短編小説「忘れじの潮騒」



 大きなシャコ貝を、避けて歩く。こいつに挟まれたら終わりだ。今は引き潮で、海のはるか彼方までサンゴが顔を出している。
 この辺のロブスターは動きが鈍く、素手でも簡単に捕まえられる。特にはさみの大きな牡は、本土では高く売れるのだ。
 いっぱいにふくらんだカゴを下ろす。そろそろ帰る頃合だ。潮が満ちる前なら、サンゴの上を歩いて帰れる。
 ふと、岩肌を洗うおだやかな波を見る。
 親父が愛した海。よくあの岩の上で、幼い俺にモリの突き方を教えてくれたものだ。
 その親父も、今はもういない。
 ちょうど、こんなおだやかな日だったろうか。いつものように海に出かけ、そして帰って来なかった。
 あれからもう1年になるのか。
 漁で死ぬなら、海の男は本望だ。しかし、あの日の親父は、ただ漁の合間に海を見に出ただけだった。
 泳ぎの達者な親父のことだ。死ぬなんて考えられない。今ごろ、本土の女と駆け落ちでもして…。
 あれは何だろう?
 誰かが岩の近くにいる。
 女だ。
 背中まで隠す長い髪を風になびかせながら、こっちを向いて何か叫んでいる。
 観光客だろうか。この寒いのに水着を着て、腰まで海に浸かっている。
 近寄ってみた。女がほっとした声で言う。
 「ああ、助かったわ。手伝ってくれないかしら?」
 事情を聞くと、どうやら岩の間に指輪を落としたらしい。
 「もうちょっとで手が届きそうなんだけど…」
 「代わりましょう」
 カゴを岩に置いて、俺は岩間に腕を伸ばした。
 女が語りかけてくる。
 「あなた、地元の人?」
 「ええ」
 「じゃあ漁師さんなのね?」
 入り組んだ岩の奥に、広がっている箇所がある。顔を海に漬けそうなほど手を伸ばす。
 「父は漁師でしたが、僕は…」
 「何を採ってらしたの?」
 「クジラです」
 もう少しで届きそうだが、なかなか届かない。
 「モリで突いて、採るのよね」
 「ええ、まあ…」
 「採り逃がしたことはないの?」
 「ないですよ」
 「本当に?」
 くそ、あと少し。
 「…そう言えば、一度だけ逃がしたことがあると言ってましたが」
 何だか柔らかいものに触れた。
 これは…。
 「その時のこと、私、憶えてるわ」
 女が振り向いた。
 その瞬間、腕が砕かれた。
 「痛かったわ。とっても…」
 悲鳴をあげる俺に向けて、女は微笑んだ。その背に、ぞっとするような傷跡があった。
 ぼきぼきと、骨がきしむ。
 「さようなら。ほら、潮が満ちてゆくわ…」
 そして女は、溶けるように海に消えた。
 がっしり俺の腕をくわえたシャコ貝の奥で、俺はそれを掴んだ。
 その瞬間、親父がどうなったのかを知った。



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