハワイ
  大に進学し、85年にマリナーズのドラフト1位でプロ入りした。87年に3Aで15勝してメジャー昇格。以後、
  パドレス、カブスを経て97年に横浜入りした。……って、この選手、よっぽどの横浜ファンじゃなきゃ知らない
  と思うんですよ。だって1軍登録ないんだもん(^^;)。191センチ100キロの巨漢投手で、来日前には日本
  からビデオを取り寄せて研究するなど、けっこう真面目だったらしい。ところがキャンプで右肩を故障。ファーム
  で調整を続けるも完治せず、結局、治療のため帰国。そのまま帰ってこなかった人。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
キャンベル 右右 97 横浜   0  0  0  0.0   0   0    0   0   0    0  −

  パトリック・マホームズ(Patrick Mahomes)

   88年、ツインズのドラフト6位指名を受けプロ入りする。96年にレッドソックスにトレード、その翌年にはまた
  も3Aに降格し、97年の6月に来日した(キャンベル投手帰国の穴埋めとして)。193センチ96キロのスラリと
  した黒人投手で、初年度は3勝を挙げた。成績的にはパッとしなかったが、まだ27歳と若かったこともあり、
  球団は翌年も契約した。しかしその98年は、ローテーションを任されるもののまったく勝てず、5月末には
  ファーム落ちし、その後もこれといった成績を残せぬまま解雇された。
   なお、帰国後は99年にメッツでメジャー昇格し、主にセットアッパーとして活躍した。

選手名 投打 所属 試合 回 数 完投 完封 四死球 三振 失点 自責点 防御率
マホームズ 右右 97 横浜  11  3  4 52.3   0   0   42  30  30   28 4.82
    98  〃  10  0  4 43.6   0   0   29  24  30   29 5.98
  計    2    12  2  2 49.0   1   1   14  27  26   26 5.34

  アルキメデス・ポゾ(Arquimedez Pozo)

   ドミニカ出身。90年にドラフト外でマリナーズ入り。以後、95年に1試合だけメジャー出場しただけであとは
  ずっとマイナー暮らし。96にレッドソックスへ移籍するものの、ここでもエレベータ生活は変わらず。
   26歳の若手内野手に目をつけたのが横浜で、ケガがちだったレギュラー三塁手・進藤の控えとして獲得した
  わけだ。守備は、とても進藤には及ばなかったものの、バッティングはそこそこ良くて、けっこう打っていた。
  ちゃんとポジションを与えればそれなりに活躍したのではないかと思われる。
   ……と思ったんだけど、そうでもなかった。横浜を解雇された後、筆者と同じように考えたのが韓国球界の
  ヘテ・タイガースだった。充分使えると見て入団させたものの、開幕当初からサッパリで、2ヶ月もしないうちに
  解雇されてしまった。韓国での成績は、39試合で、.213、1本塁打の8打点。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
ポ ゾ 右右  三 99 横浜  91 229  31  68  30    9   20  33   0 .297

  ホセ・マラベ(Jose Malave)

   89年8月に、ドラフト外でレッドソックス入り。以後、ファームを転々として、96年にようやくメジャー入り。しかし
  翌年また3Aに陥落すると、98年に来日、横浜入りした。まだ27歳という若さだったこともあり、また、メジャー経験
  がほとんどないこともあって、ポジションは与えられなかった。ライトを中根や佐伯と争ったのである。188センチ96
  キロの巨体を活かしたホームランを期待され、マラベも頑張った。キャンプ、オープン戦でそれなりに結果を出し、
  開幕スタメンを勝ち取った。開幕戦を5番ライトで出場すると、いきなり3安打1本塁打。さらにその翌日も3安打の
  猛打賞と、首脳陣を驚喜させた。ところが、どうしたことか、マラベのバットもここまで。日本投手にクセを覚えられた
  のか、はたまた開幕戦の猛打は偶然だったのか、パッタリと当たりが止まってしまった。そのまま1年その調子で、
  当然のようにクビとなった。
   その後、韓国球界入りし、ヘテ・タイガースに入団する。しかし入国の際にいきなり大問題を起こしてしまう。「身辺
  保護のため」と称して拳銃を所持していたのである。当然、金浦空港で拘束、逮捕されることとなった。ハワイキャンプ
  には参加したが、その時点で実力に疑問符がついてしまい、とうとう1試合も公式戦に出場することなくクビ。

選手名 投打 守備 所属 試合 打数 得点 安打 打点 本塁打 四死球 三振 盗塁  打率
マラベ 右右  外 98 横浜  33  87   5  19  12    1    3  21   1 .218