あな悔しや、ほどろの道よ。
 我が背に、走り寄りたる獣あり。
 ぎちぎち骨とぞ食らへば、きりきり御魂、
 いざ鬼へと変わりける…


短編小説「ほどろの道行」



 「あまりお勧めはしませんが…」
 と、桐生院さん。手に持った古い鬼の面を、ためつすがめつ見ている。
 「どうしても、と言われるのなら、他の出演者はこれ以外の面をかぶらぬことですね」
 そう言って鬼の面を差し出した。
 若い女性がそれを受け取り、木箱にしまった。
 「お化粧や眼鏡程度なら、まず問題はないはずです。けれど、顔全体を覆うようなものは、とにかく避けてくださいね」
 「分かりました」
 頭を下げ、女性は言った。瞳の印象的な美人だ。この小さな劇団の女性役者さんである。
 ことの発端はこうだ。
 ある古い蔵の奥から、この鬼の面が見つかった。なかなか見事な作りなのだが、どうも邪な気配がする。よって寺に奉納されることになった。
 しかし、その蔵の所有者の娘(この女性だ)が、その前にぜひ演劇に使いたいと申し出たのだ。
 そこで、桐生院さんが鑑定に来たというわけなのだ。
 「すぐにリハに入っても平気でしょうか?」
 「ええ。何かあったら連絡をしてくださいね」
 僕たちはお別れを言って、劇団の事務所を後にした。


 「あれは「片面」ですね」
 車の中で、桐生院さんが言う。もちろん僕が訪ねたからだ。この人は、こちらから訪ねないと何にも話さないのだ。
 「あれと対の面があったはずです。同じ木から作られた面が。でも、それはもうずっと前に焼失しているようです」
 別に調べたわけではない。この人には、そういったことが「見える」のだ。
 僕はまた訪ねてみた。
 「すると、どうなりますか?」
 「劇の内容は何でしょう?」
 僕の質問をまったく無視して、桐生院さんが聞いてきた。まあ、いつものことだ。
 「ええと、「ほどろのミチユキ」ですね。グローブボックスの中に資料がありますよ」
 あごでしゃくって見せた。
 しばらくの間、桐生院さんは、来る前に僕が集めた資料を読んでいた。無表情のまま静かに。と言っても、サングラスだからいつも無表情に見えるのだが。
 なんだか奇妙な圧迫感がある。何となく口を開いてみた。
 「もし、他の出演者が他の面をかぶっていたら、どうなりますかねえ?」
 「…あの面は、今でも片割れを探しているのです。心の善悪一対を表す面ですから、そうなると恐ろしいことに…」
 その時、桐生院さんが息を飲んだ。ある写真をじっと見つめている。
 「停まって! すぐに戻ってください!」
 「は…はいっ!」
 わけが分からぬまま、僕は車をターンさせた。
 桐生院さんは何を見たのだろう。その写真は、数年前の劇団員たちが写っているものだ。初老の座長、100キロはありそうな巨漢の男、そばかすの女、ヒゲの痩せ男、長髪の若者…。
 「タオルか大きめのハンカチ、ありますか?」
 「ええと、妹にもらったやつが…」
 サイドポケットからハンカチを出し、渡した。
 「失礼!」
 言うが早いか、なんと、いきなり針でハンカチを切り裂かれた。
 「ああ、駄菓子屋さんが! ちょっと寄ってください!」
 「えっ? あ、はい!」
 言われるままに車を寄せた。すごく嫌な予感がする。


 とんでもない光景だった。
 女性役者をかばった若者の腕が、ざっくりと切られている。
 鬼の面をつけた役者が、小刀を持って仁王立ちになっている。
 血のついた小刀を振り上げ。
 その目の前に、桐生院さんが割り込んだ。
 叫ぶ暇もなかった。
 僕が渡したハンカチを、サングラスだけ出して顔に巻いている。
 まさに小刀が振り下ろされる瞬間。
 桐生院さんが肌色のつぶてを投げた。それが鬼の面に当たる。
 鬼の面から、苦しそうな呻き声が。
 そして桐生院さんは、ろうろうと語り出した。
 「兄者に再び出会いたく、鹿島の土より還り来る…」
 ほどろの道行の、クライマックスの台詞だ。
 鬼の面から、涙があふれ出る。
 両手を広げ、桐生院さんを抱きしめようとした時。
 銀色の光が走った。
 桐生院さんの針が、鬼の面を真っ二つに断ち割っていた。


 「危ないところでしたね」
 医者の手配が済んで、桐生院さんに言った。今、鬼の面は木箱に入れられ、針で封印がされている。
 「あなたの運転のおかげですよ。ご苦労様です」
 舞台では、早くも掃除が始まった。桐生院さんの投げた大豆が掃き集められている。さっき駄菓子屋で買ったものだ。
 やはり節分という行事には意味がある。
 「女は、面をかぶるもの。もっと早く気づけばよかったのですが…」
 桐生院さんが、しみじみと言った。
 あの美しい女性役者が、写真のそばかす女と、同一人物だったとは。
 整形。すなわち「仮面」である。
 桐生院さんも面を…と、聞こうとして止めた。こっちを向いて、にっこり笑ったからである。
 この人は、人の心も見えるに違いない。
 「さあ、お面の供養をしましょうね」
 そして静かに手を合わせた。



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