短編小説「暖かい方程式」



 夜は、みっしりと年をとる。まるで今の私のように。
 凍える恐怖に舞った時代は去った。この最果ての東洋の地に、私は安らかなる眠りを求めたのだ。
 静けさは友よ。宝石のような星々の輝きにこそ平穏あれ。この古い屋敷に、私の眠りを妨げる不粋な客は来ないのだ。
 今夜までは。
 その少女は、小さな体で窓枠に座り、可愛らしい脚を遊ばせていた。この国の学校の制服を着て、臆するでもなく笑顔でこちらを見つめていた。
 私だけの夜にすべり込んだ妖精。そう見えなくもない。
 私は棺の蓋を落とし、少女を見た。赤く光る目で。
 少女の朗らかな声が、私の城に不似合いに聞こえた。
 「おじさん、吸血鬼でしょ?」


 なぜだろう。私の姿をこのような間近で見ながら、なぜ少女は恐怖に脅えないのか。
 私はマントをひるがえし、少女の視線をまっすぐに捕らえた。
 何を思ったか娘よ、しかしそれを知ることはない。お前はやがてこの胸に抱かれ…。
 「うっひゃ〜、さすがにすっごい目だね。おじさん、やっぱ本物ってゆーか、迫力あるよね」
 少女は窓から飛び出して、無造作にこちらに歩いて来る。
 …何者なのだ? 私を退治に来た神の下僕か?
 とまどう私の姿を面白がるように、少女は目の前で続けた。もう手を延ばせば触れられるところだ。
 「あたしさぁ、おじさんの仲間になってもいいよ。てゆーか、血とか吸ってもいいかなって。うん、処女だしーみたいな」
 な、何を言っているのだこの娘は。
 「んでさぁ、夜とか強くなるじゃん? あ、昼はいいんだよ。ガッコとか行ってないしー。みんな夜とか遊んでるしー、すぐ眠たくなっちゃう感じ。それちょ〜ババくさい? みたいな」
 笑いながら少女は、こともあろうに私の胸に手を当ててきた。この千年の時を生きる貴族の私に、である。
 私は凍り付いた。この娘、まったく理解ができん。
 「あ〜、やっぱドキドキしてない。本物じゃん、おじさん」
 そして少女はその白い首を見せ、「ほれほれ」と私に迫る。
 たまらず、私は後じさった。
 にんにくの匂いはない。十字架も帯びてはいない。ではなぜ?
 私は怖かったのだ。私の年齢の10分の1にも満たないこの得体の知れない娘に、私は恐怖していたのだ。
 なんということか。
 「なんだ吸わないの? 日本人の血は合わなげだったりして。おじさん、名前は?」
 自然と言葉が口をつくのを、私は止められなかった。
 「…マグナス…」
 「あはっ、かっちょいー名前だね。あたしはレイミ。明日もまた遊びに来るね〜」
 そして少女は、窓からひらりと去って行った。妖精のように。あるいは夜に舞うコウモリのように。
 私はただ呆然と立っていた。いつまでも。
そう、一番鳥が鳴くまで。
 なんということか。


 娘は次の夜も現れた。
 今度は、トマトジュースを持って来た。
 私のことを勝手にマグっちと呼び、それを飲むように勧めて来た。
 私は偉大なる夜の支配者なのだ。
 そして、飲んだ。なかなかの味だった。


 レイミは、今夜も来てくれるだろうか。
 彼女のために、異国の話をたんと聞かせてやろうと思う。
 トランシルヴァニア、我が祖国の美しい森の話を。強固で堅牢な私の城、風に乗って聞こえるふくろうの声。
 今日は、フルートを吹いてくれるのだそうだ。
 やがて日は沈み、私たちの夜がやって来る。
 残念なのは、棺が一つしかないことだ。まあそれも構わない。レイミは私の妻ではない。私の友であり、また教師でもあるのだから。
 レイミが成人して美しい女になった時、その血を味わう約束をした。
 その日が待ち遠しいような、来なければいいような、今までにない不思議な気持ちでいる。
 私は偉大なる夜の支配者だ。レイミのためだけの。



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