短編小説「小さな店で」



 鎌倉街道の外れ、あるトンネルの脇のところに、私の勤める店がある。
 新旧さまざまな西洋人形を集めた、いわゆるアンティーク・ショップである。
 扱っている品は、すべて手作りだ。よく見れば、一体一体違う表情をしているのが分かる。
 駅から遠くはなれ、駐車場のスペースもない小さな店。だから休日でもお客は少ない。店の中はいつも、のんびりとした空気が流れている。
 古いステレオが奏でる、静かなクラシック音楽がよく似合う。時々ちくちくと音がするのは、未だにレコードを使っているからだ。
 ここのご主人は、まるで仙人のような髭をたくわえた老人だ。いつも満面に笑顔を浮かべ、枯れ枝のような細い手で、朝から晩まで人形たちの世話をしている。
 時おり、ふと思い立って、長く店を空けることがある。そんな時はどこかで仕入れをしているのだ。どんな方面にコネがあるのか知らないが、驚くほど状態のいい人形を手に帰ってくる。
 ご主人には家族がいない。きっと人形が家族なのだろう。
 まあ、好きでなければできない仕事だと思う。私にしてもそうだ。
 私がここで働くようになってから、もう5年がたつ。一日中座っているのもなかなか辛いものがあるが、この店の落ち着いた雰囲気は好きだ。
 そんな私にご主人は言う。「早く嫁に行け」と。はっきり言って大きなお世話だが、ほかに話す人もいないのだから仕方がない。最近では適当に聞き流すことにしている。
 以前、ご主人が私に、昔話を聞かせてくれたことがある。当時はまだ奥さんも娘さんも生きていて、つつましく幸せに暮らしていたそうだ。
 だが奥さんは癌で、娘さんは骨肉腫で亡くされている。
 色あせた写真の奥で微笑んでいる娘さんの姿。「お前さんによく似とるよ」と、目を細めながら話していた。確かに似ていた。
 だからこそ、私をまるで実の娘のように可愛がってくれているのかも知れない。
 カラン。ドアの鐘の音。
 お客が来た。品のよさそうな中年の女性だ。
 すぐに、店の奥からご主人が走ってきた。ハタキを腰に差している。いつもながら、店番を置く必要があるのか不思議になる。
 ご主人がにこやかに訪ねる。
 「いらっしゃいませ。どうぞゆっくりとご覧になってください」
 女性はおだやかに頷き、店内を見回した。たくさんの人形たちの顔を真剣に見つめている。
 やがて、女性が言った。
 「娘に人形を買ってやりたいのです」
 落ち着いた、深い声だ。そして付け加えた。
 「娘は病気なんですよ。骨肉腫という名前の…」
 はっとして、ご主人の顔を見た。ご主人の笑顔が凍り付く。
 ご主人の胸には、亡くなった娘さんのことが去来しているに違いない。小さな声で言った。
 「それは、また、なんとも…。経過はどうなのでしょうか?」
 「手術をすれば助かる見込みはある、とお医者様は申しております。でも、娘が怖がってしまって…」
 女性は淡々と話しているが、心中察して余りある。
 強いお母さんだ、と私は思った。
 「だから、素敵なお人形と一緒にいさせてあげたいんですよ。娘は、お人形が大好きですから。そうすれば、手術も受けてくれると思いますの」
 そして、笑った。
 レコードが、最後のソナタを弾き終えた。店内にただ静かな空気が流れる。
 ご主人は、女性に向かってしっかりと頷いた。そして、私を真っ直ぐに見つめた。
 ようやくこの日が来たのだ。
 そして、私の体を持ち上げた。
 「奥様、こちらのお人形ではいかがですか?」
 私はにっこりと笑った。ともかく、精一杯に。私のできる唯一のことだ。
 女性は私を長いこと見て、満足げに私の体を抱いた。
 「とっても気に入りましたわ」
 やっと、私も嫁に行く時が来た。この店で一番の古株の人形が、今、新しい世界を知るのだ。
 「どうか大切になさってください。娘さん、元気になるといいですね」
 ご主人が言う。私も同じ気持ちだ。
 手術が怖くないように、ずっとそばにいようと思う。
 夕焼けの空、店はどんどん遠くなる。あの匂い。おだやかなクラシック。ドアの鐘の音。
 もし涙を流せたら、私はきっと泣いていたと思う。でも、これから新しい仕事が待っている。
 それは笑顔でいること。いつも笑顔でそばにいることなのだ。
 今までありがとうございました。ずっとずっと、元気でいてくださいね。


 夕闇が迫る頃、新しいご主人の胸に抱かれた。とても小さく、暖かい胸だった。



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