短編小説「私がここにいる理由」


 さらに一発殴られた。
 普通、こういう場合は、フロントに連絡を入れることになっている。少なくとも今までは。
 だが今回は、そうしないと思う。まだ。
 この客がなぜ殴るのか、まったく理解できないから。


 小学校の頃、宿題を忘れたクラスメイトが、先生に頬を張られていたのを思い出す。
 なぜだろう。叩かれても、宿題ができるわけじゃないのに。
 頬を張られて済むなら、宿題をやらなくてもいいのだろうか。そんなことを考えた。
 きっと、考えが口をついて出たのだろう。近くに座るカズエが、どうしたのか訪ねてきた。
 だから、そのまま答えた。
 カズエは手を挙げ、大きな声でそれを先生に伝えた。先生はカズエをみんなの前に呼び、その頬を叩こうとした。
 カズエは言った。
 「でも、レイコがそう言ったんです」
 そして、カズエも私も叩かれた。
 別に不条理だとは思わなかった。確かに自分が言ったのだから。


 セックスは、苦痛ではない。さりとて快楽もない。ただひたすら、金を稼ぐ手段であるというだけだ。
 借金もなければ買いたいものもない。この仕事を始めた理由は、単に誘われたからにすぎない。
 私の体はイレモノなのだ。客が快楽を得るための。
 多い日で、指名が3本。お得意もいる。
 それらの客の上で、私は同じ踊りを踊る。
 人は私を「人形のようだ」と言う。控え室でも、私のことをそう噂する声が聞こえてくる。特に興味はない。本当に人形なのかも知れない。
 みんな、明日という日のことを考えているのだろう。私とはだいぶ違う。


 殴るような客の9割は、酔っ払いだ。たいていフロントで断られる。残りは一見普通に見える倒錯者か、期待外れに終わった客だ。
 私の場合は後者が多い。そこでも言われる言葉は「人形」である。
 だが、この客の場合は、そうではなさそうだ。何といっても、まだ何もしていないのだから。
 顔を合わせるなり殴られた。
 鼻血が出る。
 私が何も言わないでいると、客は急に涙を流し始めた。そして私の体を抱きしめる。
 人の趣味は分からない。いろいろな指向の客が来る。この客も、そういう変わった趣味の客の一人なのだろう。
 それとも、と私は考えた。
 「…すまなかった」
 なぜか客が謝る。
 それともこの客が、私の実の父親であることに、何か関係があるのだろうか。
 客の体を抱いて言った。
 「たくさん楽しんでいってください」
 客の泣き声が嗚咽に変わった。



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