短編小説「ヨーロッパ特急」


 「おっと、失礼!」
 よろめいた紳士の腕を、小太りの男が支えた。ぶつかった非礼を詫びる。
 「いやいや、狭い車内ですからね。気になさらんでください」
 紳士は穏やかに言って一礼をした。男は笑顔を返し、紳士を追い越して歩いて行った。
 次の停車駅はミラノだ。紳士の目的地であるパリまで、まだかなりの時間がある。
 ようやく席を見つけ、座った。やがて汽笛の音と共に、列車が滑るように走り出した。
 4人用の座席には、今のところ紳士だけが座っている。のんびりと愛読書のクリスティーを開き、ポアロの灰色の脳細胞に、旅の共を頼んだ。
 ほどなくして、美しい淑女が歩いてきた。紳士にお辞儀をして、向かいの座席に腰をおろす。
 その目がじっとこちらを見ていることに紳士は気づいた。
 目が合うと、淑女はおずおずと訪ねた。
 「あの…失礼ですが、モンテール様では?」
 紳士は目を丸くした。なぜ自分の名を?
 「ああ、やっぱり。パリで最も成功した、10人の実業家の記事を拝見いたしましたの」
 それで合点がいった。にこやかに肯定しつつも、多少の謙遜を交えて淑女に話した。淑女も嬉しそうに話を聞いている。実際、悪い気分ではなかった。
 世間話が一段落すると、淑女はトランプを出した。
 「社交界随一のギャンブラーに、どうか教えを請いたいですわ。いかがですか?」
 もちろん、断る理由はない。


 最初のうちは、立て続けに紳士が勝った。やがて淑女も盛り返したが、結局、紳士がゲームの大半を支配していた。
 淑女の表情は面白いほどに、その手の内を教えてくれた。
 「ああもう、悔しいったら。次こそ勝ちますわよ。でないと裸にされてしまいそう」
 「はっはっは。それも結構ですな」
 「賭け金を上げますわよ。絶対取り返して見せますわ」
 こんな会話が2時間ほど続いた。
 しかし、なんと最後に勝ったのは淑女だった。紳士はいい勝負だと思っていたのだが、ちょうど賭け金の上がりはなで大きな勝負を落としていたのだ。
 淑女は得意満面である。紳士は無理に笑顔を作りながら、精いっぱいの強がりを言った。
 「いやいや、こんなに素敵な時間を過ごさせていただいたのです。私が払うのは当然でしょうな」
 そして自分の懐に手を入れた。
 紳士の顔が凍った。
 札入れが消えている。
 必死に平静さを装いつつも、その顔を見れば、何が起きたか一目瞭然である。淑女が心配そうに問うと、ついに紳士は白状した。
 「まあ大変。心当たりはございませんこと?」
 そして思い出した。あの小太りの男だ。


 「こんな侮辱は許されませんぞ!」
 小太りの男は騒いだが、身の潔白を証明するには、裸になるより他にない。仕方なく車掌に連れられ、着ているものや荷物を調べられた。
 ところが、紳士の札入れはどこにも見あたらない。
 中身だけ抜いて札入れを捨てたという見解もあるが、それは一緒にいた他の乗客が否定している。そんな様子はなかったと。
 つまり、小太りの男がスリを働いたのではなさそうだ。
 車掌の説明と、紳士の熱意、そして乗客たちの誠意によって、みんな進んで身体検査を受けた。女性たちの検査には淑女が協力した。なんといっても、淑女には鉄壁のアリバイがある。
 列車の隅々まで調査の手は伸びた。
 やがて列車はミラノに着き、紳士はがっくりと肩を落として、淑女に借用書を書いた。淑女は笑顔で列車を降り、小太りの男は、頭から汽車に負けない湯気を出しつつ降りて行った。
 札入れはどこに消えたのだろう?
 その答を知る者が、二人いた。


 「うまくいったわね、あなた」
 と、淑女。
 「ああ。簡単なものさ」
 と、小太りの男。二人は腕を組んで歩いて行く。
 男が札入れをスリ取った後、すぐに淑女に渡したところは、もちろん誰も見ていない。人知れず中の名刺を拝見しておくなど、淑女にとっては朝飯前である。
 「今日は、モンテール氏に乾杯しましょう」
 「モンテールの金でね」
 笑いながら、二人の悪党は、ミラノの街に消えていった。



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