短編小説「ふるさとの山」



 母を連れ、故郷の山にやって来た。
 都心から約3時間。心配された雨も降らず、快適なドライブとなった。
 渋滞を避けるため、暗いうちから出て正解だった。眠気を押さえるのに苦労したが、今日という日は特別な日なのだ。
 小田原を過ぎた辺りから、緑が濃くなってきた。なつかしい香りが車内に満ちる。子供の頃は、当たり前のように嗅いでいた匂いである。
 この香りを、いつから忘れてしまったのだろうか。
 私は、自他共に認める仕事人間である。会社が我が家のようなものだ。いつも夜遅くまで残業し、家に帰るのはただ眠るためだけの生活だった。
 おそらく母から逃げていたのだと思う。口を開けば結婚しろ、早く家庭を持ての一点張り。幼くして死んだ父の代わりに、母は父の分まで私の尻を叩いていた。
 気づけば、同僚たちはみな結婚し、新たな家庭を築いていた。
 私だけが取り残されたような気がした。
 しかし、そんな生活ももう終わりだ。なんといっても、私は会社をクビになったのだから。
 リストラというやつである。
 不景気の波は、思いのほか大きかった。かくいう私もその波に飲まれた一人なのだ。仕事ひと筋の人間にとって、突如現れた自由な時間。戸惑うばかりの時間である。
 そんな時に思い出したのだ。故郷の山を。ふるさとのあの香りを。
 私の人生は、もう取り返しが付かない。それは仕方がない。ここでくよくよするよりも、まずは行動してみよう。そう思った。
 母の存在が、とても大きく感じた。
 今回の小旅行に、母はもちろん反対しなかった。それも当然だ。特に楽しみなどないのだから。
 車は県道を抜け、誰も知らないような山道に出た。しばらく行けば、あの森が見えてくるはずだ。
 この森には、私の思い出がつまっている。あれから長い年月が過ぎたが、まだまだ昔の面影をとどめている。
 そう。確かにここだ。
 ここから先は、車では登れない。母と共に、針葉樹の中に入っていった。
 久しぶりに背負う母の体は、思ったよりも軽かった。
 森の奥深く。昼なお暗い山の上。
 母の体を下ろして考えた。ここなら、誰にも見つからないだろう。
 さあ、とっとと埋めちまうか。



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