短編小説「墜落」



 氷の牙が全身を切り裂く。
 キャンバスはあちこちで穴が開き、むなしく燃える炎が、極寒の空で無駄な努力を続けている。
 通信機さえも、直撃を受けて破壊された。少しでも軽くするため、その残害をゴンドラから投げ捨てる。どうせ修理などできないのだ。
 おそらく50年に一度の異状気象だろう。この高度では、大きなもので大人の拳ほどのヒョウが降るのだ。
 強風にあおられ、ゴンドラが大きく傾いた。気球は見る間にしぼんでゆく。鉛のような雲間から、はるかなキリマンジャロが伺える。
 俺は、しっかりと胸のお守りを握った。銀のロケットだ。
 すさまじい速さで地面が迫ってきた。


 「あの男は、殺さねばならぬ」
 年老いた祈祷師、ツボワンが、娘のンガヤを諭す。
 「もう助からんからだ。脚を失い、男として仕事をこなすことはできん。よって、その苦しみから解放することこそ救いなのだ」
 ンガヤは首を振っている。
 「分かりません。お父様、あの男は、我らがダナクの民ではありません。なぜダナクの法をあの男に示さねばならないのですか?」
 「娘よ。翼を失った隼は、もはや隼ではない。隼は失意が元で死んでしまうのだ」
 「しかし、あの男は人間です。私たちと同じ人間ではありませんか!」
 涙を浮かべてンガヤは詰め寄った。ツボワンは、ンガヤの頭をなでて言った。
 「同じ人間と言うかね。だが娘よ、お前は先ほど「我らがダナクの民ではない」と、そう言ったではないか?」
 ンガヤは口ごもった。
 「何より、ここはダナクの地。ダナクの法を用いて、何の問題があると言うのだね?」
 答える代わりに、ンガヤは小屋から走り去った。
 祈祷師ツボワンはため息をついて、長老たちを呼び出す算段にかかった。


 女神の夢を見た。
 目覚めると、何もかもが終わりを告げていた。ここは空の上ではなく、冷たい土の上であり、粗末な草の屋根が見えた。
 全身がだるい。しかし、どうやら生きているようだ。
 少女が俺の顔をのぞきこんでいる。黒い肌に大きな瞳。おそらく、まだ十代の半ばだろう。その顔が明るく輝き、なにやら妙な形の土器を近付けてきた。
 この匂い。水だ。
 俺は我を忘れて飲んだ。何度かむせったが、壷の中身をすっかり飲み干すまで、数秒しかかからなかった。
 生まれてこの方、こんなにうまい水を飲んだのは初めてだ。
 少女の手をしっかりと握り、次の瞬間には抱きしめていた。君こそ俺の女神だ。少ないスワヒリ語の知識を駆使して、何とかそれだけ伝えた。
 そして気づいた。
 俺の左脚がない。
 ひざから下が、そっくりなくなっている。
 俺は、無意識に胸のロケットを握っていた。少女の嬉しそうな声も耳に入らなかった。


 裸にされた。
 胸のロケットも取り上げられた。
 体を縛られ、動物の油を塗りたくられた。
 そして今、暗い森の中で、ハイエナの笑い声を聞いている。
 やがて夜になり、奴らが来る。俺は骨も残さず食われるのだろう。
 俺は自分の不幸を呪った。話に聞いたことがある。アフリカのある種族は、年寄りや病気の者を、ハイエナたちに捧げるのだと。
 前方の草むらが動いた。
 もう終わりだ。俺は叫ぼうとした。
 だが、出てきたのは、あの幼い少女だった。
 しっかりと俺を見据え、手には石のナイフを握っている。
 助けてくれるのか。
 俺はその「女神」に、何度もお礼を言った。闇に浮かぶ黒い少女に。
 少女が近づいて来る。ナイフを握りしめながら。
 そして少女は、とても悲しそうな顔をした。
 ナイフを両手で握り。
 それを、まっすぐ俺の心臓に突き刺した。
 俺は声も出せなかった。
 見開いた俺の目の前に少女は立ち、俺に向かって何かを投げ捨てた。
 俺の大切なロケット。今、それが開いて、愛しい故郷のエリザベスが微笑んでいる。
 俺は救われたのだろうか。
 すぐに何も見えなくなった。



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