短編小説「ブルース」


 ガラスの都会、音たちは群れて舞う。だがそれは霧の向こう、窓の向こう、カーテンの向こうで、この部屋にはただ乾いた静寂だけがある。
 男は冷たい床に横たわっている。彼女にもみくちゃにされて。
 激しい愛のあと、彼女はバスルームに消えた。

 男には分かっていた。もうこれで終わりだと。
 初めは興味本位だったのだろう。自分がどれだけ彼女にとって悪い存在なのか、あるいは体で確認したかったのか。
 もしそうなら、彼女は思いを遂げたことになる。
 水滴の、ガラスを叩く音が聞こえる。曇ったガラスの先に彼女の細い背中が見える。すでに情欲の火の消えた俺に、それは動く壁紙にしか見えない。
 あの愛の日々は何だったのか。
 出会ってすぐに、彼女は俺に溺れた。日に何度も愛し合い、気が付けば、もう俺から離れられなくなっていた。
 気分が不安定な時、何をするにも手に付かない時、そんな彼女を俺はいつも慰めてきた。
 無垢な彼女を。
 初めて会った頃の清純な少女は死んだ。
 そして、心まで犯される前に、彼女は決断したのである。

 何度も熱く口付けをしたその唇が、今は引き締められている。白いワンピースの袖が微かに震える。
 そっと俺に手を延ばし、止めた。
 一瞬、俺の肌に指先が触れる。
 もういい。やめろ。
 開いた手を握り締め、彼女は立った。もう決めたことなのだ。
 彼女の中に宿る小さな命。もちろん俺の子供ではない。俺はそのことを考えていた。
 俺のいない世界に生きてくれ。
 二度と俺に会わないでくれ。
 そうするのが、お前にとって一番いい。
 バッグを手に、彼女は出て行った。二度と振り返らなかった。
 俺の記憶は灰になる…。

 主のいない部屋で、男はなおも横たわっている。
 男の名前は、バージニア・スリムという。
 誰もかえりみない男のために、街がブルースを歌い始める。




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