● 岡村靖幸と及川光博(99.8.23)

 流行りもんの爽やかなポップスの影には、いつもいつも、必ずと言っていいくらい、色モノが頑張ってます。で、何故かそっちの色モノの方が、音楽的には実は優れていたりするんです。趣味にもよりましょうが、マイケル・ジャクソンがあんだけ売れまくってる影で、キモチ悪い歌手として名を売ったプリンス(当時)とか、その例には枚挙に暇がなかったりします。この例で言えば、誰がどう見たって、プリンス(当時)の方がずっと音楽的に先を行ってたはずですもんね。悲しいくらいに売れなかったらしいけど、コアなファンはついてたみたい。でもただコアなだけだから、結局、売れ行きには全く貢献できなかった。彼がプリンスという名前を捨てた理由の一つも、キャッチーで売れるポップを求めたレコード会社との対立でもって、それはつまり自分のレーベル「ペイズリーパーク」が必要な資金を用意できなかった、というあたりに由来してる、らしいです。ま、詳しい話はそういうサイトに行って見てきていただくことにして。ここはしがないエロゲーサイトなもんで。
 さあ、前置きがやたらと長くなっちゃったね。最近、及川光博という歌手がやたらとメディアに露出してます。黙ってればかなりの色男系ルックスなのに、やたらとぶっ飛んだ言動を好んでしたがるし、自分のことを「ミッチー」だの「王子様」だのと呼ばせたがる、とまあ、同性からすれば「おいこらおまえ死ねよいいから早く死んじまえ」とでも言いたくなるようなキャラクターなんですが、懐かしい香りがしたんでアルバムを購入してみました。2枚目のアルバム、という「嘘とロマン」、そしてこのたび発売した最新作、「欲望図鑑」。曲名に「名器」とかとんでもないのが並んでいて、実はちょっと期待していました。
 何が懐かしいか、って、そりゃあなた、岡村靖幸を思い出させるからですよ。
 本当の色モノ、という言葉は、彼のためにあったんです。色モノは自分を色モノとは思っていない、というのが、俺的にはあるんですが、どうやらミッチーは色モノを演じている。某スポーツ新聞のインタビュー記事にあったんですが、色モノとしてでも、世間に認識されることが第一、みたいな意識があるみたい。
 違うだろミッチー。色モノって、そうじゃねえだろうが。
 オカムラはマジメでした。結構遅いデビューで、それほど(つーか全然)カッコよくはなかったんで、街中で女の子の追っかけに追い回されるなんて経験もそれほどなかったようです。でも少しはあったみたいで、その頃の雑誌に、とあるジムで筋トレやってたら女の子に声かけられて、断っちゃった、といったくだりがありました。本人もかなりドキドキしてたようですね。微笑ましい記事でした。
 音楽的には、前出のプリンスのような、ちょっとひねくれたポップを背景に、R&Bの本流を捉えながらフォークの色合いも交える、という感じの音楽性。今売れてる男性ポップスの原点と言ってもいいでしょう。現にスガシカオあたりは朝日新聞の紹介では「岡村靖幸の再来」だったし、ミッチーもどこぞのCDショップの宣伝で「オカムラを継ぐのは彼しかいない」と書かれてました。ま、10年早いけど。
 でも、ヘンでした。彼は間違いなく、天然でした。他の誰ともずれてました。それが致命傷だったのかなあ。専門的な言葉で言えば、多分「抑鬱神経症の一症状としての過食傾向からくる急激な肥満」なんですが、要するに一気に太っちゃいまして、しかも悩んじゃって曲(というか詞)がまるで書けなくなっちゃって、数年前にとうとう、音楽活動の休止を自ら宣言しちゃいました。
 これぞ色モノ。生涯一色モノ。
 そういう訳で、ミッチーは役不足でした。「欲望図鑑」も期待外れ。「嘘とロマン」も、もちろんそう。

 オカムラのディスコグラフィとか始めちゃうと始末に終えないので、オススメのみ。
 「家庭教師」というアルバムが出てます。1990年発売。もう9年も前なんだねえ。
 日本で初めて、喘ぎ声をサンプリングしてビートに使ってます。それだけでも一聴の価値アリ、というふうに、俺は言い切ります。
 っていうか、聴いてください。供養として。まだ死んでないとは思うけど。
 かつては川本真琴の曲も書き(「愛の才能」、デビュー曲ですね)、渡辺美里の音楽的盟友だった(らしい)彼ですから。(99.8.23)

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