〜横浜ベイスターズ編〜
1960年代 〜栄光と没落と〜
1950(昭和25)年、大洋としたスタートしたベイスターズ。当時は親会社(大洋漁業)の仕事にちなみ、
ホエールズと名乗っていました。新興球団のつらさ、選手集めに苦労して、寄せ集めで戦うものの、勝てる
はずもなく、低迷を続けました。ところが1960(昭和35)年、明治大からの秋山−土井の黄金バッテリー
獲得、さらに名将・三原脩の監督就任で、前年最下位から一気に優勝、そして日本一まで勝ち取りました。
しかし、三原采配は今ある戦力をうまく使いこなす、言ってみれば使い潰す方式だったため、これは長続き
しませんでした。60年に優勝したものの、翌年にはまた最下位。そして62年は最後まで阪神と優勝争いを
続けた(2位)のですが、その翌年にはまた5位へ低迷。
そんな不安定期に来日し、ホエールズに貢献した選手たちです。
マイケル・クレスニック(Micheal Krsnich)
アメリカ国籍の旧ユーゴ・スラヴィア人。1960年にブリュワーズ昇格、62年までミルウォーキーで過ごす。
ベンチ・ウォーマーに飽き飽きして1963年6月に来日、大洋の入団テストを受け、合格する。7月からゲームに
出場し、低迷するチームを支えて主力打者として活躍した。来日当初からバリバリ打ち、どこまで成績が伸びる
かと期待されたものの、8月あたりから調子が落ち始めてしまう。しかし、それにしても3割打ったのだから大した
ものだ。
シーズン後半には日本投手陣にクセを覚えられたため、翌年はさらに苦戦するかと思われたが、案外器用に
対応して活躍する。打率は下がったが、36ホーマーは巨人・王に次ぐ数字で、89打点もリーグ5位の立派な
成績だ。3年目はやや成績が落ち、34歳になったこともありホエールズを解雇されるが、近鉄に拾われた。
打率はそこそこ戻ったが、期待以上の成績ではなかったとして近鉄もクビになる。これでクレスもいったんは野球
を諦め、引退、退団する。
しかし、幾多のハズレ外国人選手を引いたタイガースに引っ張り出され、翌年現役に復帰した。だが、さすがに
往年の力はなく、この年のオフで今度こそ本当に引退した。登録名称は「クレス」。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
クレス | 右右 | 遊、三 | 63 | 大洋 | 74 | 278 | 38 | 85 | 47 | 13 | 21 | 31 | 2 | .306 |
64 | 〃 | 139 | 511 | 83 | 136 | 89 | 36 | 46 | 73 | 1 | .266 | |||
65 | 〃 | 127 | 358 | 43 | 85 | 65 | 19 | 52 | 69 | 5 | .237 | |||
66 | 近鉄 | 123 | 393 | 41 | 109 | 47 | 17 | 26 | 79 | 4 | .277 | |||
67 | 阪神 | 43 | 135 | 14 | 29 | 17 | 5 | 12 | 22 | 1 | .215 | |||
計 | 5 | 506 | 1675 | 219 | 509 | 265 | 90 | 157 | 274 | 13 | .265 |
スタンレー橋本(Stanley Hashimoto)
日本ハム編60年代を見よ。
ケネス・アスプロモンテ(Keneth Aspromonte
中日編60年代を見よ。
リチャード・スチュアート(Richard Lee Stuart)
1958年にパイレーツでメジャー昇格。以後、レッドソックス、フィリーズ、メッツ、ドジャースで過ごしてきた
現役パリパリのメジャー・リーガーである。35歳の来日で、もう峠は越えたかと思われたが、その長打力は
充分に日本で通用した。191センチ、97キロの巨漢白人選手で、そのパワーはアメリカでも折り紙付きだった。
なにしろ、日本での初打席もいきなりホームランだったのだ。当初こそ、日本の変化球投手に幻惑され、また
ストライク・ゾーンの違いで戸惑い、三振も多かったが、慣れてくると持ち前の腕っ節が唸った。
8月には8ホーマーしてホームランダービーに加わり、10月10日には1試合3ホーマーするなど、14試合で
8ホーマーをスタンドに叩き込んだ。
やや粗いながら長打力は抜群で、王を脅かすほどのパワーを秘めていたが、反面、守備はからっきしだった。
打球を弾くくらいならともかく、フライは落とす、送球も受けきれないと散々だったのだ。アメリカでもスチュアート
を称して「彼の手の指はすべて親指だ」とか、「彼の指にはいつもバターがべとべとについている」などと酷評さ
れていた。これからすると、打球に対するカンが悪いとかそういう問題ではなく、まさに「ボールが手につかない」
状態なのだろう。年齢的な問題もあろうが、恐らくは守備での欠点が大きすぎることが退団の理由だろう。
指名打者のルールがあれば、まだもう少し現役を続けられたような気もする。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
スチュアート | 右右 | 一 | 67 | 大洋 | 125 | 432 | 62 | 121 | 79 | 33 | 41 | 100 | 1 | .280 |
68 | 〃 | 83 | 253 | 28 | 55 | 40 | 16 | 21 | 78 | 0 | .217 | |||
計 | 5 | 208 | 685 | 90 | 176 | 119 | 49 | 62 | 178 | 1 | .257 |
ジミー・マクマナス(Jimmy McManus)
26歳という若さで来日した。アスレティックスにいたらしいが詳細はわからない。本人、よほど自信満々
だったのか、はたまた日本球界を見下していたのか、来日記者会見では「30ホーマー、100打点」を
公約した。しかし練習不足のせいか、まるっきりの期待はずれだった。時々、思い出したように打つことも
あったが、総じてパッとしなかった。.261の12ホーマーでは、公約破りも甚だしいだろう。それでも、まだ
若かったし、日本に慣れればという期待もあり、来季の契約も更新した。しかし、慣れるどころか日本の
投手に研究され、さらに打てなくなっていた。とうとうスタメン落ちし、代打で出るのが関の山となる。
いくら若くてもこれでは話にならず、この年限りで解雇。
来日当時は、およそ2メートル以内ボールなら確実に捕球すると言われ、ここ数年は一塁手の補強は
不要とまで言われたが、まるっきりの期待はずれとなった。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
マック | 左左 | 一 | 62 | 大洋 | 115 | 376 | 41 | 98 | 52 | 12 | 36 | 70 | 4 | .261 |
63 | 〃 | 75 | 167 | 15 | 30 | 21 | 8 | 11 | 27 | 0 | .180 | |||
計 | 2 | 180 | 543 | 56 | 128 | 73 | 20 | 47 | 97 | 4 | .236 |
フランシス・アグリー(Francis Agcaili)
メジャー経験はない。ハワイのプロリーグで活躍していたところを引き抜かれたのが若干23歳のときだった。
やや力感に欠け、一発長打の魅力には乏しかったが、内野ならどこでも守れる器用さが買われ、チームにとって
は重宝な選手だった。長打力はなく、特別に脚が速かったわけでもないのに選手生命が長かったのは、この点
が買われたのだろう。当時、日本ではほとんどなかった極端なクラウチング・スタイルのフォームも珍しがられた。
成績自体はだんだんと下降していき、大洋には3年で見切りを付けられてしまった。しかしまだ若かったことも
あり、西鉄が興味を示して入団させた。
この年がアグリー最良の年で、不足と言われた長打力も、24ホーマーして汚名返上してみせた。打率も.282
と安定した力を見せ、自慢の守備にも不安感はなかった。この年はオールスターにも選出されている。それでも
翌年にはガクリと成績が落ち、西鉄も自由契約になったが、ここでまた古巣の大洋に拾われた。しかし開眼したか
に見えたバッティングも、結局は一時の夢だったようで、以前のように器用が取り柄の便利屋さん以上にはなれ
なかった。ホエールズを2年で退団すると阪急に入ったが、ここでもバイプレイヤーどまりで、この年限りで退団した。
目鼻立ちのはっきりした二枚目選手で、女性ファンが多かった。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
アグリー | 右左 | 内 | 62 | 大洋 | 103 | 300 | 29 | 88 | 29 | 6 | 13 | 51 | 3 | .293 |
63 | 〃 | 96 | 225 | 18 | 57 | 18 | 3 | 16 | 30 | 1 | .253 | |||
64 | 〃 | 72 | 134 | 13 | 27 | 14 | 3 | 9 | 22 | 0 | .201 | |||
65 | 西鉄 | 115 | 387 | 64 | 109 | 72 | 24 | 48 | 56 | 3 | .282 | |||
66 | 〃 | 115 | 338 | 28 | 79 | 30 | 11 | 40 | 58 | 0 | .234 | |||
67 | 大洋 | 75 | 132 | 13 | 34 | 13 | 4 | 15 | 22 | 0 | .258 | |||
68 | 〃 | 104 | 255 | 32 | 66 | 36 | 10 | 28 | 55 | 1 | .259 | |||
69 | 阪急 | 92 | 209 | 26 | 56 | 26 | 8 | 26 | 29 | 3 | .268 | |||
計 | 8 | 772 | 1980 | 223 | 516 | 238 | 69 | 195 | 323 | 11 | .261 |
スタンリー・ジョンソン(Stanly Johnson)
1960年にホワイトソックス、61年ロイヤルズを経て、69年に大洋入りする。183センチ84キロのがっちり
した体格の黒人選手で、性格は至って真面目だった。控えめに打率3割を目標として、熱心に練習をこなした。
その甲斐あってか、開幕から打撃好調で、主力の仲間入りかと思われたが、早くも5月には馬脚を表し、打棒
が止まった。以降はスタメン落ちする試合が増え、ジョンソンも自信喪失、実力を発揮出来ずに日本を去った。
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
ジョンソン | 左左 | 外 | 69 | 大洋 | 96 | 281 | 25 | 68 | 29 | 5 | 11 | 27 | 1 | .242 |
ディーン・ストーン(Darragh Dean Stone)
メジャー6球団を転々として大洋に入団した時は34歳だった。190センチ92キロの大柄なサウスポーで、
長身から投げ下ろす速球を期待されたが、これがダメ。タマに力はなく、キレも悪かった。よく調べてみると、
なんと前年に一端引退して、入団前まで友人と家具屋を共同経営していて、野球から離れていたらしい。
それでは練習不足は当たり前で、6月には早々にクビを切られた。
選手名 | 投打 | 年 | 所属 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 回 数 | 完投 | 完封 | 四死球 | 三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
ストーン | 左左 | 64 | 大洋 | 6 | 0 | 0 | − | 12.0 | 0 | 0 | 8 | 11 | 5 | 5 | 3.75 |
アルフレッド・グルンワイド(Alfred Henry Grunwald)
登録名は「グルン」。パイレーツ、アスレティックスを経て来日した。左腕不足のホエールズが獲得した
32歳のサウスポーだが、これといって特徴はなく、年俸に見合う成績とは言いかねた。ただ、投手として
打席に入っても、たびたび快打を飛ばしていたので、投手でダメなら打者に転向してはどうだという話に
なり、もともとバッティングも好きだったグルンも了承した。今の日本プロ野球界ではほとんど考えられない
ことだが(元巨人のライトやガルベスが、いくら打撃が良かったとはいえ、投手でダメになったらバッターに
という話は出ないだろう)、これがけっこう当たった。打率は低かったが、代打中心で3本塁打は見事だ
ったと言ってよかろう。
選手名 | 投打 | 年 | 所属 | 試合 | 勝 | 敗 | S | 回 数 | 完投 | 完封 | 四死球 | 三振 | 失点 | 自責点 | 防御率 |
グルン | 左左 | 62 | 大洋 | 26 | 2 | 8 | − | 83.3 | 2 | 0 | 50 | 43 | 50 | 42 | 4.50 |
選手名 | 投打 | 守備 | 年 | 所属 | 試合 | 打数 | 得点 | 安打 | 打点 | 本塁打 | 四死球 | 三振 | 盗塁 | 打率 |
グルン | 左左 | 外 | 62 | 大洋 | 70 | 95 | 3 | 20 | 8 | 3 | 3 | 27 | 0 | .211 |